僕の作ったジャズ・ヒストリー 6 … 原初のジャズ 1

これまではスコット・ジョプリンのピアノ・ロールを除き、同時代の音源は登場してきませんでしたが、ここからは録音のあるものについて歴史を辿って行きたいと思います。最も古いジャズのレコードは1917年に録音されたO.J.D.B.(Original Dixieland Jass Band:オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド)のレコードということになります。19世紀終わりころに形作られ始めた「ジャズ」が、1917年になって初めて録音されるようになったのです。この間の約20年くらいの間に、録音そして再生という技術が導入されたということです。

ユーイング作「フォノグラフ」

レコードの誕生

現代においてジャズの歴史をたどって見れるのも、その演奏を記録した「レコード」があるお陰といえます。本サイトは「レコード」というものについての歴史を深堀するのが目的ではありませんが、その大恩あるレコードの歴史も簡単に振り返っておきましょう。
一般に蓄音機は1877年アメリカの発明王トーマス・エジソンが発明したと言われていますが、実際はその20年前の1857年にフランスのレオン・スコットという人が音を記録する「フォノート・グラフ」という装置を考案していたと言います。実はエジソンのものと原理はかなり似ていますが、資料が少ないのでエジソンのものを見ていきたいと思います。
エジソンが最初に作った蓄音機は、円筒(シリンダー)にまかれた錫箔(すずはく)に、音圧によって深さの変化をする溝を刻みながら、ハンドルで円筒を回し音を記録します。そして再生に当たっては、再び針先で溝をたどり、メガフォンで音として再生するというものでした。僕が疑問に思うのは、この時代はまだ電気というものがまだ一般的には普及しておらず、手動だったということです。音を記録するときにハンドルを回すスピードと再生するときのスピードが同じでなければ、同じ音で再生することはできませんし、記録するとき再生するとき一定の同じスピードでハンドルを回し続けるということも大変難しいことです。エジソンが電気式の機器を発明するのは1887年のことです。

「グラフォン」

日本はこの蓄音装置に関して極めて速く反応しています。1877年のエジソンの発明を報じた新聞を読んだイギリス人ユーイングが、新聞に報道された原理を利用して自ら蓄音機「フォノグラフ」を製作したのです。イギリス人ユーイングとは、フルネームをジェイムズ・アルフレッド・ユーイング(James Alfred Ewing)といい日本政府の招きで1878年9月にイギリスから来日し東京大学理学部で機械工学を教えていた教授です。彼は新聞報道で知った原理を基にフォノグラフを組み立て11月には完成して実験を行い、成功したそうです。
右がそのユーイングが作成したフォノグラフの現物写真で、現在は国立科学博物館が所蔵しています。
その後の興味深い記事としては、明治21年(1888)12月、アメリカ人ヘイルという人物が来日します。彼は当時在米日本公使であった陸奥宗光から農商務大臣井上馨や岩崎弥之助などに宛てた声の手紙を携えていたというのです。ヘイルはその声の入っているという小さな円筒とグラフォンという機械を持参し、グラフォンで陸奥の声を再生して見せたと言います。井上は内外朝野の紳士200名余りを鹿鳴館に招き、このグラフォンの使用方法などを説明を行いました。その時の模様を報じたときに使われた挿絵が左です。ちょっと分かりにくいですが、右図が録音時で足で回し、まだ人力で回し、再生時は聴診器のようなものを耳に当てて聴いています。

「アメリカン・ミュージックの原点」CDセット

エジソンの発明した蓄音機は、その後錫箔が蝋管に変わりますが、そこに強敵が現れます。ドイツ生まれの発明家エミール・ベルリナー(Emil Berliner:1851〜1929)です。彼はその前にグラハム・ベルの開発チームで電話機を開発しエディソンとの開発競争に勝利しています。そして今度は1887年現在のレコード・プレイヤーの原型となる円盤式蓄音機「グラモフォン」を完成させます。ベルリナーの円盤式の「グラモフォン」が現在のレコード・システムの原型となります。そして1895年にはそのグラモフォンの製造・販売会社「ベルリナー・グラモフォン」を設立し、本格的な生産体制に入ります。この会社は1901年子会社ヴィクター・トーキング・マシン(Victor talking machine Company)を設立します。そしてこの会社が1906年木製キャビネットの中にターンテーブルとホーンを収めた蓄音機「ヴィクトローラ(Victrola)」を開発し、大ヒット商品となります。ヴィクター・トーキング・マシンは後に電機メーカーRCAに買収され、RCAヴィクターとなります。そして1902年にはコロンビア社が円盤型のレコードを発売しています。
『アメリカン・ミュージックの原点』の中村とうよう氏の解説によるとアメリカでは1880年代に音楽産業がスタートしたそうですが、しばらくの間はエジソンの発明したシリンダー式録音機とベルリナーが発明した円盤型の2つの方式がしのぎを削っていたそうです。1910年ごろには性能に勝る円盤型の方式がシリンダー型を駆逐します。しかしそれまでの音源はシリンダー型も多く使われていました。村井康司氏著『あなたの聴き方を変えるジャズ史』によると、シリンダー型録音には、黒人による録音はほとんど含まれていないそうです。つまり本当の黎明期のジャズの録音は残されていないということになります。そしてやっと1917年初めてジャズという音楽がレコードに録音されることになります。

1917年

この1917年という年はヨーロッパを中心に第一次世界大戦が行われている年であり、何といってもアメリカが4月6日にイギリス、フランスなどの連合国側について参戦する年です(詳しくは拙HP「アメリカと黒人の歴史 20世紀その1」参照)。つくづくアメリカという国は大きい国だなぁと思うのは片や戦争を行っている時に普通にエンターティメント産業が活動しているところです。
しかしアメリカの第一次大戦参戦はジャズ界に大きな影響を及ぼしました。大戦に参戦を宣言すると時の海軍長官は、ニュー・オリンズの猛反対を押し切り紅燈街、ストリーヴィルの閉鎖を命令したのです。当時ニュー・オリンズは海軍の主力基地であり、陸軍基地近隣に存在していました。兵士達が娼婦から性病に感染することが懸念されたことがその理由と言われています。それによりアメリカ唯一の公認の紅燈街、ストリーヴィルは1917年11月、その約20年の歴史の幕を閉じます。
このため、市中のあいまい屋、キャバレーなど豪華さを誇った館は閉ざされ、そこで仕事得ていたジャズ・マン達は追い払われてしまいます。「アメリカと黒人の歴史 20世紀その1」でも触れましたが、この少し前から黒人たちは南部から大幅な工業発展を続けている北部へ大移動をしていました。この後ジャズ・マンたちも彼らを追うように北部のシカゴや西部などに向かって移動を行うのです。

ザ・オリジナル・クレオール・オーケストラ

ザ・オリジナル・クレオール・オーケストラ

黒人と言ってもクレオールの重要バンド「ザ・オリジナル・クレオール・オーケストラ(The Original Creole Orchestra)」について触れておきましょう。
ニュー・オリンズから北部あるいは西部に移動したミュージシャンの中に、西部カリフォルニアに移動したビル・ジョンソン(1874〜1972 ※1872年生まれという記載もある)というベース奏者がいました。彼自身はアラバマ州の出身ですが、ガンサー・シュラー氏によれば初期ニュー・オリンズ・ジャズの重要人物で、ジェリー・ロール・モートンの義兄弟でもありました。彼はベース奏法の開拓者という意味ともう一つはバンド運営という2つの意味で大変重要な人物です。
先ずベース奏者としてですが、現代でもジャズ・ベース奏法の基本はピチカート奏法ですが、彼は1911年に既にストリング・ベースをピチカート奏法で弾いていたというのです。このことは彼の後を継ぐポップス・フォスター、ウエルマン・ブラウド、ジョン・リンゼイなどに大きな影響を与えますが、それが次代次代へと引き継がれ現代にまで続いているのです。そして彼は1928年ジョニー・ドッズのバンドでレコード史上初のピチカートによるベース・ソロを記録しています。この演奏は1928年のところで取り上げます。
もう一つは、1911年頃に自分の住んでいたカリフォルニアに、フレディ・ケパードを呼び寄せるのです。ケパードは当時ニュー・オリンズでオリンピア・オーケストラのリーダーを務めていたのですが、それをそのままカリフォルニアへ連れて来るように言ったと云われます。そしてケパードたちがカリフォルニアに着いたのは1913年ごろだったと云います。彼らは「ザ・オリジナル・クレオール・オーケストラ」を結成し、1913〜17年にかけて北部を中心に(南部を避けて…シュラー氏)アメリカ中をツアーして回るのです。各地の若いミュージシャンは、このツアーを聴くことでジャズの原型とも言うべき音楽を聴き、影響を受けたといいます。このツアー中1916年ニュー・ヨークに赴いた時の出来事が次章の「ジャズ初レコーディング」のエピソードです。
結局このバンドは、ツアーに明け暮れる生活に疲れたメンバーが次々と辞めていき、1918年頃にはこのバンドは解散状態となってしまいますが、仕事は続けていました。資料によって若干記載にずれがありますが、ジョンソン自身も18年頃(20年という記載あり)にはシカゴに落ち着きます。しかしこの頃ケパードも辞めてしまったので、ジョンソンはその代役としてニュー・オリンズからジョー・キング・オリヴァーを呼び寄せるのです。オリヴァーはニュー・オリンズでケパードたちが抜けた後オリンピア・オーケストラのリーダーを務めていました。その意図はなかったにしてもジョンソンは、結果的にオリンピア・オーケストラを潰しにかかっているようなものですね。当時はそれほど大したことでもなかったのかな?
ともかくオリヴァーの加わった「オリジナル・クレオール・オーケストラ」はリーダーをオリヴァーが引き継ぐことになり、1921年にバンド名を「キング・オリヴァーズ・クレオール・ジャズ・バンド(King Oliver's Creole Jazz Band)」に改名します。
残念なことにケパードが断ったことから「オリジナル・クレオール・オーケストラ」の録音はありません。また「キング・オリヴァーズ・クレオール・ジャズ・バンド」の録音は1923年になってからのこととなります。

ジャズ初レコーディング

1917年ジャズという音楽の初レコード吹き込みを行ったのが、O.D.J.B.(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド:Original Dixieland Jass Band)です。英文表記の”Jass”は、”Jazz”の誤表記ではありません。またこの吹込みには色々な逸話があります。

油井正一著『ジャズの歴史』

ジャズ評論家の故油井正一氏は、その著『ジャズの歴史』の中で、この時のエピソードを紹介しています。
因みに油井正一氏の『ジャズの歴史』は、1957年に東京創元社から初版発行され、加筆修正され1988年にシンコー・ミュージックより『生きているジャズ史』として再発行されています。この本はタイトルが厳めしい割に中身は砕けた内容で、『ジャズの歴史』というよりは、『ジャズよもやま話』という題にした方がふさわしい感じもしますが。また氏は内容に興味を持ってもらうためか面白さを強調しすぎ、そのデフォルメ度もかなり高い傾向があります。しかしそれもジャズなんてそんなしかつめ面して聴くもんじゃないし、語るもんじゃないよ、大体アバウトなもんだよという氏の主張と捉えれば得心が行く面もありますが…。
ちょっと横道にそれましたが、その油井氏の名調子で、O.D.J.B.ジャズ初録音物語をご覧ください。
「1916年、ニューヨークのウィンター・ガーデンにおけるこのバンド(オリジナル・クレオール・オーケストラ)の成功に着目したヴィクター・レコードは、吹込みの契約を申し出ました。そしてストリング・ベースの録音効果を確かめるために、テスト・レコーディングをしたいと言いました。
(中略)
もしこの契約をキング・ケパード(オリジナル・クレオール・オーケストラのリーダー。名前はフレディだが、キングと呼ばれていた)が受けていたら、最初にニューオリンズを離れた、史上光栄あるオリジナル・クレオールは、また、ジャズ音楽を最初に吹き込んだ、史上最初の楽団としての栄誉を担ったでありましょう。
ところがケパードは言ったのです。
「オイ、金を積みねえ。こんなふうにな」
そう言って彼は目の前に札束を並べて見せました。
ヴィクターの社員は目を白黒させて、
「いや、ただのテストなんですよ」
「テスト?テストもくそもあるもんか。俺さまたちが永年辛苦のすえ、やっと身につけた技術をレコードにとられて、誰にでもたやすく真似されるほど、俺さまたちはモウロクしてねぇんだぞ、オイ」
このケパードのけんまくに、おそれをなしたヴィクターは、とうとう翌年、O.D.J.B.がやって来るまで、ジャズの録音を見送り、ニック・ラロッカのこのバンドは、ジャズ吹込みのパイオニアたる栄冠をになったわけです。」

ブライアン・プリーストリー著『ジャズ・レコード全歴史』

ここで少し異なる見解がありますのでご紹介しておきましょう。出典はイギリスのジャズ評論家でピアニストでもあるブライアン・プリーストリー(Brian Priestley:1946※〜)著『ジャズ・レコード全歴史』です。プリーストリー氏は次のように述べています。
1946※プリーストリー氏の生年について著書では1946年となっていますが、Web等を見ると1940年となっています。
「フレディ・ケパードとオリジナル・クレオール・バンドがアメリカ北部を演奏旅行した際に、レコードを作るように招かれたのは、O.D.J.B.よりも先だったという説が根強く残っている。しかしこのケパードの伝説はいまだ実証されていない。(中略)ケパードが最初にレコーディングの申し出を受けた時、他のミュージシャンにコピーされるのを恐れて断ったという逸話もある。この危惧は納得できるが、20年代半ばになるとケパードも録音を残している」
要するに油井氏の語るエピソードは確認できないとプリーストリー氏は書いているわけです。しかしこれはプリーストリー氏に情報がないだけかも知れず実際は油井氏の語るようなことがなかったという証明にはなりません。ではどうだったか?もちろん僕にはわかりませんが、後で思うところを書いてみます。
フレディ・ケパードは「『クジラの口』とあだ名される、獰猛な巨人」(油井氏による)で、ケパードにこうした「カマシ」の性癖がなければ広まらない噂でしょう。ケパードについては彼の残した録音に触れる時にプロフィールを載せたいと思いますが、一つだけ述べておきます。初代ジャズ王はもちろんバディ・ボールデン(Buddy Bolden:1877〜1931)で、2代目はフレディ―・ケパード(Freddy Keppard:1889〜1933)、三代目ジャズ王はジョー・オリヴァー(Joe Oliver:1885〜1938)という人と「いやケパードは認めない、二代目はオリヴァーだ」と主張する人がいるようです。例えばジェリー・ロール・モートンはコルネット奏者としては最も高く評価していたといいます。上記油井氏の記述にはこんな背景があるのです。
追記
どうもフレディ・ケパードがヴィクターの申し出を断る⇒O.D.J.B.が史上初レコーディングという話のネタ元ネタは、アラン・ローマックスの記載するとこのようです。ガンサー・シュラー著『初期のジャズ』にこのエピソードが出てきます

オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド

オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド

まず最初に吹込みを行ったO.D.J.B.(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド:Original Dixieland Jass Band)というバンドについてみていきましょう。メンバーは、
コルネット … ニック・ラロッカNick LaRocca
トロンボーン … エディー・エドワーズEddie Edwards
クラリネット … ラリー・シールズLarry Shields
ピアノ … ヘンリー・ラガスHenry Ragas
ドラムス … トニー・スバ―バロTony Sbarbaro
というニュー・オリンズ出身の白人5人組です。英文表記の”Jass”は、”Jazz”の誤表記ではありません。左の写真はピアノがヘンリー・ラガスからビリー・ジョーンズに替わった後の1919年以降のもので、この時には”Jazz”と表記されています。黒人によって始められた「ジャズ」という音楽を最初に録音したのは白人でした。この時期ニュー・オリンズには、白人のブラス・バンドも多かったようですが、村井康司氏によれば、ニュー・オリンズだけではなく全米中ブラス・バンドがブームだったそうです。そしてレコーディングが行われたのはニュー・ヨークでした。

ミリタリー・マーチング・バンド

ここで注意したいのは、ニュー・オリンズで活動していたO.DJ.B.というバンドが、ニュー・ヨーク公演に赴きそこでレコーディングを行ったのではないということです。O.D.J.B.は何とニュー・オリンズではなく、シカゴで結成されたバンドなのです。この辺りの事情を少し詳しく見てみましょう。
まずメンバーの内、ラロッカ、スバーバロはイタリア系の移民の子、シールズはアイルランド系、エドワーズ、ラガスは記載なく不明ですが、ラガスは名字から行ってアングロ・サクソンとは思えません。そして全員がニュー・オリンズ出身です。
ガンサー・シュラー氏によれば、このバンドのリーダーはコルネットのニック・ラロッカで、彼の最初のバンドは1908年でコルネット、トロンボーン、クラリネットにリズムという小編成のグループだったが、ニュー・オリンズではこの形式が主流を占めていたそうです。そして演奏していたのはラグタイム、「即興演奏」は出来たが譜面は読めませんでした。その後腕を上げていき、ブラウンズ・ミリタリー・バンドのような大きなブラス・バンドに参加し、さらに1914年にはパパ・ジャック・レイン(Papa Jack Laine:1873〜1966)の様々なパレード・バンドに加わっていたそうです。

パパ・ジャック・レインのバンド 1910年

レインは、当時最も人気のある白人音楽家で、ラロッカ世代の多くのブラス奏者が、レインが率いた様々なバンド(行進、演奏会、サーカス、ラグタイム)の門をくぐったのだそうです。そしてこれらのバンドは、1910年頃までにはフランスやドイツの行進曲の演奏をほとんど止めて、ジョプリンのラグタイムや昔ながらの通俗音楽を演奏するようになっていたそうです。
ラロッカ以外にもエドワーズ、シールズ、スバ―バロはレインのバンドに加わったことのあり、お互い顔見知りだった可能性はあります。ニュー・オリンズ時代は、彼ら白人音楽家は、行事のある度にニュー・オリンズの町を行進して歩いた黒人のバンドの演奏を聴いていたのでしょう。
ガンサー・シュラー氏によれば、ストーリーヴィルが閉鎖になる前、ニュー・オリンズの町はジャズで溢れ、音楽家も過剰であり、極端な競争のせいで音楽で生計を立てるのは困難な状況になっていたというのです。そこに目を付けた興行関係者が彼らをシカゴのような都会へ持ち込むことを行っていたというのです。この流れに従って1916年ラロッカはジョニー・ステインのバンドでシカゴに向かったのです。そして同じステインのバンドのエドワーズ、ラガスにクラリネットのアルサイド・ナンツ(Alcide Nunez:直ぐにラリー・シールズに代わる)、スバ―バロを加えて1916年O.D.J.B.が結成されるのです。
さらにシュラー氏によれば、このO.D.J.B.はシカゴで「標準以上の成功」を収めていたそうで、そのグループの名前は当地を訪れたアル・ジョルソンのような興行関係者を通じてニュー・ヨークの興行関係者には伝わっていたというのです。そしていつのことかは記載がないのですが、O.D.J.B.はニュー・ヨーク公演に向かうのです。この辺りの状況をシュラー氏は次のように書いています。
「既にジェイムズ・リース・ユーロップのグループがニュー・ヨークに刺激的な音楽をもたらしてはいたのだが、ライゼンウェーバーの店に出演したO.D.J.B.の音楽ほどに、活気に満ちて元気溢れる音楽をニュー・ヨークの人間は聴いたことがなかった。また、ニュー・ヨークではシカゴと違って、白人にしろ黒人にせよO.D.J.B.以外のニュー・オリンズの音楽家を聴く機会が欠けていた。O.D.J.B.の一見乱雑なポリフォニーは、単純な旋律とさらに単純な伴奏のつけられた音楽ばかり長年聴かされてきた後では、全く新しい体験だった。
加えてこのバンドが時折使う納屋の動物の鳴き声が音楽外的な注目を引き寄せるところもあった。実際、ニュー・ヨークへのO.J.D.B.の到着は、大衆のダンスが、静かで、厳粛で、優雅な仕草の踊りから、率直で、やたらと体を動かし、素早く、きびきびした踊りへと移行する時期に、またキャバレーやヴォードヴィルの巡業において、『納屋の動物の鳴き声の音楽』や『珍奇な』響きに対する一貫した嗜好が登場する時期に合致していた。そして最後に彼らに匹敵する腕前のグループでも、それが黒人のグループであったならばNGという人種差別路線が引かれていたことも間違いない。」
こうしてO.J.D.B.のニュー・ヨーク・デビューは大成功となります。そこでレコード会社が吹込みをとなるのは自然の流れというものでしょう。ところがこの初録音にも逸話があります。

初めてのレコードは?

「オーディオ・パーク/ディキシーランドVol.1」CD

今回の音源を収録しているのは、左のCDの解説によれば、1917年1月30日コロンビアのスタジオで「ダークタウン・ストラッターズ・ボール(Darktown strutters’ ball)」と「インディアナ(Indiana)」の2曲を吹き込みます。しかしコロンビアは発売にあまり乗り気ではなく発売しませんでした。そしてO.J.D.B.は約1か月後の2月26日ヴィクターに「ディキシー・ジャズ・バンド・ワン・ステップ(Dixieland jass band one step)」と「ライヴリー・ステイブル・ブルース(Livery stable blues)」の2曲を吹き込みます。そしてこのレコードは当時として驚異のスピードで、生産され約1週間後の3月8日に発売するのです。そしてこれが驚異的な大ヒットとなります。これに驚いたコロンビアは大慌てで1月30日の録音をレコード化し同年5月に発売にこぎつけたというのです。プリーストリー氏の『ジャズ・レコード全歴史』によれば、1年間で100万枚売れたそうです。また最初の録音でコロンビアが支払ったギャラは2曲で一人50ドルだったそうです。これは後の黒人のレコーディング報酬に比べて非常に高い水準でした。
僕はオーディオパークから出ているCDフル・タイトル「白人草創期のディキシーランド・ジャズ」の第1集しか持っていませんが、そこには1月30日コロンビアへの録音「ダークタウン・ストラッターズ・ボール」と2月26日ヴィクターへの録音「ディキシーランド・ジャズ・バンド・ワン・ステップ」が収録されています。
その後の彼らは、1年間の専属契約をヴィクターと結びますが、マイナー・レーベルにも盛んにレコーディングを行います。このマイナー・レーベルに行った1917年の録音の内7曲がブライアン・ラスト氏が編集したFountain recordsから出ているレコードに収録されています。これら音源につきましては「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド 1917年」をご覧ください。

先ほど書いたように初レコーディングについては、油井正一氏の興味深いエピソードがあり、これに対してブライアン・プリーストリー氏は「このエピソードは確認できない」としています。ということは確認できないにせよそのようなエピソードは噂されていたということです。因みにこの時代のジャズについて最も詳細に検証しているガンサー・シュラー氏はこの噂に全く触れていません。ともかくこの吹込みについては色々なことが考えさせられます。
油井氏のエピソード通りだったら…
フレディ・”キング”・ケパードの率いる「オリジナル・クレオール・オーケストラ」は、ジャズ誕生の地ニューオリンズ出身のクレオールによるバンドで、ニューヨークなどに公演に出ていたことになります。そしてヴィクターは、1916年のニューヨークのウィンター・ガーデンにおける成功で、ケパードのバンドを録音の対象にしたということになります。これに対してシュラー氏は、ケパードのバンドは1915年にニュー・ヨークに登場したが決定的な成功は得られなかったとします。それはニュー・オリンズのスタイルが余りに強烈で賞味できなかったのではないか、一度白人のニュー・オリンズのグループが薄味に仕立てたもので舌を鳴らす必要があったのではないか。これがO.D.J.B.がニュー・ヨークで大評判を取った秘密ではないかとしています。また当時は人種差別路線が引かれていた時代で、白人以前に黒人のジャズ演奏が録音されるのは、かなりハードルが高いのではないでしょうか?実際黒人のジャズ演奏が録音されるのは、この録音から4年も後の1921年に行われたキッド・オリィとサンシャイン・オーケストラの「Ory's creole trombone/Society blues」と言われているのです。

白人による初レコーディングの影響

ルイジアナ・ファイヴ

「白人」による録音そしてそのバンド名が「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド」(Original Dixieland Jass Band)であるということは、その後さまざまな影響を及ぼします。
まずそもそも「ディキシーランド(Dixieland)」とはどういう意味でしょうか?これも油井氏の著作から、「まだニュー・オリンズがフランス統治下にあった頃、ニュー・オリンズの中央銀行が発行していた10ドル紙幣に大きくDIX(ディス:フランス語で10のこと)と印刷してあったそうです。このことからニュー・オリンズをDixie(ディキシー)とアダナするようになり、間もなくニュー・オリンズのみならず、アメリカの南部一帯をディキシー或いはディキシーランドとよぶようになった」のです。
つまり「ディキシーランド・ジャズ」とは、最も伝統的なニュー・オリンズのジャズ・スタイルを彷彿とさせるネーミングと言えます。油井正一氏『ジャズの歴史』によれば、「第二次世界大戦までは、ニューオリンズ・スタイルとは、黒人によって演奏されるニュー・オリンズ的ジャズであり、ディキシーランド・スタイルとは、白人によって演奏されるニュー・オリンズ的ジャズのことであった」のです。「しかし大戦中から白人と黒人の人種的偏見はだんだんと薄らぎ、(中略)特に「ニュー・オリンズ・スタイル」が区別して用いられる以外は、広く「ディキシーランド」という呼び名で包括されるようになった」そうです。しかし僕がジャズを聴き始めた頃はまだ「ディキシーランド=白人」という雰囲気は残っていました。
要は「ディキシーランド・ジャズ」=「最も伝統的なジャズ・スタイル」+「白人によるレコーディング」ということにより、アメリカでも南部以外の特に詳しくない一般の人々に、「ジャズは白人が作り出したもの」というイメージが定着していきました。
もちろん黒人がバンドを作り「ディキシーランド」という言葉を使っても構わないのですが、そういうバンド名は聞いたことがありません。何故でしょうか?油井氏は最初に中央に進出した「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド」に敬意を表して黒人は使わなかったのだろうと穏便に書いていますが、きっとそうではないでしょう。もし安易に黒人バンドがこの言葉を使ったら、「黒人のくせに白人が作ったものを勝手に真似するんじゃねぇ!」とばかりにリンチの対象になったかもしれません。そのことを当時の黒人たちは十分に心していたのだと推測します。

1918年

この年11月11日にドイツが降伏して第一次世界大戦が終結する時です。O.D.J.B.は終戦前の時点でも盛んに吹込みを行ったようです。ただ僕はるCD「白人草創期のディキシーランド・ジャズ」に収録された2曲しか音源を持っていません。この音源の詳細は「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド 1918年」をご覧ください。
O.D.J.B.の成功を見てか他のバンドたちもO.D.J.B.のスタイルを模倣し、レコード会社達は第2のO.D.J.B.発掘に乗り出します。その代表としてシュラー氏はアル・フラーのバンドやルイジアナ・ファイヴ、ニュー・オリンズ・ジャズ・バンドの名を上げています。特に模倣されたのは、O.D.J.B.が「バーンヤード・ブルース」などで披露した動物たちの鳴き声の物真似で、これをシュラー氏は「田舎臭い効果音を濫用して、新しいジャズを不幸なやり方で汚した」と厳しく非難しています。
彼らの内ルイジアナ・ファイヴだけは音源を持っていますので、詳しくはそちらをご覧いただくとして少しだけこのバンドについて触れると、編成が非常に変わっていて、通常主役を張るコルネット奏者が加わっていません。メロディ楽器はクラリネットのみでアルサイド・ナンツが吹いています。彼は元O.D.J.B.に在団していて、レコーディング直前に辞めた人物です。彼はこのバンドの主役としてかなり張り切ったプレイぶりを示していますが、O.D.J.B.に対する対抗心もあったのでしょうか。
この年の2月と3月に黒人バンドリーダー、ジム・リース・ユーロップが軍楽隊「ヘルファイターズ」を率いてフランス、イギリスでラグタイムやアメリカン・ポピュラー・ソングを演奏して大評判を取っています。
プリーストリー氏『全歴史』によれば、この年までレコードの生産はコロンビアとヴィクターの独占状態でした。しかしこの年ジネット社(Gennett records)が起こした独占禁止法の裁判でヴィクターとコロンビアは敗訴し、その結果沢山のマイナー・レーベルが誕生していくことになります。

1919年

「ODJBinEngland」レコード・ジャケット

第一次世界大戦戦勝国側は、史上初めての国際的平和機関「国際連盟」の設立に動き、その主導的な動きをしながらアメリカ自身は加入しないという決断をします。工業化、都市化はますます進みます。そしてこの年いわゆる禁酒法が成立し、翌1920年施行されます。このことがマフィアなどギャングの勢力拡大の温床になって行きます。人種差別問題も相変わらず白人側によるリンチが横行し、これまでと異なり黒人側も抵抗し、7月にはシカゴで大規模な暴動などが起こっています。黒人指導者マーカス・ガーヴェイによる運動が活発化したのはまさにこの頃です。
そんな中O.DJ.B.は1年半にわたる契約のためイギリスに渡ります。そして各地で公演を行うのですが、レコーディングも行っています。その英国での録音を収めたのが左の「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド・イン・イングランド」25pLP盤です。レコーディングの日付は1919年4月から1920年5月に渡っていますが、イギリス録音ということでまとめました。このレコードは意外に音がよく聴きやすいです。この時代の復刻レコードはSP盤を再生したものを再レコード化することが多いようですがもしかするとこれはマスター盤が存在したのかもしれません。
同時代のO.DJ.B.のライヴァル・バンドとしてシュラー氏はいくつかのバンドを挙げています。
N.O.J.B.
先ずは「オリジナル・ニュー・オリンズ・ジャズ・バンド(The Original New Orleans Jazz Band)」。略称は”Original”を省いた頭文字でしょうか?このバンドはニュー・ヨーク生まれのラグタイム・ピアニスト、ジミー・デュランテ(Jimmy Durante:1893〜1980)がニュー・オリンズ出身の音楽家を集めて結成したバンドで、この年1919年ジネット社に吹き込んだ録音は傑出した出来であると言いますが、残念ながら持っておらず聴いていません。なおリーダーのデュランテは、後に俳優、コメディアンに転身し、バスター・キートンなどとも共演し成功した人物で、そちらの方が名が通っているかもしれません。
アール・フラーズ・フェイマス・ジャズ・バンド
先ほども名前が登場したアール・フラー(Earl Fuller:1885〜1947)のバンドも1917年から録音活動を行っていますが、残念ながらこれもレコードは持っておらず未聴です。
ルイジアナ・ファイヴ
シュラー氏によれば、1919年にこのバンドは40面分もの録音を行ったようですが、僕が持っているのは前掲した8面分だけです。
オリジナル・メンフィス・ファイヴ
トランぺッターのフィル・ナポレオン、ピアノのフランク・シニョレリ等によって結成され、1917年ごろから活動を始めたようですが、録音は1921年以降となります。このバンドは時に「ラッズ・ブラック・エイシス(Ladd's Black Aces)」、「ジャズボーズ・キャロライナ・セレネイダーズ(Jazzbo's Carolina Serenaders)」、「ベイリーズ・ラッキー・セヴン(Bailey's Lucky Seven)、「ザ・コットン・ピッカーズ(The Cotton Pickers)」などと名を変えてレコーディングを行っているので、大変ややこしいですが、やがてディキシーランド・ジャズの重要バンドになって行きます。

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