僕の作ったジャズ・ヒストリー 21 … スイング時代 1936年

世界の情勢 … ファシズムの拡大とアメリカの再生

世界史の大きな流れは、日独伊枢軸国と英米仏連合国の対立がより深まり、第二次世界大戦が不可避なものになっていった年と言うことができますが、具体的にはどのように動いていたのでしょう?簡単に振り返ってみましょう。

枢軸国
2・26事件行進する反乱軍 <日本>
この年の日本の出来事を見ると、年の初めの1月13日に前年に結成された日劇ダンシング・チームが初公演を行ったという記事が出ています。そしてその演目は『ジャズとダンス』だったというのです。ジャズなどが「敵性音楽」として演奏などが禁止されるのは、この後1943年(昭和18年)のことでした。そういった文化面とは異なり、1月15日日本はロンドン軍縮会議から脱退し、その1か月半後にはクーデターにより軍部内閣の樹立を目論む陸軍青年将校たちによる「二・二六事件」が勃発します。高橋是清蔵相、齋藤実内大臣らが殺害されます。その後いろいろな経緯はありますが、陸軍が政治に介入していくこととなります。
<ドイツ>
一方ヒトラー率いるナチス・ドイツは3月7日1925年のロカルノ条約により非武装地帯となっていたラインラントに進駐します。しかしドイツは1936〜37年の2年間は、積極外交はスペイン戦争でのフランコ軍支援だけにとどめ、もっぱら来たるべき戦争に備えて軍備の増強とそれを支える国内経済の整備(「四か年計画」の策定など)、国威発揚の期間とします。
その「国威発揚」の最たるものが8月に開催された「ベルリン・オリンピック」です。もともとオリンピックのベルリン開催はナチス政権成立前の1931年に決まっていました。ヒトラーは当初、オリンピックを「ユダヤ主義に汚された芝居だ」とけなしていましたが、34年にイタリアのムッソリーニがサッカーの第2回ワールドカップをイタリアで開催し、ファシズムの宣伝に利用して成功したのを見て、「アーリア人種の優秀さを証明する」機会と考えるようになり、また宣伝相ゲッベルスも開催に力を入れたため、全面的なナチス宣伝の大会として開催されるのです。宣伝の手段として初めて「聖火リレー」が採り入れられ、アテネからベルリンまで、ナチ隊員の伴走で実施されました。また、女性映画監督レニ=リーフェンシュタールによる記録映画『オリンピア、民族の祭典』が製作され、ナチズムのプロパガンダが行われました。
映画監督リーフェンシュタールは後に回想録で、ヒトラー自身はオリンピック開催に消極的だったと語っています。それはドイツはメダルを獲得するチャンスがない。アメリカ人が勝利のほとんどをかっさらい、黒人がスターとなるだろうと考えていたというのです。しかしその気持ちを翻意させたのは、ドイツ人元ヘヴィー級チャンピョン、マックス・シュメリングが上り坂のアメリカのヘヴィー級ボクサー、ジョー・ルイスにノックアウト勝ちを収めたことも大きく影響していると思われます。この勝利に喜んだヒトラーはシュメリングの奥さんにお祝いのコメントを送ったほどでした。
結果的にはドイツは金メダル33個、銀26、銅30計89個のメダルを獲得し、メダル獲得数第1位でした。因みに2位はアメリカで56個、日本は18個で第8位でした。
<イタリア>
1935年強行したエチオピアの併合は国際的に厳しい批判を受け、国際連盟は経済制裁を決議します。さらに1936年スペインに起こった内乱に際し、フランコ将軍の反乱軍を支援したことからイギリス、フランスと対立することとなり、同じく反乱軍を支援しイギリス、フランスと対立していたドイツと急速に接近していき、10月ベルリン=ローマ枢軸が成立します。翌37年にはこれに日本が加わり、「独伊防共協定」が成立していくことになります。
アメリカ
1936年大統領選挙 アメリカでは、11月3日に大統領選挙が行われ 民主党の現職フランクリン・ルーズヴェルトが圧勝します。左図で明らかなように48州中対立候補共和党のアルフレッド・ランドン(Alfred Landon)が獲得した州は2州だけであり、正に圧勝でした。アメリカ経済は不況を脱却したとはまだ言えない状況でしたが、ルーズヴェルトが強力に推し進めるニュー・ディール政策の社会保障や失業給付のような政策が大半のアメリカ人に高い人気を得ており、不況脱却への手ごたえを多くの民衆が感じていたことから支持を集めたものと思われます。
太平洋の向こう側では、1日本が満州へ侵攻し、中国の抵抗を鎮圧し、傀儡国家満州国を作っていましたし、ムソリーニの率いるイタリアは、リビアで領土を広げ、1935 年にはエチオピアを征服していました。さらにドイツは、ナチスの指導者ヒトラーの下で、経済を軍事化し、1936年ベルサイユ条約で非武装化されていたラインラントを再び占領していました。しかし第1次世界大戦に参戦して勝利したものの世界の民主主義化のための戦いには失敗した感じ、幻滅していたアメリカはいかなる状況においても今回の紛争当事国に援助を提供することはないと発表し、1935年に制定された中立法により、外国の戦争に関与しない方針を取るのです。その方針を覆して各紛争にアメリカが参戦するようになるのは未だ先のことです。

アメリカのスポーツ

ジョー・ルイス <ボクシング>
この頃アメリカには、少年時代マイルス・ディヴィスも夢中になったという大スターが登場します。ジャック・ジョンソン以来2里目の黒人ヘヴィー級チャンピョンのジョー・ルイス(写真右)です。ルイスはアマチュア・ボクサーとして活躍していましたが、地元デトロイトの黒人ノミ屋に見込まれ、1934年7月にプロ・デビューします。そして1935年6月19日元世界ヘビー級チャンピョン、プリモ・カルネラにKO勝ちしたことで一挙に注目を集める存在となります。
黒人が世界ヘビー級王座に挑戦することは公式には禁止されていませんでしたが、黒人差別が当たり前だった時代に黒人初の世界ヘビー級王者となったジャック・ジョンソンは白人の神経を逆なでする行為を続け、白人たちの間では嫌われ、ジャクソンの後に続く新たな黒人世界ヘビー級王者の出現を白人たちは警戒していました。このことをよく知るルイスとマネジメントは、ルイスの謙虚さとスポーツマンシップを目立たせて世に出すことで、ジョンソンが残した黒人チャンピョンへの嫌悪感を払拭して、世界ヘビー級王座挑戦への道を切り開こうとしました。
そのためルイスのマネジメントは、ジョンソンが偉そうな態度や派手な暮らしぶりで大衆から大きな反発を買ったことを考慮して、「リングに倒れた対戦相手をあざ笑わない」、「きれいに生きて、きれいに戦う」など普段の振る舞いを管理する「7つの戒め」を作り、ルイスのメディア・イメージを慎重かつ意図的に作り続けました。その結果、ルイスは白人メディアでも、謙虚で清く正しい生き方をする人物として描かれ、ルイスの有名人としての地位は急速に上がっていきます。
また白人のマスメディアが気が進まないながらもルイスのことを記事にしたのには他の事情もありました。1930年代半ばごろのボクシング界は市場性のあるヒーローを喉から手が出るほど必要としていたのです。1929年にジャック・デンプシーが引退して以来、ボクシングはギャンブル、八百長試合、無気力試合、犯罪組織による支配などが混じり合った薄汚い場所となっていたのです。正に「1935年にルイスがニューヨークに到着したとき、ボクシングは偉大なチャンピオンに飢えていた」のです。
そして先述のように1935年6月19日イタリア出身の元チャンピョン、プリモ・カルネラを倒し、1936年6月19日今度はドイツ出身の元チャンピョン、マックス・シュメリングと対戦することになります。当然これらはカルネらはムッソリーのファシズム、シュメルリングはヒトラーのナチスを象徴させ、それをルイスが打ち倒すというストーリーを大衆は思い描きました。しかし結果はルイスは、プロ25戦目にして初の黒星をKOで喫することになるのです。
この試合を観戦にしていた詩人で作家のラングストン・ヒューズは、「私がセブンスアベニューを歩いていたところ、子供のように泣いている男や、頭を抱えて歩道の縁石に座っている女を見た。ジョーがノックアウトされたというニュースが届けられた時、アメリカの至る所で人々は泣いた」とルイスの敗北に対するアメリカの反応を書いています。その衝撃の大きさが分かります。
この後ルイスは翌1937年8月22日世界ヘビー級王者ジェームス・J・ブラドックを8回KOで破り、世界ヘビー級王者の地位に就くのです。そして1938年6月シュメリングとの再戦がヤンキー・スタジアムに7万人を超す観衆を集めて行われ、今度は124秒の間に3度のダウンを奪ってルイスが圧勝するのです。
1936年第1回野球の殿堂入り選手 <プロ野球>
1936年の大リーグは、アメリカン・リーグが「ニューヨーク・ヤンキース」、ナショナル・リーグが「ニューヨーク・ジャイアンツ」が優勝し、ワールド・シリーズはヤンキースが制しました。またこの年3年後の1939年に「野球の殿堂」(National Baseball Hall of Fame and Museum)の開設が決定し、それに先立って殿堂入りするプレイヤーの選出が行われました。右の写真はその選ばれた5人です。左からタイ・カップ、ベーブ・ルース、ホーナス・ワグナー、クリスティ・マシューソン、ウォルター・ジョンソンです。

アメリカの大衆芸能

映画
「戦艦バウンティ号の叛乱」ポスター この年の第8回(1936年3月発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのは「戦艦バウンティ号の叛乱」(Mutiny on the Bounty)。左写真はそのポスター。主演はイギリスの名優チャールズ・ロートン、前年度オスカーを手にしたクラーク・ゲーブルも出演しています。物語は18世紀後半タヒチ島からジャマイカ島に向かった戦艦バウンティ号で実際に起こった反乱を題材としているのだそうです。日本では1938年に公開され、その時は戦艦で叛乱が起こるのはまずいだろうということで、「南海征服」という日本タイトルが付けられたといいます。しかし開戦間近となった1938年でもまだアメリカ映画が公開されていたことが、僕には意外です。
ポピュラー・ミュージック
1936年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
順位アーティスト曲名
ビング・クロスビー(Bing Crosby)ペニーズ・フロム・ヘヴン(Pennies from heaven)
フレッド・アステア(Fred Astaire)今宵のあなた(The way you look tonight)
ベニー・グッドマン(Benny Goodman)グッディ、グッディ(Goody Goody)
ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)サマータイム(Summertime)
ベニー・グッドマン(Benny Goodman)グローリー・オブ・ラヴ(Glory of love)
レッドベリー(Leadbelly)グッドナイト・アイリーン(Goodnight Irene)
ロバート・ジョンソン(Robert Johnson)クロスロード・ブルース(Cross road blues)
シェップ・フィールズ・アンド・ヒズ・リッピング・リズム・オーケストラ(Shep Fields & his ripping rhythm orchestra)ディド・アイ・リメンバー?(Did I remember ?)
ファッツ・ウォーラー(Fats Waller)嘘は罪(It's a sin to tell a lie)
10トミー・ドーシー(Tommy Dorsey)アローン(Alone)

年間ヒットチャートの第1位に輝いたのは、ビング・クロスビーの「ペニーズ・フロム・ヘヴン」。ジョニー・バーク作詞アーサー・ジョンソン作曲でこの年1936年公開の同盟タイトルの映画で使われました。2位はフレッド・アステアの「今宵のあなた」。両曲とも現在でもスタンダードとしてジャズメンに演奏されています。そして両曲ともこの年ビリー・ホリデイもレコーディングしています。
3位と5位には昨年大ブレークしたベニー・グッドマンのナンバーが入っていますが、これは「ベニー・グッドマン 1936年」で取り上げます。4位のビリー・ホリデイの「サマータイム」が意外です。前年10月10日ブロードウェイで初演された主な出演者は黒人だけというミュージカルの冒頭で歌われるナンバーです。これについてもが「ビリー・ホリデイ 1936年」で取り上げます。
レッドベリー 6位も非常に意外です。レッドベリー(写真右)は以前にも登場しています(「僕の作ったジャズ・ヒストリー 19 初期のスイング 1934年」)です。殺人未遂罪でルイジアナ州の刑務所に収監されていたところをジョンとアラン・ロマックス親子に発見されました。親子は彼に才能や演奏者としての特異性を見出し、議会図書館に数百曲もの録音を残しました。また親子はルイジアナ州知事にレッドベリーの放免を働きかけ、1934年後半に実現します。しかし彼は1939年脅迫の罪名で再び刑務所に入ることになります。この間に吹き込まれたレコードであると思われます。この曲は古くからあるアメリカのフォーク・ソングですが、このレッドベリーのレコードで初めて世に紹介されることとなります。後にピート・シーガーのウィーバーズやフランク・シナトラが歌い大ヒットとなり、今ではスタンダード・ナンバーとなっています。
ぼくはこの"Top 60 pop songs"というサイトを見ていて、時たま「ホンマかいな?」と思うことがあります。例えば1929年度第5位にランクされたチャーリー・パットンの『ポニー・ブルース』そしてこの7位にランクされたロバート・ジョンソンの『クロスロード・ブルース』です。伝説のブルース・マンと言われる彼のこの曲は後にエリック・クラプトンがメンバーだったスーパー・グループ、<クリーム>に取り上げられ大ヒットします。これについても「ロバート・ジョンソン 1936年」で取り上げます。
8位にランクされたシェップ・フィールズ・アンド・ヒズ・リッピング・リズム・オーケストラは、元々クラリネットやサックスをプレイしていたシェップ・フィールズが率いたダンス・バンドです。9位のファッツ・ウォーラーについても「ファッツ・ウォーラー 1936年」で取り上げます。トミー・ドーシーについても「トミー・ドーシー 1936年」で取り上げますが、10位にランクされたこの曲(『アローン』)は収録されていません。
11位以下のランキングを見ても、ベニー・グッドマンやビリー・ホリデイ、トミー・ドーシーなどジャズ系が複数曲入っていますが、ロバート・ジョンソンも他に2曲ほどランクインしているのが驚きです。

前置きが長くなりました。1936年のジャズの動きを見て行きましょう。

「スイング・ジャズ」の広まり

前年の1935年ベニー・グッドマンとともに「スイング時代」は始まりました。つまりこの年はスイング2年目、「スイング・ジャズ」がより広まっていく時代と言えます。そしてその中心人物はやはりベニー・グッドマンと言えるでしょう。
ベニー・グッドマン
これまでここで取り上げるレコーディング数の最も多いアーティストと言えばデューク・エリントンが常連でしたがこの年はベニー・グッドマンが最多となります。
1月24日ヘレン・ウォードが歌って録音した「グッディ、グッディ」はこの年のヒット・チャート3位にランクされ、同じウォードが歌って6月15日に録音した「ジーズ・フーリッシュ・シングス」は第12位に、1月24日録音のインスト・ナンバー「サヴォイでストンプ」は34位に、ウォードがヴォーカルを取った1月24日録音の「イッツ・ビーン・ソー・ロング」は43位に、8月13日録音の「私に頼むわ」が45位にランクインしている。ベスト50に5曲がランク・インしています。
またこの年はテディ・ウィルソン、ジーン・クルーパとのトリオ演奏・録音も継続して行われる傍ら、8月21日にはヴァイブラフォンのライオネル・ハンプトンを加えたカルテットによる録音も開始しています。実に活発に活動を行っています。詳しくは「ベニー・グッドマン 1936年」をご覧ください。
その他白人ビッグ・バンド
[トミー・ドーシー]
前年1935年の春に兄のジミーとケンカ別れしたトミー・ドーシーはバンドをたたもうとしていたジョー・ヘイムズのバンドを引き継ぎ、自分のバンドに仕立て直していきます。それは実にお素早い行動で、9月にはレコーディングを開始し、レコーディングや各ボールルームなどへの出演など活発な活動を行っています。ディスコグラフィーを見てもレコーディング数は結構数が多いのですが、僕が持っている1936年の録音は、3月に行われたピック・アップ・メンバー「クランベイク・セヴン」による演奏からです。
トミー・ドーシー楽団もこの年受けに入り、"Alone"が第10位、"The Music Goes Round & Round"が11位、「センチになって」(I'm getting sentimental over you)が20位、"You"が44位、"San Francisco "が51位に5曲がランク・インしています。しかし残念ながら僕はどれも保有していません。また「センチになって」はドーシー楽団の看板曲ですが、1934年にドーシー・ブラザーズで初吹込みを行い、この1936年は2度目、そして3度目が1940年で僕の保有するレコードには1940年版が収録されています。詳しくは「トミー・ドーシー 1936年」をご覧ください。
[ボブ・クロスビー]
結成は1935年で1935年中にレコーディングも開始していますが、その音源を収録したレコードは持っておらず、1936年録音分から保有している重要バンドが「ボブ・クロスビー・アンド・ヒズ・オーケストラ」です。ボブ・クロスビーは人気絶頂の歌手ビング・クロスビーの実弟です。そもそもは歌手を目指しザ・ドーシー・ブラザーズなどで歌っていました。彼は1935年不況で経営に行き詰い解散となったベン・ポラック楽団のメンバーたちから乞われて、バンドのリーダーとなります。詳しくは「ボブ・クロスビー 1936年」をご覧ください。
[カサ・ロマ・オーケストラ]
この年のカサ・ロマ・オーケストラの録音は、古いナンバーをダンサブルなナンバーに仕立て直した録音が多いような気がする。詳しくは「カサ・ロマ・オーケストラ 1936年」をご覧ください。
[ジャック・ティーガーデン]
ジャック・ティーガーデンの名前が見えるこの年の録音はフランキー・トランバウアーの楽団に加わったものだけです。ですので本来は「フランキー・トランバウアー」で項を立てるべきとも思いますが、収録レコードがティーガーデン名義のため、ティーガーデンで立てることとしました。トランバウアーはビックス・バイダーベックを擁しジャズ史に残る名演を記録した人物ですが、この年の録音ではティーガーデンの歌手としての人気に頼るようなポップな演奏になってしまったようです。詳しくは「ジャック・ティーガーデン 1936年」をご覧ください。
[ウィンギー・マノン]
久しぶりに登場するウィンギー・マノン。マノンはジャズ史上に残るような大きな業績を残した人ではありませんが、何というか普通の職業ジャズマンという感じがします。こういう人の演奏するジャズは先鋭的ではなく時代の中庸に位置するもので、そういった意味ではこれこそが時代を代表するジャズということもできるでしょう。詳しくは「ウィンギー・マノン 1936年」をご覧ください。
黒人ビッグ・バンド
[フレッチャー・ヘンダーソン]
ビッグ・バンドの名門「フレッチャー・ヘンダーソン・アンド・ヒズ・オーケストラ」は1934年バンドを解散し、1935年はベニー・グッドマンなどにアレンジを提供するといった音楽活動を行っていました。自らのアレンジが受けていることを見て「ようし、俺も!」と思ったのかどうかは分かりませんが、この年バンドを復活させ、年間に19曲のレコーディングを行います。それがなかなか良いのです。詳しくは「フレッチャー・ヘンダーソン 1936年」をご覧ください。
[デューク・エリントン]
柴田浩一氏はその著『デューク・エリントン』で、この年は個人技を十二分に発揮させるため、その人のために書いた最初の作品『クーティのコンチェルト』、『バーニーのコンチェルト』を、この年初めて発表したことを最初に掲げています。ヒット・チャートには2月27日にレコーディングを行った「エコーズ・オブ・ハーレム」が56位にランクインしています。この曲は副題が「クーティーズ・コンチェルト」とあり、クーティーはオープンで、ミュートでその妙技をいかんなく発揮しています。このことはデュークにとっても自信になったと思われます。
またこの年に吹き込まれた重要曲としては、ファン・ティゾールの永遠のスタンダード「キャラヴァン」が12月18日吹き込まれますが、意外なのはこれがクラリネット奏者のバーニー・ビガードのバンド「ヒズ・ジャゾペイターズ」名義で吹き込まれたことです。詳しくは「デューク・エリントン 1936年」をご覧ください。
[チック・ウェッブ]
この年チック・ウエッブのレコードで重要なのは、何といってもジャズ史上最高の女性歌手の一人、エラ・フィッツジェラルドが吹込みに加わっていることです。エラは1934年11月21日アポロ・シアターのアマチュア・ナイツで優勝し、ウエッブのバンドと契約を行います。ディスコグラフィーによれば、1935年に4面分の録音を行いますが、僕の持っているチックのレコードには収録されていません。しかし僕の持っている1936年のチックのレコードには約20面分の彼女の歌が録音されています。
またエラはこの年3月に行われたテディ・ウィルソンのブランズウィック・セッションでも起用されます。ウィルソンのブランズウィック・セッションと言えばビリー・ホリデイが最も多く登場する歌手です。そのビリーに匹敵する歌手として認められたということでしょうか?また11月にはベニー・グッドマンの楽団とも録音を行いますが、これは当時大問題となり、直ぐに発売中止になったそうです。詳しくは「チック・ウェッブ 1936年」及び「エラ・フィッツジェラルド 1936年」をご覧ください。
[ジミー・ランスフォード]
僕がこの年の録音で保有しているのは2曲だけだが、その内8月録音の「オルガン・グラインダーズ・スイング」は、ヒット・チャートで第40位にランクされるヒットとなりました。詳しくは「ジミー・ランスフォード 1936年」をご覧ください。
[ルイ・アームストロング]
恒常的なバンドではありませんが、ルイ・アームストロングもここで取り上げておきましょう。この年はポップス・ナンバーのレコーディングが多くなったようです。その中で僕が注目するのは、2月の録音でスイング時代白人最高のトランぺッターと言われたバニー・ベリガンとの共演が目を引きます。一体どのような事情でこの吹込みが実現したのか知りたいところです。詳しくは「ルイ・アームストロング 1936年」をご覧ください。
カウント・ベイシーの発見とニュー・ヨーク進出 そして 注目のニュー・カマー … レスター・ヤング
カウント・ベイシーは久しぶりの登場です。ベイシーはベニー・モーテンの楽団に在籍していましたが、1932年モーテンの楽団はヴィクターとの契約が切れ、レコーディングは行われなくなっていました。しかしモーテンのバンドは地元カンサス・シティでは最強を謡われ、大いに活躍していたのです。しかし御大のモーテンは1935年4月2日簡単なはずの扁桃腺の手術が失敗し、この世を去ってしまいます。ベニーが不在となったバンドを弟のバスター・モーテンが引き継ぎますが、ベイシーはこのバンドを辞め、カンサス・シティでソロやトリオで演奏を行っていたといいます。
やがて<ブルー・デヴィルズ>時代の仲間たちと1935年の暮れごろ、ベイシーが単独でリーダーとなり、10人編成まで拡大したバンド、“Count Basie and his men”を結成、カンサス・シティのリノ・クラブへ出演します。若きチャーリー・パーカーが忍び込んで聴いていたのはこの頃であったと思わます。
1936年5月ハモンド氏はベニー・グッドマンをプロデュースするためシカゴに来ていました。当時カンサス・シティの小さな電波実験局W9XBYは、毎晩のようにリノ・クラブのバンド演奏を放送していました。そしてその5月のある晩、ハモンド氏はカー・ラジオから流れる“Count Basie and his men”を耳にするのです。ベイシーらの演奏を聴いたハモンド氏は、居ても立ってもいられず直ぐに車を駆ってカンサス・シティに向かうのです。カンサス・シティのリノ・クラブに駆け付けたハモンド氏は、さっそく自分のテーブルにベイシーを呼んで、いかに自分が感激したかを語り、何としてもこのバンドを全米中に知らしめる必要があると決意するのです。すごい情熱です。
ハモンド氏はニュー・ヨークに戻ると早速このバンドの素晴らしさを雑誌などに頻繁に紹介し、レコード会社Brunswickを説得して契約を結ぶことを決意させます。ハモンド氏がBrunswickとの契約書を持ってカンサス・シティに向かうが、鼻先でデイヴ・カップのDeccaレコードに専属契約をかすめ取られてしまうのです。Deccaレコードは「ジョン・ハモンドの使いの者だ」と言ってベイシーにサインをさせたといいます。
さてこれでベイシー達はニュー・ヨークに進出することになるのですが、ストレートにニュー・ヨークへは向かわず、シカゴを経由することになります。36年10月シカゴのサウス・サイドにある<グランド・テラス>に出演することが決定します。そしてハモンド氏の本当に偉いところはここからです。契約をDeccaに取られ、ハモンド氏は関係ないと言えば関係なくなりますが、ニュー・ヨークに進出するに当たってのアドヴァイスを親身に行うのです。さらにデッカのあるニューヨークに行ってしまう前に、ピックアップ・メンバー5名、バンド名を”Jones-Smith incorporated”とし、1936年11月9日にレコーディングを行うのです。これはベイシーにとっては久しぶり、そしてレスター・ヤングにとっては初のレコーディングとなるのです。
何とかシカゴの<グランド・テラス>を乗り切り、ベイシー・バンドはバッファローのヴァンドーム・ホテルやピッツバーグのホテル・ウィリアム・ペンなどに出演しながら、ニュー・ヨークを目指し、1936年12月のクリスマス・ウィークに彼らは「ローズランド・ボールルーム」においてニューヨーク公演の幕を切ったのでした。評論家やミュージシャンの多くはダイナミックなスイング感と優れたソロイスト達によるリラックスしたアドリブ共演に酔いましたが、一般的な受けは同じカンサス・シティ出身のアンディ・カーク楽団の演奏の方に人気が集まったといいます。当時のニューヨークのジャズは複雑なアレンジを洗練された、メカニックで整然とした演奏でスマートにこなすやり方が受けていたのです。詳しくは「カウント・ベイシー 1936年」をご覧ください。
アンディ・カークと注目のニュー・カマー … メリー・ルー・ウィリアムス
ベイシーの楽歴に上記のように書かれるアンディ・カーク。メリー・ルー・ウィリアムスと共に日本では最も過小評価されているジャズメンの一人と言ってもよいのではないでしょうか?粟村政昭氏はその著『ジャズ・レコード・ブック』において、「その昔彼の率いるオーケストラは、カンサス・シティ在住のバンドでありながら、ベニー・モーテンに代表されるリフ中心のジャンプ・バンドには聴かれない洒落たアレンジの数々のアレンジを用い、力強さと野暮ったさで売ったカンサス・シティ・グループの中で一際異彩を放つ存在となっていた」と書いています。。
そしてその功績は「主としてピアニスト兼アレンジャーであったメリー・ルー・ウィリアムスの手に帰すべきものであった」と述べています。粟村氏の『ジャズ・レコード・ブック』は183名のジャズマンを取り上げていますが、ウィリアムズはその中で唯一の女性器楽奏者です。その中で粟村師は次のように彼女を紹介しています。
「ジャズ史上最高の女性器楽奏者と言われる彼女は、かつてアンディ・カークのバンドに提供した優れたアレンジの数々と”Lady who swings the band”と讃えられた簡潔でブルース・フィーリング溢れたピアノ・ソロによってスイング・イーラに忘れられない足跡を残した。彼女はアール・ハインズから大きな影響を受けブギー並びにブルースの名手として名を成したが、時代の変遷と共に(中略)モンクやバド・パウエルの影響さえ巧みに消化して我々を驚かせた。(中略)また、ランスフォード、BG、ノーヴォ、エリントンといった有力バンドに提供した彼女のアレンジの素晴らしさについてもご存知の方は多いに違いない」と。
ピアニストとして一流でさらに作・編曲においても素晴らしい才能を発揮した女性アーティストはこの後穐吉敏子氏の登場まで例を見ないのではないでしょうか?
ベイシーの項で述べたように、ベイシー達がニュー・ヨークに登場した時カーク達の変わった名のバンド”Clouds of joy”もニュー・ヨークにいてレコーディングを行っています。またこの年録音の"Lotta sax appeal"が年間ヒット・チャートの28位に、"Christopher Columbus"が59位に、"What will I tell my heart"が60位にランクされるヒットになりますが、いずれも残念ながら保有していません。詳しくは「アンディ・カーク 1936年」及び「メリー・ルー・ウィリアムス 1936年」をご覧ください。
テディ・ウィルソンとビリー・ホリデイ
テディ・ウィルソンとビリー・ホリディ この年もベニー・グッドマンのセッションや自身のブランズウィックにおけるセッション・シリーズなど活発な活動を行います。ブランズウィック・セッションにおいて歌手として参加しているのはこの年もビリー・ホリデイが最も多いですが、ベニー・グッドマンとセットでBG楽団の専属歌手ヘレン・ウォードも二人とも変名で加わっています。レコードとしてはビリーの参加録音はビリーのレコードに、ビリー不参加、およびインストだけのものはテディ・ウィルソンのレコードに収録されています。
そして注目はこの年初めて「ビリー・ホリデイ・アンド・ハー・オーケストラ」というビリー名義のレコーディングが行われます。最初の録音は6月で、これにはバニー・ベリガンやアーティ・ショウ、ジョー・ブシュキンといった気鋭の白人アーティストが加わった白黒混成バンドがバックを務めています。これもジョン・ハモンド氏の差配でしょう。この自身名義での最初の録音でのレコード「サマータイム」が36年度ヒットチャートの第3位という大ヒットに、「後悔しないわ」(No regrets)が54位というヒットになります。さらに9月29日の自己名義第2回録音の「結構なロマンス」(A fine romance)が第53位になります。
テディ・ウィルソンのブランズウィック・セッションに参加したものでは、6月30日録音の「想い出のたね」(These foolish things)が年間第35位にランクされています。ランキングではビリー名義になっていますが、本来は「テディ・ウィルソン・アンド・ヒズ・オーケストラ」とすべきでしょう。その他詳しくは「テディ・ウィルソン 1936年」並びに「ビリー・ホリデイ 1936年」をご覧ください。
[ジミー・ヌーン]
シカゴを中心に活動してたミュージシャンの定番、ジミー・ヌーンには4曲ほど録音があります。バンド名は<ジミー・ヌーンズ・アンド・ヒズ・ニュー・オリンズ・バンド>に変わっています。やはりシカゴでは、ニュー・オリンズ・ジャズが人気があったのでしょうか?内容はスイングとディキシーとの折衷的な演奏ですが、ヌーン地震や他のメンバーのソロも素晴らしく聴き応えのある作品が多いように感じます。詳しくは「ジミー・ヌーン 1936年」をご覧ください。
[ベニー・カーター]
スイング時代の三大アルト奏者の一人、ベニー・カーターはヨーロッパ楽旅中だったらしくレコーディングは、イギリス・ロンドンにて現地のミュージシャンと行っている。力量不足ということもあるのだろうあまり面白い録音はないように思えます。詳しくは「ベニー・カーター 1936年」をご覧ください。
[ジャンゴ・ラインハルト]
僕の持っているこの年のジャンゴ・ラインハルトの録音は、「フランス・ホット・クラブ五重奏団」との録音のみ4曲です。演目はアメリカの古くからの曲やスタンダードが多いようです。詳しくは「ジャンゴ・ラインハルト 1936年」をご覧ください。
リル・アームストロング
女性シンガー
[ミルドレッド・ベイリー]
僕の持っているこの年の録音は1曲のみです。バックは白黒混合バンドで、BGのバンドで活躍しているメンバーが目立ちます。詳しくは「ミルドレッド・ベイリー 1936年」をご覧ください。
[リル・アームストロング]
リル・アームストロング(写真右)はご存じルイ・アームストロングの奥さん。かつてルイと共に「ホット・ファイヴ」のメンバーとしてピアノを演奏していましたが、ここでは歌手としてレコーディングを行っています。彼女とルイは完全に分かれて生活していましたが、正式に離婚するのは1938年なのでこの時点ではまだリル・アームストロングでした。
彼女はあまり日本には紹介されていないようですが、活発な音楽活動を続けていて、レコード解説の野口久光氏は、彼女のヴォーカルは、ヴァイタルでスイング感も抜群、超一流であると述べていまする。詳しくは「リル・アームストロング 1936年」をご覧ください。
アルバート・アモンズ
ブギー・ウギー・ピアノ
[ミード・ラックス・ルイス]
僕の持っているこの年のルイスの録音は2曲のみです。その1曲「ヤンシー・スペシャル」は先輩ブギー・ウギー・ピアニスト、ジミー・ヤンシーに捧げたナンバー。もう1曲チェレスタ・ブルースはブギー・ウギーをチェレスタで弾いたものですが、僕にはキワモノにしか聴こえません。詳しくは「ミード・ラックス・ルイス 1936年」をご覧ください。
[アルバート・アモンズ(写真左)]
油井正一氏はミード・ラックス・ルイスと同じタクシー会社で働いていた運ちゃん仲間と紹介しています。この二人は連弾などもよくやっていた仲間のようです。スイング末からモダン期にかけて活躍したテナー・サックス奏者ジーン・アモンズのおとっつあんです。これはバンドもののブギー・ウギーで、さぞやパーティーなどでは大受けしたと想像されます。詳しくは「アルバート・アモンズ 1936年」をご覧ください。
ブルース
ロバート・ジョンソン [ロバート・ジョンソン]
伝説のブルース・マン、ロバート・ジョンソン(写真右)は、1936年と37年にレコーディングを行い、1938年8月16日に27歳の若さで亡くなりました(1911年5月8日生まれ)。ローリング・ストーンズのキース・リチャーズやエリック・クラプトンなどが激賞していることで知られる伝説の巨人です。彼の最も有名な逸話はクロス・ロード伝説でしょう。色々なヴァージョンがあるようですが、僕が記憶しているのは、草木も眠る丑三つ時クロス・ロード(四辻)で悪魔に魂を担保に驚異的なギター・テクニックを身に着けたというものです。僕はギター・テクニックについてはよく分からないが、先輩のロニー・ジョンソンやブラインド・ブレイクの方が上のように感じる。ただジョンソンのプレイは非常にエモーショナルであり、<ど>ブルースという感じです。
そんなジョンソンのレコードが年間ヒット・チャートに7位の「クロス・ロード・ブルース」を筆頭に、21位「スイート・ホーム・シカゴ」、50位「30 20ブルース」と3曲もランク・インしているのは意外中の意外です。またジョン・ハモンド氏は『スピリチュアルズ・トゥ・スイング』コンサートを企画した際に、彼に出演してもらおうと探したのですが、その時彼は既に鬼籍に入っていため果たせず、代わりにビッグ・ビル・ブルーンジーを出演させました。このことはジョン・ハモンド氏も、ロバート・ジョンソンこそブルースを代表するミュージシャンだと思っていたということでもあります。詳しくは「ロバート・ジョンソン 1936年」をご覧ください。
他のブルース・ピープル
僕の持っているこの年のブルースのレコードは数少ないですが、「ブルース・ピープル 1936年」にまとめましたので、ご参照ください。
他エンターテインメント
ジャグ・ミュージック…ジャグ・ミュージックはジャズやブルースと非常に近しい音楽ですが、僕の持っているこの年のジャグ・ミュージックのレコードはありません。
バーバーショップ・コーラス他 「バーバーショップ・コーラス」や「ゴスペル」の流れをくむ人気グループ、ジ・インクスポッツ、人気アニメ「ポパイ」の声優が吹き込んだどちらかと言えばキワモノ系の吹込みがありましたので、「エンターテインメント 1936年」をご覧ください。

ミュージシャンの自伝・評伝が語る1936年

このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1936年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみます。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。なお、レスター・ヤングはこの年からレコーディングを行っており、本篇にも取り上げていますので今回から割愛します。
ミュージシャン名生年月日生地自伝・評伝著者
セロニアス・モンク1917年10月10日ノース・カロライナ州・ロッキー・マウント評伝『セロニアス・モンク』ロビン・ケリー
チャーリー・パーカー1920年8月29日ミズーリ州カンサス・シティ評伝『バードは生きている』ロス・ラッセル
チャールズ・ミンガス1922年4月22日アリゾナ州ノガレス自伝『負け犬の下で』チャールズ・ミンガス(
マイルス・ディヴィス1926年5月26日イリノイ州オルトン自伝『自叙伝』マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ
ジョン・コルトレーン1926年9月23日ノース・カロライナ州ハムレット評伝『ジョン・コルトレーン』藤岡靖洋
スタン・ゲッツ1927年2月2日ペンシルヴァニア州フィラデルフィア評伝『スタン・ゲッツ』ドナルド・L・マギン
ビル・エヴァンズ1929年8月16日ニュージャージー州プレンフィールド評伝『幾つかの事情』中山康樹
穐吉敏子1929年12月12日旧満州国遼陽自伝『ジャズと生きる』穐吉敏子
ウエイン・ショーター1933年8月25日ニュージャージー州ニューアーク評伝『フットプリンツ』ミシェル・マーサー
[セロニアス・モンク]
モンクが伝道師との旅からニュー・ヨークに戻ったのは19歳の時というので、1936か7年です。ニューヨークに戻ったモンクは、ルビー・リチャードソンと付き合いだします。ルビーは姉マリオンの紹介で、モンクの一学年上でした。モンクはルビーと結婚しようと考えましたが、お金がなくニューヨーク中のいたるところで仕事をしてお金を稼いだといいます。そんな文句に恋人のルビーはこう言うのです。「なぜ、インク・スポッツ(写真右)みたいな音楽ができないの?」このころのモンクの音楽が既に個性的で大衆受けしなかったことを端的に表しています。
[チャーリー・パーカー]
15〜16歳。ロス・ラッセルの『バードは生きている』は1936年カンサス・シティで起こったことを興味深く伝えています。ジョン・ハモンド氏がカンサス・シティに乗り込み、町一番の店に出演していた町一番のバンド、カウント・ベイシーのバンドを連れて行ってしまったことです。ことの一部始終を少年のバードも見ていたのです。町に残ったミュージシャンたちは「大飛躍」と「大枚の金」について囁きあったと言います。
ラッセルは、オクラホマ・シティ出身でバードと同年代のギター奏者チャーリー・クリスチャンが町の三大ギタリストと言われる、エファージ・ウェア、エディ・ダラム、ジム・ダディ・ウォーカーを向こうに回して演奏し彼らを脱帽させるのを目にしたと言います。「クリスチャンにできることなら俺にもできるはずだ」少年バードは思ったと言います。しかしそれにはまともな新しい楽器が必要でした。そこで大事件が起こります。
少年バードはミズーリ州エルドンのホテルの感謝祭で演奏する仕事に雇われます。ミュージシャンたちは2台の車に分乗して現地に向かいます。バードはベースのジョージ・ウィルカースン、ドラムのアーネスト・ダニエルズと共にポンコツのしヴォレーに乗り込んで現地に向かいます。そしてその途中車がスリップ事故を起こすのです。ウィルカースンは死亡し、ダニエルズは肺臓が破裂し入院、バードはあちこちが切れて痛みは激しかったものの無事でした。バードは自宅で療養を続けますが、そこに自己の保険が降りて数百ドルの小切手が届くのです。バードは早速それを以て楽器店に向かい、フランス、セルマー社の新品のアルト・サックスを手に入れるのです。
そしてベイシー達が去って再編が進みつつあったカンサス・シティで頭角を現しつつあったトミー・ダグラスのバンドに加わることになります。トミー・ダグラスはボストンの音楽院に学び、技術的な修練を積んでいることでは町一番という評判でした。ダグラスは譜面に書いてあるものなら何でも演奏でき、人が演奏したものなら何でも譜面に書けたと言います。さらに楽器にも精通し、全てのサックス、クラリネット上手に吹きこなしたと言われます。バード少年はこのダグラスから多くのものを学びます。サックス吹奏における指使いやリードの使い方などです。そしてダグラスはバードにリード楽器の基礎を身につけるためにクラリネットを完全に習得することを言い渡します。そして操作が難しいと言われるアルバート式クラリネットをバードに貸し与えるのです。音楽に関しては真面目で熱心なバードは練習に励みます。1936年の冬バードはダグラスの隣に座り、出演したダンス・ホールやボールルームにおいて、ダグラスのソロを聴き、聴いたものはすっかり覚えたと言います。バーだが願っていた正当な修練の機会を得ることができたのです。
[チャールズ・ミンガス]
13〜14歳。自伝ではこの年に当たる記述がありません。
[マイルス・ディヴィス]
1936年は9〜10歳です。前回と変わりません。10歳の時医師のユーバンクス先生からもらったコルネットを持ち、姉のドロシーがピアノを弾き、弟ヴァ―ノンがダンスをしてタレント・ショウなどをやって遊んでいたそうです。
[ジョン・コルトレーン]
マイルスと同い歳、1936年は9〜10歳です。特記事項はないので変わらずアルトホーンの練習に明け暮れていたと思われます
[スタン・ゲッツ]
1936年は8〜9歳です。特にこの年の記載はないので、相変わらず土曜の午後ラジオに向かってメトロポリタン・オペラの指揮をしたり、放課後にバンドの練習を聴いたり、ベニー・グッドマンのソロを覚えてハミングしたりしていたと言います。天賦の才能の開花はもう少し先のことになります。
[ビル・エヴァンズ]
ビル・エヴァンズは1929年うまれですので、1936年は6〜7歳。音楽に興味を持ち始めます。兄のハリー言う「ビルはいじめられっ子だった。友人もいなかった。味方は、音楽と私だけだった。」という状況だったと思われます。
[穐吉敏子]
エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1936年は6〜7歳。特に記載はないので、「楽しくて仕方なかった」というピアノのレッスンを熱心に続けていたのだと思います。
[ウエイン・ショーター]
1933年生まれなので、2〜3歳です。まだこれといったエピソードはありません。

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