僕の作ったジャズ・ヒストリー 25 … スイング時代 そして ビ・バップの萌芽 1940年

世界の情勢 … 第二次世界大戦

パリを行進するナチス・ドイツ兵たち

[ヨーロッパ]
1939年8月ヒトラーは、ソ連のスターリンと独ソ不可侵条約を結んだ上で、9月ポーランドに侵攻します。そしてソ連もこれに呼応するように同じく9月ポーランドに侵攻します。ソ連はポーランドの半分を制圧し、さらにフィンランドやバルト三国の併合を謀ります。これを見た国際連盟は12月、フィンランド侵攻を理由にソ連を除名処分にします。
イギリス、フランスはソ連の動きを警戒し、ドイツに対し宣戦布告をしたものの兵を派遣することもなく、にらみ合いが続いていました。そんな中ナチス・ドイツは、1940年4月西部方面でも侵攻を開始します。4月9日デンマーク、ノルウェーに侵攻、デンマークはその日のうちに降伏します。ついでオランダ・ベルギーに侵攻し、5月15日オランダが、そして5月28日にはベルギーがドイツに降伏します。イギリスは対ドイツに対し宥和政策を取っていたチェンバレン内閣が総辞職し、チャーチルが率いる挙国一致内閣成立します。
さらにドイツは6月3日パリを空襲、6月4日にはダンケルクを占領しますが、包囲されていた英仏軍の大半は脱出に成功(ダイナモ作戦)し、40万人の派遣兵の内36万人を無事本国イギリスに帰還させます。翌6月5日からは、ドイツ軍が対仏総攻撃を開始します。この段階で6月10日ムッソリーニ政権下のイタリアが対英仏宣戦布告を行います。同日ノルウェーがドイツに降伏します。
そして6月13日フランス軍がパリから撤退し、翌14日ドイツ軍がパリに無血入城するのです。加えて6月15日イタリア軍もフランス領に侵攻します。
6月17日フランス・ペタン首相がドイツ軍に休戦提議し、22日対ドイツ27日に対イタリアと休戦協定が締結されます。ヒトラーは大陸を抑押さえたものの、ドーバーを越えることは困難とみて、7月10日イギリス本土への激しい空爆を開始します。イギリスはチャーチルのもと激しい空爆に耐えてドイツ軍の上陸を許しませんでした。このような西ヨーロッパでの戦乱を見て、ソ連は6月ラトビア・エストニア、ルーマニアに進駐開始します。
一方イギリス征服に失敗したドイツは、東ヨーロッパで次々に版図を拡大するソ連に対し警戒感が増しついにソ連を打つべく12月18日ヒトラーは独ソ戦(バルバロッサ作戦)の準備を命じます。 三国同盟成立祝賀会
[日本]
アジアでは日中戦争が継続しており、日本軍は満州国の防衛と広大な中国戦線の維持が困難になっていました。3月30日蒋介石と対立していた汪兆銘を首班とする親日政府を南京で樹立し、5月から蒋介石・国民党軍が根城とする重慶の空襲を続けますが、屈服させることはできませんでした。さらに8月には国民党軍だけではなく、毛沢東率いる八路軍が日本軍に対して大攻勢をかけ、いよいよ中国における戦線の維持が苦しくなった日本は、このような状況を打開するため、またソ連との間で戦われたノモンハン事件での敗北から、東南アジア方面に進出しようという南進論へと戦略を転換することとなっていきます。そしてヨーロッパ戦線でのフランスの降伏に乗じ、9月フランス領インドシナ進駐(北部仏印進駐)を実行し、イギリス、アメリカとの対立は決定的となるのです。そして日本はベルリン=ローマ枢軸に加わり、9月27日日独伊三国同盟が成立するのです。
「ぜいたくは敵だ」のぼり 戦線が拡大し、軍事支出が膨張するようになります。これを賄うために政府は「愛国公債」を発行するなどし、また物資の不足を補うためには、国民総動員で戦争に向かわねばならないという考えから、1938年「国家総動員法」が公布され、1940年にはぜいたく品の製造・販売が禁止されます。8月1日には国民精神総動員本部が「ぜいたくは敵だ!」の立看板を東京市内に設置し、国民生活の統制が強化されていきます。
軍の統帥事項に関しては、内閣に関与を許さないという軍部の方針で「大本営」はすでに1937年に設置されていましたが、3月には内務省が芸能人の外国名・ふざけた芸名禁止する「敵性語追放」が実施され、「ミス・ワカナ」、「ディック・ミネ」、「バッキー白片」といった芸名が使用できなくなります。さらに10月には、すべての国民を戦争に協力させる政府への協力組織「大政翼賛会」が組織され、国民への締め付けはますます厳しくなっていきます。
この年10月第5回国勢調査が行われ、総人口が1億5百万人(内地人口7311万4308人、外地人口3211万1793人)と初めて1億人を突破します。

[アメリカ]
アメリカは1939年にナチスがポーランドに侵攻し第2次世界大戦が勃発すると、大方の米国人はヒトラーの侵略の犠牲者に同情し、民主主義国家の英国とフランスを支持したと言われますが、ヨーロッパ戦線への不介入主義を続けていました。しかし時の大統領ルーズヴェルトは、ドイツの強大化、日本の東南アジアへの進出は強く懸念していたと伝えられます。
そしてフランスが陥落し、ドイツの対英空爆が始まると、米国では民主主義国家に対する支援を支持する人々と、戦争に反対する孤立主義者との間で論争が過熱します。ルーズベルトは、ドイツ優勢を見て対英仏宣戦布告を行ったイタリアの対応について非難し、反ファシズムを鮮明にします。9月27日日独伊三国同盟が成立すると、ファシズムの拡大を恐れた連邦議会は、再軍備のための巨額の予算を可決し、1940年9月には、米国史上初の平時選抜徴兵法案を可決します。そして11月の大統領選で、史上初の3選されたルーズヴェルトは、反ファシズムの下「アメリカは民主主義国の兵器廠となる」と発言するのです。
シュガー・レイ・ロビンソン

アメリカの大衆スポーツ・芸能

[プロ野球]

大リーグは、アメリカン・リーグが「デトロイト・タイガース」がニューヨーク・ヤンキースの5連覇を阻み、5年ぶりのリーグ優勝、ナショナル・リーグが「シンシナティ・レッズ」が連覇を果たします。ワールド・シリーズでは、前年ヤンキースに敗れたレッズが4勝3敗でタイガースを退けて優勝します。

[アメリカン・フットボール]
今ではアメリカで人気No.1を誇る「アメフト」もこの時点ではまだ、AFL(American Football League)はなく、NFL(National Football)のみでした。NFLのチャンピオンシップ・ゲームでは西地区のシカゴ・ベアーズが東地区のワシントン・レッドスキンズを73対0という歴史手大差で破り、チャンピオンになっています。
[ボクシング]
ミドル級において世界王座を5度獲得し「拳聖」と称される黒人ボクサー、シュガー・レイ・ロビンソン(写真右)が19歳でデビューします。
<映画>
『風と共に去りぬ』ポスター この年の第12回(1940年2月末発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのは『風と共に去りぬ』(Gone with the wind)でした。同映画は13部門で候補に挙がり、作品賞の他監督賞(ヴィクター・フレミング)、主演女優賞(ヴィヴィアン・リー)など8部門で賞を獲得するという快挙を成し遂げました。
物語は、南北戦争直前の南部ジョージア州。大地主を父に持つ勝ち気な娘スカーレット・オハラは、思いを寄せる幼なじみアシュリーが彼のいとこと婚約したことにいら立ちを募らせていました。そんな彼女の前に、素行の悪さを噂される男レット・バトラー(クラーク・ゲーブル)が現れます。スカーレットは、レットの不遜な態度に激しい憎しみを覚えながらも、なぜか彼に惹きつけられていきます。やがて南北戦争が勃発し、激動の時代がスカーレットの運命を大きく翻弄していきます。
ハティ・マクダニエル 上映時間は4時間に迫ろうかという大作で、僕は高校生の時昔の名画を格安で上映する『名画座』で見ました。ただ映画を見ただけなのですが、見終わると非常に付かれた感じがしました。
アカデミー賞で獲得した賞の中で特筆すべきは、スカーレット(ヴィヴィアン・リー)のメイド、マミー役を演じたハティ・マクダニエル(Hattie McDaniel:写真右)がアカデミー賞助演女優賞を受賞、黒人として初のアカデミー賞受賞者となったことだと思われます。
1940年のアカデミー賞は、1939年に制作された映画が対象で、主題歌賞には1939年度ヒット・チャート・ランキングで第1位に輝いた「オズの魔法使い」の主題歌ハロルド・アーレン作曲の「虹の彼方に」(over the rainbow)が選ばれています。この映画は作品賞の候補にも挙がりますが、オスカーを手にすることはできませんでした。他に話題作としては、ジョン・フォード監督ジョン・ウエイン主演の「駅馬車」などが候補に挙がっていました。

[ポピュラー・ミュージック]
1940年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
グレン・ミラー「イン・ザ・ムード」SP盤
順位アーティスト曲名
グレン・ミラー(Glenn Miller)イン・ザ・ムード(In the mood)
アーティー・ショウ(Artie Shaw)フレネシ(Frenesi)
トミー・ドーシー&フランク・シナトラ(Tommy dorsey & Frank Sinatra)アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン(I'll never smile again)
クリフ・エドワーズ(Cliff Edwards)星に願いを(When you wish upon a star)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)オンリー・フォアエヴァー(Only forever)
ジ・インク・スポッツ(The Ink Spots)ウィ・スリー(We three)
グレン・ミラー(Glenn Miller)ザ・ウッドペッカー・ソング(The woodpecker song)
ジミー・ドーシー(Jimmy Dorsey)そよ風と私(The breeze and I)
グレン・ミラー(Glenn Miller)星に願いを(When you wish upon a star)
10ジミー・ディヴィス(Jimmie Davis)ユー・アー・マイ・サンシャイン(You are my sunshine)
トミー・ドーシー&フランク・シナトラのレコード

年間トップ10にグレン・ミラーの曲が3曲もチャート・インしています。如何にミラー・サウンドが指示されていたかが分かります。第1位の「イン・ザ・ムード」は1939年8月1日の録音で、発売は9月27日でした。当然1939年にも売れたのでしょうが、翌1940年に入ってさらに売れ続けたということであり、如何に大きなヒットだったかが分かります。7位の「ザ・ウッドペッカー・ソング」は1940年1月29日録音、9位の「星に願いを」は1月6日の録音ですが、両曲とも僕が持っているレコードには未収録です。
第2位にランクされたアーティー・ショウの「フレネシ」は、ヴァイオリン、ヴィオラなど弦楽器を入れた総勢32名という大編成によって吹き込まれた問題作。詳しくは「アーティー・ショウ 1940年」をご覧ください。
第3位のトミー・ドーシー&フランク・シナトラの「アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン」は、この年初めにドーシー楽団に加入したフランク・シナトラが歌って大ヒットとなったバラード・ナンバー。詳しくは「トミー・ドーシー 1940年」をご覧ください。
第4位のクリフ・エドワーズの「星に願いを」はこの年の2月に公開されたディズニーのアニメーション映画「ピノキオ」の中の挿入歌。歌っているクリフ・エドワーズはアニメでコオロギの地味ニー・クリケットの声を担当し、この挿入歌も歌っている。この曲は翌年のアカデミー賞で歌曲賞を受賞する、そして今でも多くのミュージシャンに歌われ、演奏される名曲。
第5位は久々の登場のビング・クロスビーのバラード作品。6位のインク・スポッツは当時の人気コーラス・グループのこれもバラード・ナンバー。8位のジミー・ドーシーは弟のトミーに人気の面では譲っていた感がありますが、ここでヒットを飛ばします。この曲は今でもたまに謳われたり演奏されているのを耳にします。元はキューバの作曲家エルネスト・レクオーナによって書かれた組曲「アンダルシア」の一部でした。第10位の「ユー・アー・マイ・サンシャイン」はほとんどの日本人が知っている曲だと思いますが、このこのジミー・ディヴィスがチャールズ・ミッチェルと共作したもので、これがオリジナルです。

ジャズの動き

1940年のジャズ界の動向を「スイング時代 そして ビ・バップの萌芽」としました。ジャズ界はまだまだスイングが隆盛の時代でしたが、「ビ・バップ」の芽吹きが見られるとということです。「ビ・バップの萌芽」とはどういうことでしょうか?それをこれから見ていくわけですが、現代から見れば「ビ・バップの萌芽」ということになりますが、当時のミュージシャン達はもちろんそんなことは思いもよらず日々の仕事をこなしていたのですが。

「メトロノーム・オールスターズ」

ポール・ウィナーズ録音 … 第2回「メトロノーム・オールスターズ」

「メトロノーム(Metoronome)」誌が前年1939年から始めたポール・ウィナーの選出とその結果に基づいたレコーディングを行う2回目は1940年2月7日に行われました。そしてこの2回目のレコーディングは実に画期的なものになりました。それは前年1939年はポール・ウィナーにエラ・フィッツジェラルドとテディ・ウィルソンが選出されていますが、黒人のためレコーディングには呼ばれませんでした。ところが今回は、ベニー・カーターとチャーリー・クリスチャンが参加しているのです。実績のあるカーターは分かりますが、昨年ニューヨークに出、レコードもあまり出ていないチャーリー・クリスチャンが呼ばれたことは意外ですが、同日に行われたベニー・グッドマンのバンドの一員としてBGがゴリ押しして参加を認めさせたような気がしますが、この辺りの事情について触れた記事は見たことがありません。詳しくは、「メトロノーム・オールスターズ 1940年」「ベニー・グッドマン 1940年」「ジャック・ティーガーデン 1940年」をご覧ください。

スイング全盛時代 … 白人ビッグ・バンド

ベニー・グッドマン

[BG=カウント・ベイシー・リハーサル・バンド]

ベニー・グッドマンは、1939年12月24日に行われたジョン・ハモンド氏が主催した超重要イヴェント「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」(From spirituals to swing)第2回コンサートにセクステットで出演します。この第2回のコンサートにおける白人出演者はベニー・グッドマンとそのメンバーの3人だけでした。そして翌1940年、ディスコグラフィーによれば、1月16日に録音を開始しますが、この録音は所有していません。僕の持っている最初の1940年の録音は2月7日のもので前年同様「メトロノーム・オールスターズ」によるものと独自の録音であるがこれらは同日にレコーディングされました。
基本的に黒人が出演する「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」コンサートと基本的に白人が出演する「メトロノーム・オールスターズ」双方に出演した白人はベニー・グッドマンのみであり、双方に出演した黒人はチャーリー・クリスチャンだけでした。
ともかくこの年もBGは、オーケストラ演奏ではアーノルド・コヴェイなどがギターの席に座り、コンボの場合はクリスチャンのような使い分けをしていたようですが、データによってはオーケストラでもクリスチャンがギターの席に座ったとするものもあります。一方セクステットで意外に固定できなかったのがピアノの席で、フレッチャー・ヘンダーソンやジョニー・グアルニエリ、時にはカウント・ベイシーなどが参加した録音もあります。
またこの年はBGのクラシック好みも継続しており、5月にはベーラ・バルトークとレコーディングも行っています。そして7月BGは持病の坐骨神経痛が悪化、手術を行うことになります。そのためバンドは一時解散状態になりますが、BGは自分のバンドに必要不可欠と考えたチャーリー・クリスチャン他数名のプレイヤーを休業中も給料を払ってキープしますが、この厚遇にあずからなかったメンバーは退団を余儀なくされます。BGの手術はうまくいき、10月後半には現場に復帰しますが、復帰に当たってリハーサルが行われたというのです。あるジャズメンが病気で活動休止し、病気が癒えて復帰する際リハーサルを行うなど前代未聞ではないでしょうか?これもジョン・ハモンド氏の計らいかどうかは分かりませんが、そのリハーサルの録音が残っています。協力した(させられた?)のはカウント・ベイシーで、BG、クリスチャンのBG組とバック・クレイトン、レスター・ヤングにオール・アメリカン・リズム・セクションという超豪華なセッションとなります(写真右)。この顔合わせは1939年12月末の「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」以来です。
入院中に辞めていったバンドマンもいるため、復帰に当たってBGはバンドの再編を行います。その目玉は何といってもエリントン楽団の至宝と言われたクーティー・ウィリアムズを引っこ抜いたことでしょう。ともかくこの年もベニー・グッドマンは話題豊富です。詳しくは、「ベニー・グッドマン 1940年」をご覧ください。

トミー・ドーシー

ドーシーはこの年初からヴォーカル部門を強化します。具体的にはヴォーカル・グループ、ザ・パイド・パイパーズとフランク・シナトラの加入です。シナトラは5月23日に吹き込んだ「アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン」が年間人・チャート3位にランクされるヒットを飛ばします。右写真で真中にいるのがシナトラ、残るコーラス3人組がザ・パイド・パイパーズです。因みにザ・パイド・パイパースのメンバーは、ジョー・スタッフォード(Jo Stafford)、ビリー・ウィルソン(Billy Wilson)、チャック・ロウリー(Chuck Lowry)、ジョン・ハドルストン(John Huddleston)という女性1名男性3名というメンバー構成です。紅一点ジョー・スタッフォードは後に独立して人気歌手となります。
またこの年2月7日に行われた"Metronome All Star Band"のレコーディングには選ばれなかったか参加を辞退したようで参加していません。
さらに3月3日のニュー・ジャージー州メドウブロック・ボールルームにおける実況ラジオ放送から偉大なトランぺッター、バニー・ベリガンが加わります。37年に自己の楽団を結成するために去って行ったベリガンはバンド・ビジネスがうまくいかず、帰ってきたのです。しかし「偉大なる」と形容詞が付けられるベリガンは、古巣ドーシー楽団に戻ってから、吹込みにおいてはほとんどソロを取っていません。ベリガンは酒におぼれアルコール中毒症状も出始め、バンド・マネージャーのボビー・バーンズを悩ませていました。そしてついに8月20日NBCのラジオ放送中にソロを取ろうとして倒れてしまうのです。結局ベリガンは、ドーシー楽団から去らざるを得なくなるのです。ベリガンは古巣ドーシー楽団で数か月しか保ちませんでした。
そして後釜にはベニー・グッドマンの楽団で名を上げた、これも偉大なトランぺッター、ジギー・エルマンをスカウトします。エルマンはBGの腰の手術で休暇を取っている間チャーリー・クリスチャン達と共に二人だけ給料をもらうという特別待遇を受けていましたが、演奏をしない日々が続くことに耐えられなくなったのかもしれません。またドーシー楽団のベリガンの後という栄誉とそれに見合う報酬もあったのでしょう。ともかくこの電光石火のバンド運営は見事です。詳しくは「トミー・ドーシー 1940年」をご覧ください。

ボブ・クロスビー
ボブ・クロスビーとその楽団には、長年ベニー・グッドマンでプレイしていたジェス・ステイシーが加わったこと以外大きな出来事は見当たりません。このバンドは、レコードを聴くと演奏が充実しており、ピック・アップ・メンバー「ボブ・キャッツ」によるディキシーランド・ジャズも、実に楽しそうに演奏しています。それは聴いている側にも伝わり、楽しい気分にさせてくれます。詳しくは「ボブ・クロスビー 1940年」をご覧ください。

アーティー・ショウ

「フレネシ」SP盤

ショウは1939年11月人気が上り詰め始めた時点で、何を思ったかのかバンドを放り出しメキシコに行ってしまいます。残された楽団員たちは、バディ・リッチを除いてジョージ・オウルドの下にそのままバンドを続けますが、40年初頭にバンドは解散を余儀なくされます。
ショウは約2か月のメキシコ滞在の後、40年初頭にアメリカに舞い戻ります。65名編成の大バンドを編成し、また映画を撮るつもりだったのだそうです。しかしショウはヴィクターとの契約がまだ切れておらず、幾つかの録音をヴィクターにする義務が残っていました。そのため40年3月に復帰第1回のレコーディングを行うことになります。彼は65名編成の大バンドを編成するつもりでしたが、結局は32名編成のバンドとなります。それは4名の木管と13名のストリングスを含むスタジオ・ミュージシャンを中心とした32名編成のオーケストラで、その臨時編成によるレコーディング・バンドを率いてスタジオに現れたのです。こうして録音されたのが、「フレネシ」です。
「フレネシ」は、元々はアルベルト・ドミンゲスという人が作曲したスペインのポピュラー・ソングで、39年英歌詞が付けられ非常にヒットした曲だそうです。この曲をショウは異色の編成によりこれまでにない新しいサウンドとラテン的な色彩を取り入れ、しかもジャズ・バンド本来のサウンドも失うことなく、全く新しいオーケストラ・サウンドを創造することに成功したといえます。とりわけ13名によるストリングス・セクションを使ったことは、彼のストリングス効果に対する従来の考えをここに再び試みようとしたものであり、かつての失敗にもめげぬストリングスへの一念のようなものを感じさせます。
そしてこのショウの録音はミリオン・セラーとなり年間ヒット・チャート第3位にランクされるヒットとなります。このレコードはアーティー・ショウ人気をますます高めることとなったといいます。
そしてこの成功がショウの創作意欲に火を点けたのかこの年ショウは多数の意欲的なレコーディングを行うことになります。詳しくは「アーティー・ショウ 1940年」をご覧ください

グレン・ミラー

前掲のポピュラー・ミュージック年間ヒット・チャートのベスト10に3曲がランク・インするなど正にこの年はミラー楽団の絶頂の時だったいえるでしょう。詳しくは「グレン・ミラー 1940年」をご覧ください。

その他の白人バンド

前回1939年で取り上げた「白いエリントン」ことチャーリー・バーネット、白人バンドでありながらブルースを演奏するユニークなバンドとして知られていたウッディ・ハーマン、クロウド・ソーンヒルなどのこの年の録音を僕は持っていません。残念です。

スイング全盛時代 … 黒人ビッグ・バンド

デューク・エリントン

ベン・ウエブスター

前年1939年作・編曲家でピアニストでもあるビリー・ストレイホーンを得、天才ベーシスト、ジミー・ブラントンも加入させより強化されたエリントン楽団にもう1枚強力なメンバーが加わります。テナー・サックスのベン・ウエブスターです。柴田浩一氏は、「これで正式なテナー・マンを得ることになる。ベンの加入は、ブラントンと一緒にプレイをしたかったからかもしれない。弁はブラントンの面倒をよく見て固い友情で結ばれていたからだ」と述べています。
また僕の最も信頼する評論家粟村政昭氏は、「僕は、40〜42年にかけてのエリントン・オーケストラ、もっと細かく言えばその間のクーティーとビガードが揃っていたころの演奏が一番好きだ」と書いていま(『ジャズ・レコード・ブック』)。そのためかこの年は音源が非常に多く残されています。僕が持っているものだけでもかなりの数ですが、僕のコレクションなど大したことは無いので、網羅していった大変な数になるとおもいます。
そしてエリントンとその楽団は、レコード会社をヴィクターからコロンビアへ移籍します。この理由はよく分かりませんが、前年ジョン・ハモンド氏がヴィクターからベニー・グッドマンを引き抜いてコロンビアへ移籍させましたが、その報復劇の引き抜きだったのかもしれません。2月15日のクーティー・ウィリアムズの録音がコロンビアで、3月6日の録音がヴィクターに行われていますので3月1日から移籍したのかもしれません。ともかくヴィクターは「ヴィクター・ポップ・レーベル」での発売という破格の待遇で遇するのです。これはトミー・ドーシー楽団と同じで、黒人バンドとしては初めてのことだといいます。しかしホッジスなどの名義のものはブルーバード・レーベル、これはアーティー・ショウ、グレン・ミラーと同格だったそうです。
またこの年エリントンは昨年に続き天才ベーシスト、ジミー・ブラントンとのデュオを録音します。前年は2曲ほどの録音でしたが、この年は4曲ほどレコーディングを行いますが、ブラントンの超絶ベースにエリントンも押され気味なくらいです。
しかし11月にエリントン楽団の至宝と言われたTp奏者クーティー・ウィリアムスがベニー・グッドマンに引き抜かれて退団します。クーティーが辞める時のエピソードをデュークは自伝に次のように書いています。「その晩、彼(クーティー)は私(デューク)を自分の車に乗せて、シカゴ中をぐるぐる回った。それは、私に、しばらくベニー・グッドマンと一緒の儲かる仕事をしたいのだけどと言いたかったのだ。『ああ、いいよ』私は言った。」
このクーティーの退団は天下の一大事で、柴田浩一氏によればレイモンド・スコットは、『クーティーがデュークを去った時』という曲を書いているほどだといいます。しかし後任として直ぐにレイ・ナンスが加入します。デュークは自伝で、「私はなんて運のいい男なんだろう!次の夜レイ・ナンスと出会うのだ」と書いています。ともかくこの年のエリントン楽団の充実ぶりは素晴らしく、特にヴィクターに移ってからは傑作が目白押しです。詳しくは「デューク・エリントン 1940年」をご覧ください。

プレイバックを聴くベイシー、グッドマン達

カウント・ベイシー

この年のベイシーはジョン・ハモンド氏のブレーン的な活動が目立つような気がすします。色が薄いですが右はスタジオでプレイバックを聴く左からバック・クレイトン、レスター・ヤング、譜面台に片手を置いて立つチャーリー・クリスチャン、BG、カウント・ベイシー、左端はジョン・ハモンド氏。
ただ音源はまとまっていませんが、この時期のベイシー楽団はメンバーも充実しており、聴き応えのある録音が多数あります。詳しくは「カウント・ベイシー 1940年」をご覧ください。

アール・ハインズ・オーケストラ
キャブ・キャロウェイ
純然たるジャズ・マンなのかと問われたら、答えることが難しいキャブ・キャロウェイですが、少なくともこの年のキャブ・キャロウェイ楽団はTpセクションにディジー・ガレスピー、Tsにチュー・ベリーを擁する注目のバンドでした。詳しくは「キャブ・キャロウェイ 1940年」をご覧ください。
アール・ハインズ
「ジャズ・ピアノの父」と言われるアール・ハインズの率いるバンドが最高に充実していたのは39年から40年にかけてのころと、故粟村政昭氏は名著『ジャズ・レコード・ブック』の中で述べています。実際ヴォーカリストに、後はチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーを擁する史上初のバップ・ビッグ・バンドといわれる楽団を率いることになるビリー・エクスタインを擁し、いかにもスイング時代の洗練されたビッグ・バンド・サウンドを響かせていました。詳しくは「アール・ハインズ 1940年」をご覧ください。
ハーラン・レナード・オーケストラ
ハーラン・レナード
ハーラン・レナードは生粋のカンサス・シティ・ジャズマンと言われ、かつてカウント・ベイシーの楽団に一時在籍し、また自身が率いたバンドにはかのチャーリー・パーカーが在団していたことでつとに有名です。しかし残念ながらパーカーが在団時の録音は存在しないようではありますが。
解説に拠れば、ハーラン・レナードのバンド(写真左)は、1940年1月〜11月まで4回のセッションで計24曲を吹き込んでいるそうで、その内の16曲が『ジャズ栄光の遺産シリーズ』とRCAのヴィンティジ・シリーズに収録されています。そして11月のセッションが彼のバンドの最後の録音ということなので、彼のバンドの録音は1940年のものしかなく、このシリーズの選に漏れた8曲以外にはないということになります。
バンドのメンバーを見ると、テナーのジミー・キースやTpのジェイムズ・ロスそしてドラムのジェシー・プライスなどはチャーリー・パーカー関連の本、初期のカンサス・シティー時代に登場する名前で、「ああ録音があったんだ」と感慨深いものがあります。詳しくは「ハーラン・レナード 1940年」をご覧ください。
ベニー・カーター・オーケストラ

他の黒人ビッグ・バンド

ジミー・ランスフォード
「ジミー・ランスフォード 1940年」をご覧ください。
ドン・レッドマン
「ドン・レッドマン 1940年」をご覧ください。
アンディ・カークとメリー・ルー・ウィリアムス
「アンディ・カーク 1940年」をご覧ください。
ベニー・カーター
この年ベニー・カーターは黒人として初めてチャーリー・クリスチャンと共にメトロノーム・オールスターズへの参加や自己の率いるバンド(写真右)やコールマン・ホーキンスのバックアアップなど幅広い活動を行っています。詳しくは「ベニー・カーター 1940年」をご覧ください。
1940年のエラ・フィッツジェラルド
エラ・フィッツジェラルド
前年1939年6月16日大将のチック・ウエッブが亡くなり、そのバンドを引き継いだのは当時弱冠21歳になったばかり。右は当時のエラの写真。まだあどけなさが残っています。誰が首謀したのかは分かりませんが、、バンドは名称を"Ella Fitzgerald and Her Famous Orchestra"へと変更し健気にもツアーなどの活動を継続していくのです。詳しくは「エラ・フィッツジェラルド 1940年」をご覧ください。

ジョン・カービー
スイング全盛時代にあってユニークなサウンドを創造したジョン・カービーのコンボ演奏を行っていました。またこの年は奥方であるマキシン・サリヴァン(歌手)の伴奏も務めています。詳しくは「ジョン・カービー 1940年」をご覧ください。

ライオネル・ハンプトンのオールスター・セッション
ライオネル・ハンプトンは、この年まだベニー・グッドマンのカルテット、セクステットのメンバーとして、そしてこのオールスター・セッションのリーダーとして多忙だったと思われます。BGの手術入院中もチャーリー・クリスチャン同様給料を得て、自己のバンドの録音も行っていました。自己名義のオールスター・セッションは全6回行われ、全25曲が録音されました。その中で注目はロス・アンゼルスでテスト的に起用したピアニストとしてナット・キング・コールがいます。前年BG楽団が正式に雇う前にチャーリー・クリスチャンを起用した録音をハンプトンの楽団で行った事例とよく似ています。詳しくは「ライオネル・ハンプトン 1940年」をご覧ください。

ナット・キング・コール

注目ニュー・カマーT … ナット・キング・コール(写真右)

ナット・キング・コール(本名:ナサニエル・アダムズ・コールズ Nathaniel Adams Coles)と言えば、僕や僕の親世代などにはヴォーカリストとして有名で、その甘い歌声の中にも黒人独特の粘っこさもある独特の声でたくさんの人々を魅了したものでした。しかし彼は元々はピアニストであり、僕の最も信頼する評論家の粟村政昭氏などは、「歯切れの良いタッチ、、比類のないスイング感を持ち、上品なユーモアと強力な左手を備えた稀に見る趣味の良いピアニスト」とベタ褒めしています。
彼の吹込みは1939年からいくつかなされていますが、ある程度メジャーなレーベルへのトリオでの吹込みはこれが初めてです。彼は1936年兄でベーシストのエディ・コールの率いる六重奏団に加わってプロとしてのキャリアをスタートさせ、紆余曲折の末ソロ・ピアニストとしてナイト・クラブで活動を開始しました。ニューヨークに進出した折、ナイト・クラブで歌ったところ「こんな下手な歌はダメだ」マネージャーに怒られたといいますから、歌はその後上手くなったのでしょうかそれともナイトクラブのマネージャーの耳がタコだったのでしょうか?ともかくその後カリフォルニアに移り、1939年にはピアノ、ギター、ベースのシンプルな編成からなるトリオを結成して活動を始めていました。このトリオは好評で、ロスアンゼルスに来ていたベニー・グッドマン楽団に在籍していたライオネル・ハンプトンが1940年ナイト・クラブで演奏しているところを聴きに行き、レコーディングに起用することになり、メジャー・デビューへとつながっていきます。詳しくは「ナット・キング・コール 1940年」をご覧ください。

ビ・バップの萌芽

何を以て「ビ・バップの萌芽」とするのかは多変難しい問題です。僕はミュージシャンに焦点を当ててみていきたいと思っています。というのは「音楽」というものは人間がするものであり、その人が行ったプレイなり行動が他のプレイヤーに影響を与え、ある傾向の演奏が増えてくる、それが音楽の、この場合はジャズの潮流になっていくものだと考えています。先ずは音楽ありきであり、それはプレイヤーありきなのです。そういった「流れ」を「スイング」と呼んだり、「ビ・バップ」と呼んだりするもので、「ビ・バップ」という名称は後です。そういった観点から、既に登場している新しい傾向を持ったプレイヤーたちを聴いていきましょう。

レスター・ヤング

レスター・ヤング(写真右)

粟村政昭氏はその著『モダン・ジャズの歴史』の中で、「モダン・ジャズの歴史はレスター・ヤングの音楽とともに始まった」と述べています。ではレスター・ヤングの音楽の特徴は何処にあるのでしょうか?それはそれまでコールマン・ホーキンスにだ評されるような、太くてごつごつした男性的な音色とは正反対の軽やかで寛ぎに満ちたヴィブラートのない音色そして小節の枠にとらわれないない自由なフレージングということができるでしょう。特にフレージングがユニークで、4小節や8小節と言った型に嵌ったフレイジングを嫌い、1小節を1音だけ吹いたり、あるいは吹かずに見送ったり、そうかと思えば8小節を越えて延々と続くフレイジングを吹いたりしています。またわざと不協和音的な音を吹いて緊張感を作り出し、一転均衡と採れたフレイズを吹いてより安定感を感じさせたりといった芸当を易々とやってのけたのでした。
しかし彼はリズムやハーモニーには保守的で、行ってみれば既成の枠の中で自由に泳ぎ回るのが好きだったプレイヤーということができるでしょう。つまり彼は音楽の革新を望んだわけではなく、こちらが革新的と感じるものは単に彼の「個性」だったということができるでしょう。しかし彼の希代のアドリブ・プレイがチャーリー・パーカーに多大な影響を与えたことは有名ですし、僕自身はよくわかっていませんが、チャー・リー・クリスチャンに及ぼした影響は大変大きなものがあったと言われます。そんな彼の1940年の活躍については、「レスター・ヤング 1940年」をご覧ください。

チャー・リー・クリスチャン

チャー・リー・クリスチャン(右:メトロノーム・オールスターズでの写真)

ディスコグラフィーによれば、1940年は1月16日から録音を開始したようだが、この録音は所有しておらず未聴。僕の持っている最初の録音は2月7日のもので「メトロノーム・オールスターズ」に参加したものとベニー・グッドマンの楽団に参加した録音の同日レコーディングされたものです。
まず第2回目のメトロノーム・オールスターズだが、"Metronome All Star Band"名義のオーケストラ演奏で1曲<キング・ポーター・ストンプ>、そのピックアップ・メンバー9名による"Metronome All Star Nine"名義で1曲<オールスター・ストラット>(多分ヘッド・アレンジによるもの)の2曲が録音されましたが、そこにベニー・カーターと共に参加しています。これは画期的なことで、前年1939年はポール・ウィナーにエラ・フィッツジェラルドとテディ・ウィルソンが選出されていますが黒人のためレコーディングには呼ばれていませんでした。しかしこの年は二人の黒人が参加しているのですが、この実現の経緯なども知りたいところではありますが、記載した記事を見たことがありません。
この年楽団のボス、ベニー・グッドマンは持病の坐骨神経痛のため3月に休暇をとり、7月には手術を受けるため長期休暇を取りますが、クリスチャンは他の何人かのメンバーと給料をもらいながらボスの帰りを待つという厚遇に浴しています。そんな恵まれた環境を利用し、ジャム・セッションなどに精を出していたようです。10月末にボスが戻るとその復帰リハーサルで、前年「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」コンサート以来となるレスター・ヤングとの共演など活発に活動しています。この年度は時間が経過するにつれそのプレイは聴き応えが出てくるように感じます。詳しくは「チャーリー・クリスチャン 1940年」をご覧ください。

キャブ・キャロウェイ・バンドで演奏するガレスピー(後列左端)

ディジー・ガレスピー

ディズは39年の秋テディ・ヒルの下を離れた後、キャブ・キャロウェイの傘下に加わり、41年9月まで在団してここを追われました。この「追われた」という表現は穏便ではありませんが、その事情については次回1941年に触れるとして、粟村氏によれば、この当時ディズの興味はもっぱら新しいハーモニーの探究にあって、楽器を十分に鳴らすということについては、比較的関心が薄かったといわれます。もちろんこれは、彼がこうした基本的な修練をないがしろにしていたということではなく、何が第一関心事であったかという比較の問題でしょう。いじれにしろ、「グッド・トーン」ということが最優先したスイング時代にあっては、こうしたディズ流の考え方が、第一線の連中のそれとかなりかけ離れたものになっていたことは事実であろうと記しています。
それだけに彼がキャブのバンドの中にミルト・ヒントンというよき理解者を見出し得たということは、彼自らの働きかけがあったにせよ幸運な配偶であり、この当時ディズはヒントンと謀って、しばしばステージの上で日頃の研鑽の成果を試みたといいます。しかしリーダーのキャブはこうしたディズのプレイを嫌って、「チャイニーズ・ミュージック」と呼んで冷笑したという話が伝わっていますが、その割には何度も彼にソロの機会を与えており、ディズがキャブの下で吹きこんだ64曲のスタジオ録音のうち、計10曲に彼のソロを聴くことができるそうです。
粟村氏はキャロウェイ時代の録音の内ドン・レッドマンがアレンジした“Cupid’s nightmare”や“Hard times”辺りのソロが有名だと書いていますが、この両曲とも1940年に録音です。これらも全体としてはまだまだロイ・エルドリッジの亜流といった線が強く、後年の改革を思わせる鋭さは、いまだ表面には表れていないと粟村氏は評しています。さらに粟村氏によると、ディズはキャブの下で64曲のスタジオ録音を行っているそうですが、全体としてはまだまだロイ・エルドリッジの亜流といった線が強く、後年の改革を思わせる鋭さは、いまだ表面には表れていないとしながらも、キャロウェイ時代の録音の内ドン・レッドマンがアレンジした“Cupid's nightmare”や“Hard times”辺りのソロが有名だと述べています。この2曲はこの1940年の録音です。
またこの頃のディズは後年の好々爺然とした風貌とは異なり反骨精神旺盛だった言われます。右の写真を見てもひとり異なる方向を向いてラッパを吹く姿はその話を納得させるものがあります。詳しくは「ディジー・ガレスピー 1940年」をご覧ください。

注目ニュー・カマーU … チャーリー・パーカー

いよいよチャーリー・パーカーの登場です。かつてマイルス・デイヴィスは次のように述べています、「ジャズの歴史?それは簡単だ。4つの言葉で全て言える。[Louis] [ Armstrong]そして[Charlie][Parker]だ」。つまりジャズに革命を起こした人物です。彼がどのように、どのような革命を起こしたのか?それを探っていくのがこれからの課題です。
1940年までのパーカーの行動は、彼自身及び証言者によってかなり食い違いが多いのですが、詳しくは「僕の作ったジャズ・ヒストリー 24 スイング時代 1939年」の「自伝・評伝」で触れていますが、簡単にまとめますと、1939年末、母親から父親が死亡した問い知らせを受け、郷里のカンサス・シティに戻ります。そして同じくカンサス・シティに戻っていたジェイ・マクシャンのバンドに再加入するのです。再加入というのは、パーカーは一度1938年マクシャンのバンドに加入していましたが、素行が悪く3、4か月でクビになっていたのです。しかし今度は長く保ち約2年半の間マクシャンのバンドメンとして行動するのです。写真左は1940年のマクシャン・バンド。前列右座ってアルト・サックスを吹いているのがバードです。
チャーリー・パーカーの初吹込みは、それが「ハニー・アンド・ボディ」と言われるています。しかしこれは正式な吹込みではなく、カンサス・シティのTp奏者、クラレンス・ディヴィスがアマチュア用のディスク録音機でチャーリー・パーカーの即興演奏による、2つの曲のメドレーを録音したというものです。この録音時期については、1937年という説がありますが、研究家のカール・ウォイデック氏はこの演奏の採譜を行い詳細に検討した結果、1940年であろうとしています。そしてウォイデック氏の分析などを基に、評論家の村井康司氏は、この演奏において既に「ビ・バップ」は完成しているとさえ述べています。この音源はPhilology社とStash社からCD化されていますが、残念ながら保有しておらず未聴です。

僕の持っている最も初期のバードの演奏は<ウィチタ・トランスクリプション>と言われるものです。これは1940年の秋に初のツアーに出たバードが在籍していたマクシャンのバンドが、ツアー中の11月の下旬ウィチタにいた時に熱狂的なジャズ愛好家である、ピート・アームストロング、フレッド・ヒギンスン、そしてミュージシャンのバド・グールドが、同地を訪れたマクシャンのバンドをラジオ局KFBIの高性能の録音機を使って録音したものです。この録音ディスクは長い間紛失したと考えられてきたそうですが、1959年奇跡的に、ジャズ歴史研究家のフランク・ドリッグスによって、良好な状態で発見されたのです。そして1974年初めて正式に発売されました。
バードこの前にシカゴや一時ニューヨークに出たこともあり、その革命的な演奏を聴いた聴いた人もいたでしょうが、この時点ではまだまだローカル・バンドの一アルト吹きに過ぎませんでした。今回取り上げる録音も全米中で発売されたものではないため、バードの演奏を知る人は極々わずかだったのです。彼が革命を巻き起こすのはもう少し先のことになりますが、この時点でのパーカーの演奏を聴けるということでこの録音は大変貴重です。詳しくは「チャーリー・パーカー 1940年」をご覧ください。

ピアニスト達

アート・ティタム
チャーリー・パーカーの評伝『バードは生きている』によると、1939年のいつかははっきりしませんが、チャーリーはニューヨークに向い、バスター・スミスのところに居候しながら生涯ただ一度のミュージシャン以外の仕事、皿洗いの仕事に「ジミーズ・チキン・シャック」という店で就いていました。そしてそこで演奏していたのが、ピアノの巨人アート・テイタムで、その演奏を聴きそのハーモニー展開やその演奏の速さなどに聴き入っていたと言います。そしてチャーリーは、テイタムが契約切れで西海岸に行ってしまうと同時にその「ジミーズ・チキン・シャック」を辞めたのだそうです。もちろんクラブなどで弾かれるピアノ演奏とレコード吹込みは異なりますが、チャーリーパーカーに大いに影響を与えた時期の吹込みということになります。西海岸に行ったという言葉を裏付けるようにこの年のレコーディングはロスアンゼルスで行われています。詳しくは「アート・ティタム 1940年」をご覧ください。
ジェリー・ロール・モートン
ジェリー・ロール・モートン モートンは1939年12月14、16、18日の3日間をかけてマイナー・レーベルであるゼネラル・レコードにピアノ・ソロとヴォーカルの吹込みを行います。この後モートンは、年が変わった40年1月に同じくゼネラル・レコーズにヴィクターの時から少しメンバーを変えたオール・スター・コンボによる演奏をレコーディングするのです。こちらの音源はイギリス・ヴォーグ・レコーズから出ているようですが、僕は保有していません。
その後のモートンの消息は詳しくは分かりませんが、1940年7月NBC放送のショウ番組"The chamber music of lower Basin street"にゲストとして招かれレギュラー・ミュージシャンと共演した時の演奏が彼の残した最後の演奏となります。その後もモートンは、スモール・コンボを率い活動を行いますが、ビッグ・バンド全盛の中での経営は難しく、失敗に終わったそうです。そしてモートン自身も健康を害しバンドは解散してしまいます。そんな中彼の名付け親であるユーラリー・エコー夫人危篤の知らせを受け取ったモートンは、1940年暮にロサンゼルスに向かいますが、残念ながら夫人は亡くなり、残された盲目の義父(ユーラリー・エコー夫人の夫)の面倒を同地で看ることになります。
ロサンゼルスでモートンは、義父の面倒を見ながら音楽会社を興し、またスモール・グループを率いるなどして再度再起をはかりますが、1941年初めには自身の健康が悪化し、断念せざるを得なくなります。そして心臓疾患と喘息はますます悪化し、同年7月10日ロサンゼルス地方総合病院で、帰らぬ人となってしまいます。享年55歳と10か月でした。
「ジャズ・クラシックス・オブ・ジェリー・ロール・モートン」ボックス解説の大和明氏は、モートンの生涯を次のように結んでいます。
ジェリー・ロール・モートンの生涯は、音楽の世界における偉大なる創作活動と共に、賭博、酒、女、そして放浪に明け暮れ、傲慢なほどの尊大さとコンプレックスを併せ持った矛盾に満ちた人生であった。まさにそれは波乱に富んだ人生だったと言えよう。そうした中での音楽に対する自信と情熱こそ彼の存在を後世に伝え、ジャズ史における不滅の輝きとなったのである。詳しくは「ジェリー・ロール・モートン 1940年」をご覧ください。 ファッツ・ウォーラー
ファッツ・ウォーラー
もう一人の大スター、ファッツ・ウォーラーはこの年は34曲もの吹込みを行っています。前年より少ないですが、多数と言ってよいでしょう。それだけ人気があった証拠です。それもビッグ・バンド全盛の中で、吹込みはほとんど「アンド・ヒズ・リズム」によるコンボ演奏です。それぞれ実に楽しい演奏が聴かれますが、素晴らしいことだと思います。詳しくは「ファッツ・ウォーラー 1940年」をご覧ください。
ジミー・ヤンシー
この年ヤンシーは割と積極的にレコーディングを行っています。中には弾き語りの作品もあり変化に富んでいます。詳しくは「ジミー・ヤンシー 1940年」をご覧ください。

女性シンガー

ビリー・ホリディ自伝「奇妙な果実」

ビリー・ホリデイと『奇妙な果実』後

前年1939年ビリーは『奇妙な果実』という衝撃的なレコーディング行いました。このレコードはヒットし、反響も大きいものがありました。自伝『奇妙な果実』によれば、この歌が人気を博したのはしばらく経ってからのことで、人々は好んでリクエストするようになり、ビリー最大のヒット曲になります。ただ南部でこの歌を歌うと必ずひと悶着起きるので歌わないことにしていたが、リクエストされれば歌ったそうです。
南部出身の作家であり社会評論家でもあるリリアン・スミス女史(写真右)は、1944年異人種間のロマンスという、当時は禁止されていた物議を醸すテーマを扱った小説を出版する際、当初は別のタイトルを考えていたといいますが、ビリーの歌を知り、題名を『奇妙な果実』に変えたそうです。因みにこの本は地域によっては出版禁止となり、郵便公社の配送も禁じられましたが、ベスト・セラーになりました。
ビリーはこの曲のレコーディングの約2か月半後には本来のコロンビアへのレコーディングを開始し、カフェ・ソサイエティへの出演も続けました。レコーディング的には特別負の影響はなかったようです。 詳しくは、「ビリー・ホリデイ 1940年」をご覧ください。

ミルドレッド・ベイリー
僕の持っているこの年の録音は2曲のみですが、ロイ・エルドリッジやテディ・ウィルソンといった黒人ミュージシャンを起用し、エディ・ソーターを起用するなど意欲的な作品となっています。アレンジャーに。詳しくは「ミルドレッド・ベイリー 1940年」をご覧ください。
アンドリュース・シスターズ
この年の録音について、詳しくは「アンドリュース・シスターズ 1940年」をご覧ください。 コールマン・ホーキンス

花開くテナー・サックス

1939年7月に長かったヨーロッパでの生活に別れを告げて帰国したコールマン・ホーキンスはこの年からレコーディングが増えてきます。詳しくは「コールマン・ホーキンス 1940年」をご覧ください。
チュー・ベリーはこの年もキャブ・キャロウェイの楽団に在籍し、素晴らしいプレイを聴かせ作れます。詳しくは「チュー・ベリー 1940年」をご覧ください。
ベン・ウエブスターは、この年の1月末か2月初めにデューク・エリントンのオーケストラに加入し、初期アップ・テンポ・ナンバーの代表作と言われる「コットン・テイル」などを吹き込んでいます。「ベン・ウエブスター 1940年」をご覧ください。

その他の注目のレコーディング

「ブルーノートSP時代」CDケース

2年目を迎えたブルーノート・レーベル

創業の年1939年よりもレコーディング・セッションの数は減っています。ミード・ラックス・ルイス、ブルースギタリスト兼歌手のジョシュ・ホワイト、大御所シドニー・ベシェ、ギタリストのテディ・バンの4セッションが行われています。詳しくは「シドニー・ベシェ 1940年」「テディ・バン 1940年」「ミード・ラックス・ルイス 1940年」をご覧ください。ジョシュ・ホワイトの録音については「ブルース・ピープル 1939年」に組み込みました。

ディキシーランド・ジャズとシカゴ・ジャズ

スイングが全盛で、ビ・バップが芽生えたこの年まだまだディキシーランド・ジャズ、シカゴ・ジャズの人気も衰えていませんでした。

エディ・コンドン
ジミー・ヌーン
この年のジミー・ヌーンの吹込みについては、「ジミー・ヌーン 1940年」をご覧ください。
ヘンリー・レッド・アレン
ヘンリー・"レッド"アレンはスイング期を代表するトランペット奏者の一人と思っていたら、こういうディキシーもやっていました。ということはそういうニーズがあったということでしょう。詳しくは「ヘンリー・"レッド"アレン 1940年」をご覧ください。
マグシー・スパニア
前年1939年春、病を乗り越えて復帰し、見事な演奏ぶりを見せたスパニアは、この年エディ・コンドンや歌手リー・ワイリーらと活発な録音活動を行っています。詳しくは「マグシー・スパニア 1940年」をご覧ください。
エディ・コンドン
エディ・コンドンとその一党はこの年もコモドアなどを中心にシカゴ・ジャズを録音しています。詳しくは「エディ・コンドン 1940年」をご覧ください。
ホット・リップス・ペイジ
特に貴重というわけではありませんが、ホット・リップス・ペイジのジャム・セッションをとらえた録音がありますのでここで紹介しておきましょう。「ホット・リップス・ペイジ 1940年」をご覧ください。

ミュージシャンの自伝・評伝が語る1940年

このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1939年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみます。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。
ミュージシャン名生年月日生地自伝・評伝著者
セロニアス・モンク1917年10月10日ノース・カロライナ州・ロッキー・マウント評伝『セロニアス・モンク』ロビン・ケリー
チャーリー・パーカー1920年8月29日ミズーリ州カンサス・シティ評伝『チャーリー・パーカー』カール・ウォイデック
チャールズ・ミンガス1922年4月22日アリゾナ州ノガレス自伝『負け犬の下で』チャールズ・ミンガス
マイルス・ディヴィス1926年5月26日イリノイ州オルトン自伝『自叙伝』マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ
ジョン・コルトレーン1926年9月23日ノース・カロライナ州ハムレット評伝『ジョン・コルトレーン』藤岡靖洋
スタン・ゲッツ1927年2月2日ペンシルヴァニア州フィラデルフィア評伝『スタン・ゲッツ』ドナルド・L・マギン
ビル・エヴァンズ1929年8月16日ニュージャージー州プレンフィールド評伝『幾つかの事情』中山康樹
穐吉敏子1929年12月12日旧満州国遼陽自伝『ジャズと生きる』穐吉敏子
ウエイン・ショーター1933年8月25日ニュージャージー州ニューアーク評伝『フットプリンツ』ミシェル・マーサー

[セロニアス・モンク]
22〜23歳。特段記すべき記述はありません。1940年モンクには仕事がなかったとだけ書かれています。

[チャールズ・ミンガス]
17〜18歳。自伝『負け犬の下で』によると、年代は書いていませんが、レッド・カレンダーに付いてから1年ほどたったある日、ユニオン・スイング・バンドで演奏する「アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン」(トミー・ドーシーの楽団でフランク・シナトラが歌って大ヒットした曲。1940年)の編曲をしていると、リー・ヤング(レスター・ヤングの弟:ドラマー)から電話が入り、アート・ティタムに呼ばれたというのです。確か1940年ティタムはロスアンゼルスでレコーディングを行っています。そしてティタムの家を訪れ、1日に3,4時間練習する日が何週間も続いたそうです。練習が終わると路面電車に乗って家まで帰るのですが、ベースを抱え、楽想に圧倒されたまま幸福感に浸り、披露しきったと書いています。しかしティタムとの二重奏の注文は来ず、ティタムは独奏者として旅に出て行ったのだそうです。

[マイルス・ディヴィス]
1940年は13〜14歳です。教師のエルウッド・ブキャナン(黒人)というプロのミュージシャンのもとで、Tpの練習に励んでいた時期と思われます。特段の記述は見当たらりません。

[ジョン・コルトレーン]
マイルスと同い歳、1940年は13〜14歳です。1938年から40年にかけてコルトレーン一家に次々と不幸が見舞います自身の音楽にまつわる特段の記述は見当たりません。

スタン・ゲッツ]評伝 [スタン・ゲッツ]
1940年は12〜13歳です。中学校時代、体操教師でバンドの指揮者でもあった人から、ベースを教えられ、その後数か月バンドでベースを弾き続けたといいます。彼はベースを弾くことによって、他の楽器にどのように音を混ぜていくのか、どんなタイミングで入ってどこで出ればよいのか、自分の楽器からどうやって共鳴音を引き出せばよいのか等を学んだと言います。さらにバンドという集団に参加することによって、幾つかの重要なことを発見するのです。
・グループの誰よりも速く楽譜が読める。
・音楽に関しては写真記憶的な能力を持っている。
・絶対的な音感を持っている。
・正確なリズム感も持っている。
つまり通常に人には見られない音楽的才能を持っているということです。そうして次第に英語や代数といった正規の科目に対する関心は失われ、音楽に対する関心が増していきます。いくら練習しても楽しさが失われることはありませんでした。しかしベースという楽器が自分に向いていないこともわかってきました。彼はメロディ楽器を演奏したくてたまらなくなります。
こうした息子の希望を知り、父親のアルは、昼食代を削って35ドルを貯め、中古のアルト・サックスを買い与えてくれます。その日は1940年2月16日、スタンの13歳の誕生日の2週間後のことでした。初めてサックスに唇を当てた時、自分の中である何かが震えたといいます。それから彼とサックスは離れがたいものになっていくのです。
スタンは家に閉じこもり、1日8時間は練習に励むようになります。1940年夏の目標は、ジェイムズ・モンロー高校に入学することでした。モンロー高校は当時とっても込み合っていて、本校と5つの分校がありましたが、スタンは本校にしか行く気がありませんでした。というのは本校にはオーケストラのスタジオとプールとジムがあったからでした。そこで年上の友人がオーケストラで第二バスーンの席が空席だと教えてくれます。バスーンはサックスと同じリード楽器ですが、演奏するのはずっと難しいと言われています。スタンは何とかバスーンを借り出し、数か月独学でマスターし、1月のオーディションに合格し、モンロー校の本校に入学できます。モンロー校には5千人の生徒がいましたが、80%がユダヤ人で、黒人が20人、残りはイタリア人と北欧系でした。そのモンロー校をスタンは大変気に入り、毎日オーケストラの練習に励みます。スタンの主任音楽教師アルバート・ベッカーはスタンの非凡な才能を見抜き、長い時間を割いて無料で指導を行いました。夏の間は二流のホテルで演奏を行って稼いでいました。

[ビル・エヴァンズ]
ビル・エヴァンズは1929年うまれですので、1940年は10〜11歳。特にこの年の記載はありません。

[穐吉敏子]
エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1938年は10〜11歳。特に記載はないので、「楽しくて仕方なかった」というピアノのレッスンを熱心に続けていたのだと思います。

[ウエイン・ショーター]
1933年生まれなので、6〜7歳です。特にこの年の記載はありません。

このWebサイトについてのご意見、ご感想は、メールでお送りください。

お寄せいただいたご意見等は本文にて取り上げさせていただくことがあります。予めご了承ください。