僕の作ったジャズ・ヒストリー 8 … 初期のジャズ 1‐1923年

さて今回は1923年を取り上げます。ガンサー・シュラー氏は、「1923年以前の録音が、厳密にいえば、どれもジャズとは考えられない」と述べています。シュラー氏の発言に敬意を表し、僕のHPでは、1922年までを原初的ジャズ、1923年以降を「初期のジャズ」と区分けし、録音から歴史を振り返ってみたいと思います。

関東大震災

1923年という年

1923年は日本では大正12年、私事ですが、僕の父親が生まれた年です。僕の父親はずいぶん前に亡くなっていますが、もし生きていればこの原稿を書いている現2021年には98歳になっていたはずです。現在98歳という方は日本に約5万人ほどいらっしゃるようです。
そう聞くとそれほど昔でもないなぁと思ってしまいます。因みに日本では9月1日いわゆる「関東大震災」が発生し、死傷者が10万人を超える観測史上最大規模の被害を記録した年でした。 ジャズにおいても1923年はエポック・メイキングな年で、シュラー氏は、1923年に最初の録音を行った偉大な音楽家として、キング・オリヴァー、フレディ・ケパード、ルイ・アームストロング、ジェリー・ロール・モートン、シドニー・ベシエ、ベニー・モーテン楽団を挙げ、さらに「ベッシー・スミスが最初のブルースを録音した年であった」と述べています。氏はもう一つ重要な録音、フレッチャー・ヘンダーソンを記載していませんが、彼もこの年からレコーディングを開始しています。僕はこれらのレコードを全て保有しているわけではありません。僕の持っている音源は、キング・オリヴァー(ルイ・アームストロングを含む)、ジェリー・ロール・モートン、フレッチャー・ヘンダーソン、ジミー・ヌーン、ベッシー・スミス、アール・ハインズなどです。

1920年代 アメリカの黒人

シカゴ・サウスサイド

拙HP「そもそもアメリカと黒人11」でも触れたように”南部農村からの黒人の離脱、北部の大都市への移住は、第一次世界大戦を通じて飛躍的に増大し、戦後経済の活況に拍車をかけることになります。大戦中にシカゴを中心とする北部諸都市では、それまで以上に工業が急速に発展し、安い賃金労働者である南部の黒人たちを大量に必要としていました。また一方黒人側も、南部でのプランテーションを中心とする厳しい労働環境と人種差別に喘いでいた黒人たちは比較的差別の緩やかな地域への移住を望んでいたという条件が重なり、シカゴには多数の黒人労働者が移住していました。そもそもシカゴはミシシッピー川を北上し、セントルイスを経由すれば故郷ニュー・オリンズとも近かったのです。このような事情からジャズの本流は20年代にシカゴに移り、シカゴがジャズの第二の故郷となっていきました。
これらの移住の数は正確にはつかみきれませんが、ある試算では1910〜30年南部のブラック・ベルトから流出した黒人だけで、100万人以上と推定しています。これにより1910〜30年間に、黒人人口はシカゴで5.3倍、デトロイトで20倍、ニュー・ヨークで3.7倍に増えたといいます。またこの時期にはカリブ海からも黒人移民が大都市に押し寄せました。また同時南部内部においても黒人の都市への移住が始まり、ブラック・ベルトは大都市の工場に安価な労働力を供給する兵站基地としての役割を担うことになります。こうして特に北部の大都市を中心に、黒人の中にも労働者階級が形成され始めることになります。
そもそもジャズは19世紀末から20世紀初めにかけてアメリカ南部、ミシシッピ川河口の港町ニュー・オリンズもしくはその周辺の地域で生まれたことは既にふれました。ニュー・オリンズの黒人ミュージシャンの多くは、本業を持つかたわら、夜になると歓楽街であるストーリーヴィルやその周辺に立ち並ぶ売春宿や酒場、ダンス・ホール、キャバレーなどに雇われ演奏していました。また時には昼間にもパレードなどに駆り出され、ブラス・バンドの一因として演奏していました(大和明氏著『ジャズの黄金時代とアメリカの世紀』)。そしてニュー・オリンズは海外派兵の軍港となったことにより、衛生と規律上の理由で軍隊からの要請で歓楽街ストーリーヴィルは閉鎖されてしまいます。このため周辺のカフェやダンス・ホールも衰微しジャズ・マンの仕事場が失われていったのです。
そこでミュージシャンたちは、これまでのような片手間の仕事ではなく正規の職業ミュージシャンとして活動できる場を求め中北部の大都会シカゴやニュー・ヨークへと向かっていったのです。そこには前に述べたように、南部から移動した多くの同胞たちがいました。
このような事態の推移は、都市の黒人たちに彼らがまだ知らなかった問題を投げかけることになります。何よりも彼らは都会の生活に慣れていませんでした。しかも彼らを待っていたのは、南部とほとんど変わらない差別待遇だったのです。賃金は安く、住居もゲットーと呼ばれる隔離された貧民街の一区域に押し込められたのです。黒人居住地としては、シカゴではサウスサイド、ニュー・ヨークではハーレムが有名です。

ジャズ・ピアノの萌芽

レント・ハウス・パーティ

ハウス・パーティでピアノを弾くアルバート・アモンズ

南部から黒人が大量に都市部に流入してくるようになると、黒人の住宅の家賃も高騰します。そのため住人は安価な参加料を取って、ハウス・パーティーを開き家賃の助けにする「レント・ハウス・パーティ」が盛んに行われるようになります。「レント・ハウス・パーティ」は一種の助け合いパーティで、この習慣は教会が行っていた「チャーチ・サパー」に端を発すると言われます。「チャーチ・サパー」とは、教会のメンバーが作った料理を持ち寄り、お互いにそれを購入し合って会食します。その売り上げは積み立てられ教会の修繕費などに利用されるという仕組みです。このやり方がそのまま「レント・ハウス・パーティ」に適用されました。食べ物や密造酒が準備され、お客は入場料を払い、さらに食べ物や飲み物を買い、歌って踊って楽しみます。その利益は主宰した家の家賃の支払いに当たられました。
油井正一氏の『ジャズの歴史』によれば仕組みはもっと単純で、入場料は50セント程度でこれは主催者の取り分となります。、お客はそれぞれ自前でサンドイッチやジンなど持参する仕組みだったと言います。ともかくこういったパーティには音楽は欠かせません。その音楽にはピアノが使われましたが、そこで奏でられる音楽や仕組みがシカゴとニュー・ヨークでは異なりました。
シカゴは先に述べたように南部からの移住者が多く、ブルースとブルースに根差したブギー・ウギーが生まれてきます。演奏者は入場料が無料で食べ物も持参せず、いわゆる手ぶらでやって来るのですが、パーティーでは大歓迎を受けたそうです。一方ニュー・ヨークの黒人は東部沿岸からやってきた人たちで、シカゴの黒人たちを「田舎者」として軽蔑していたと言います。そして彼らが好んだのは「ストライド・ピアノ」でした。「ストライド・ピアノ」は、「ラグタイム」からの論理的発展(レコード『クラシック・ジャズ・ピアノの精髄』(ヴィクター RA-28/29)解説)と言われます。
シカゴのブギー・ウギー・ピアニストたちは全てアマチュアで、ピアノの奏法の基本については全くの無知でした。正式な弾き方も分からぬままヨーロッパ製のピアノという楽器に触れた時どんな音楽が作られたか?ブギー・ウギー・ピアノの面白さはこれに尽きる(同上解説)そうです。代表的な演奏者としてはジミー・ヤンシー、パイントップ・スミスなどが挙げられますが、彼らの録音は少し時代が下った1928年に行われます。
一方ニュー・ヨークのストライド・ピアニストたちは全員プロで、入場無料や飲食無料程度でその腕前を披露することはなかったそうです。1回10ドル程度の謝礼金を取り、一晩に3、4のパーティーを掛け持ちする夜もあったそうです。代表的プレイヤーとしては、ユービー・ブレイク(1887〜1983)、ラッキー・ロバーツ(1895〜1968)、ジェイムズ・P・ジョンソン(1891〜1955)、ウィリー・ザ・ライオン・スミス(1897〜1973)、ファッツ・ウォーラー(1904〜1943)といった人たちが挙げられます。

ハーレム・ストライド奏法

ジェイムズ・P・ジョンソン

先ず、ハーレム(Harlem)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区北部(アッパー・マンハッタン)に位置する地区の名前で、黒人たちの文化とビジネスの中心地となっています。”Harlem”はトルコ語のハーレム(harem)とはまったく関係がなく、オランダの都市ハールレム(Haarlem)にちなんでオランダ移民によって名付けられたと言われ、 かつてはオランダ系移民の住居地でした。
1664年に、イギリスがニューネーデルランドの支配権を取得したことで、イギリス領となりました。オランダは1673年に一年だけニューヨークの支配権を取り戻していますが、ハーレム村はイギリス領としてゆっくりと発展し、18世紀半ば頃にはニューヨーク市の裕福な人たちの保養地となった。19世紀に入り、この地区は未だニューヨーク市の田舎であったが、1811年都市開発計画が策定され、南北戦争が終わると、1868年からハーレムには好景気の波が訪れました。そしてこの時期に、貧しいユダヤ系移民やイタリア系移民の人口が急速に増えたと言われます。さらに鉄道網が整備され、ハーレムとロウアー・マンハッタンおよびミッドタウンが公共交通網で結ばれたことが、ハーレムの発展を加速します。1900年代その後、20世紀に入り、黒人たちの大移動の流れが起こり、多くの黒人たちがハーレムにやってくるようになります。こうして1920年代のハーレム・ルネサンスに象徴されるように都会の一角に現出したエキゾチックな黒人街になって行きます。
ニューヨークに起こった最初のジャズ・ブームは、南部から到来したラグタイム・ピアノでした。放浪のピアニストたちがこの地にラグタイムを伝えたのです。この放浪楽師たちは、生活も奔放で「ラグタイム・キッド」と呼ばれました。彼らはサロンでピアノを弾くだけではなく、売春婦のヒモやポン引きなどを兼ねていることが多かったといいます。こうした程度の低いラグタイム・キッズに続いて、若い有能な一群のピアニストたちが現れます。それが先ほど挙げた一群のピアニストたちです。
1923年までに録音されたジャズと言えば、これまで見てきたように1921年(1922年が正しいか)のキッド・オリィそしてジェイムズ・P・ジョンソンが1921年録音の「キャロライナ・シャウト」をレコーディングしています。この曲については前回「僕の作ったジャズ・ヒストリー7」で取り上げました。実際に聴いてみると左手の動きは複雑で、ラグタイムにリズム変奏を加えたものという感じを受けます。
ジョンソンは、「ストライド・ピアノの父」と呼ばれますが、この「ストライド奏法」とはどのようなものでしょうか?
1972年4月にスイングジャーナル社が発行した『ジャズ百科事典』では、「ラグタイム・ピアノ奏法の特色の一つである左手の動き、すなわちベース・ビートを1、3泊と2、4拍をオクターヴにまたがらせて弾くスタイル、つまり「大股に歩く、跨ぐ」の語意から出たピアノ・スタイルに対する呼称で、いわゆるハーレム・ピアニストと言われたラグタイム・スクールのジャズ・ピアニスト、ジェイムズ・P・ジョンソン、ハワード・ロバーツ、ウィリー・”ザ・ライオン”・スミス、などのスタイル。この人たちに強い影響を受けたファッツ・ウォーラー、デューク・エリントン、アール・ハインズらの奏法の基盤となっている。」
また1975年4月に同じくスイングジャーナル社発行の『ジャズ・ピアノ百科』によると、「ジェイムズ・P・ジョンソンは幼時より正規の音楽教育を受けたミュージシャンで、30年代にはクラシックの作曲に没頭したことすらあった。彼は単純なラグタイムの演奏に飽き足らず、強力な左手を活かしたストライド奏法を完成して、ジャズ・ピアノの歴史に一流派を築いた。「ストライド」というのは、ドラムやベースの動きを代行する、ステディな左手のブンチャ・リズムを形容した言葉で、後年セロニアス・モンクがこの奏法を復活させて、モダン・ファンの意表を突いたことはまだ記憶に新しい。」と書いています。
またブライアン・プリーストリー氏は、ユービー・ブレイクこそがストライド・ピアノの巨匠であり、作曲の面でも大きな成功を収めたとし、彼の成功を受けて登場してきたのがラッキー・ロバーツであり、ジェイムズ・P・ジョンソンであるとしています。ストライドの語源としては、「当時のピアニストはリズム・セクションとして1小節に4拍のビートを刻んでいた。古典的なラグタイムのスタイルでは狭い音域の中でしか動かない左手がストライドになると2オクターヴ以上動くこともあった。ここにストライド(大股で歩く)の由来がある」と書いています。

ストライド・ピアノ 左手の例

ガンサー・シュラー氏は、譜例を用いながらもう少し詳しく解説しています。「左の譜例はピアニストの左手で、根音(譜例のX)と和音(Y)両者が結合して、右手による演奏、装飾、即興を可能とするリズム的土台を形成するラグタイムからジャズ・ピアノへの移行期の奏法」とのこと。つまり「ブンチャ、ブンチャ」というリズム、和音双方を左手が負い、右手がメロディー・ラインを奏でる奏法と考えてよいでしょう。
そのジェイムズ・P・ジョンソンが1923年に録音したピアノ・ソロ(「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第6巻クラシック・ジャズ・ピアノの精髄」(RCA RA-28〜29)に2曲収録)を聴くと21年10月録音の「キャロライナ・シャウト」と比べると、左手の動きがリズムに寄っている感じがします。
シュラー氏はジョンソンを評して、「彼の最大の貢献は、ラグタイムのリズムをよりスイングする、より確実なジャズのビートに置換したことだった」と述べています。

雑感

ハーレム・ピアニストとして先にジェイムズ・P・ジョンソン以外にユービー・ブレイク、ラッキー・ロバーツ、ウィリー・ザ・ライオン・スミス、ファッツ・ウォーラーといった人たちの名を上げました。しかし「ストライド・ピアノの父」として文献などに登場するのはジェイムズ・P・ジョンソンばかりです。もちろんジョンソンが最も先進的に活躍したからだと思いますが、もしかするとラッキー・ロバーツの方が優れた演奏をしていたかもしれません。しかしレコーディングが遅れたので取り上げられないということもあるかもしれません。
一方シカゴに目を転じると”ブギー・ウギー・スタイル”の創始者と呼ばれるジミー・ヤンシーは、一説によれば1915年ごろから”ブギー・ウギー・スタイル”でピアノを弾いていたと言います。しかし前にも触れましたが、ブギー・ウギー・スタイルのピアノの録音は1928年に入ってからのことです。
ブライアン・プリーストリー氏の言うように「ジャズの歴史」と「ジャズ・レコードの歴史」は異なるのです。

ジェリー・ロール・モートン

ジェリー・ロール・モートン

ジャズ・ピアノつながりということで、偉大な作曲家でありピアニストであるジェリー・ロール・モートンを取り上げましょう。彼もこの年からレコーディングを開始しています。彼の場合ハーレム派でもシカゴ派でもなく、放浪のピアニストという感じがするのですが実際はどうだったのでしょう?シュラー氏は、彼を「最初の偉大な作曲家」として一つの章を割いています。
彼は1904年ニュー・オリンズを離れ、アラバマ州のモビールに向かった時から1923年にシカゴに落ち着くまでの約20年間は博徒兼ピアニスト、さらには娼婦のヒモとして生きていたといわれます。その間故郷ニュー・オリンズに戻ったこともありますが、再び放浪の旅に出てカリフォルニア、テネシー州メンフィス、セントルイス、カンサスシティなどを転々としたと言います。
その間メンフィスにおいて、後に「嘘つき」呼ばわりするW.C.ハンディと一時一緒にバンドを作ったことがあるというエピソードは興味深いですね。また、1909年から10年にかけて喜劇役者になろうとヴォードヴィルの一座に加わり、中部各地を巡業もしたといいますが、当時モートンが座員たちと卑猥な冗談のやり取りをしている中で、“ジェリーの付いたロール・パン”を意味する実に卑猥な「ジェリーロール“Jelly Roll”」というニックネームが彼に付けられたのだそうです。
そして1911年初めてニュー・ヨークに行きます。この時ハーレムで活躍していた「ストライド・ピアノの父」ジェームス・P・ジョンソンはモートンのピアノを聴いて、クラシックの技法を取り入れた素晴らしいピアニストであると称賛したそうです。当時のモートンはいかにも遊び人風で前歯にダイヤモンドをはめ込み、しゃれた服装をした商売女を2人引き連れていたそうです。
ともかくモートンは1923年シカゴにたどり着き、そこでしばらく落ち着くのです。そして初のレコーディングをパラマウント・レコードに行うことになります。その詳しい経緯は、「ジェリー・ロール・モートン 1923年」をご覧ください。
また詳しい解説もそちらをご覧いただきたいのですが、一言でいうとシュラー氏の言うように寄せ集めのバンドの割に出来映えは素晴らしいのです。アンサンブルはディキシーだが各自のソロは、モダンなフレイジングもあり聴き応えがあります。また御大のモートンもアヴァンギャルドと言ってもいいようなバッキングで演奏の価値を高めています。ただ残念なのは打楽器としてドラムではなくウッドブロックが使われていて、ポカポカポコポコという音が耳障りなことです。このレコードはよく売れたそうです。

ニュー・オリンズ・リズム・キングス

ガンサー・シュラー氏によれば、「1923年7月、モートンとN.O.R.K.は偶然か、意図的にかは不明であるが、リッチモンドのジネット社のスタジオで顔を合わせた」のだそうです。約1か月前まで単なる放浪のピアニストだったモートンが、なぜジネットのレコーディング・スタジオにいたのかは定かではありませんが、シート・ミュージック等で名を知られる存在だったのかもしれません。そしてそこでN.O.R.K.(ニュー・オリンズ・リズム・キングス:以下NORKと略)と共演を果たします。ジャズ・レコードにおいて白人と黒人が共演するのは、これが初めてのことです。この歴史的録音は、NORKのメンバーたちがモートンを尊敬していたことから実現したと言われますが、そもそもどうしてNORK達はモートンを知っていたのでしょう?そんなに一挙に名声は上がるものなのでしょうか?
この時のジネット・セッションをまとめると、
7月17日NORK with モートン … 3曲、モートン・ピアノ・ソロ … 2曲、NORKのみ … 1曲
7月18日NORK with モートン … 2曲、モートン・ピアノ・ソロ … 4曲
つまりNORKとの共演が5曲、ソロを6曲録音しています。

オーディオ・パークCD「白人草創期ジャズ音楽」

この内NORKとの共演が5曲中2曲がオーディオ・パークのCD「白人草創期ジャズ音楽」(APCD-6001)に、ピアノ・ソロがマイルストーン・レコードから出ていた2枚組レコード“Jelly Roll Morton 1923/24”(M-47018)に収録されています。
ともかくシュラー氏は、「彼らは5曲共演したのだが、リズムがしばしば硬直し、響きが不安定で、形式が不細工だったこのグループに対するモートンの影響は、グループだけの録音とモートンが加わった録音を大まかに聴き比べるだけではっきり分かる」と述べています。NORKはこれに先立つ3月12、13日に5曲ほどレコーディングしており、それらとモートンの加わった録音を比較して聴いてみると大きく異なると述べているのでしょう。
僕の持っているのは2曲で聴き比べをしていませんが、この2曲に関しては、多分モートンのアレンジが功を奏し寛いだスイング感のある演奏に仕上がっていると思います。

ジェリー・ロール・モートンのピアノ・スタイル

[Jelly Roll Morton/1923・24]ジャケット

モートンのピアノ・スタイルは、この当時としては当然ながら<ラグタイム>を基盤にしています。しかし純粋なラグタイムとは異なり、かなり即興や変奏を取り入れ、フランス音楽やスペイン音楽のメロディーやリズム、さらにはブルースやスピリチュアルの要素も取り入れるのみならず、ニュー・オリンズの街頭ブラス・バンドからの影響も感じさせる独自のスタイルだったと言われます。そのもっとも典型的な演奏は、1938年に米国議会図書館用に民族学者アラン・ローマックス氏が行ったモートンのインタービューとピアノ演奏で、ここでジョプリンの「メイプル・リーフ・ラグ」をラグタイムとモートン・スタイルで弾いているものだと言います。僕の持っているのはスミソニアン協会が再編集したもので、ここではラグタイムを本家ジョプリン自身が弾き、ジャズ版をモートンが弾いている。録音が1938年が「?」と書きましたが、ガンサー・シュラー氏は、モートンは1900年初めのころと変わっていないとしています。

トニー・ジャクソン

さてではこのモートンのスタイルはどのようにして生まれてきたのでしょうか?それはモートンがピアノを始めた頃、最も影響を受けたと明かしているトニー・ジャクソン(Tony Jackson:1882〜1921)という伝説的なピアニストの存在です。モートンはジャクソンを「世界で最高の一匹狼のエンターティナー」と言って憧れていたらしいのです。このジャクソンについては、当時の複数の他の音楽家もこの証言を認めているといいます。そしてこのトニー・ジャクソンという人物は、オペラであれ、ショウの音楽であれ、ブルースであれ譜面に書かれたもので弾けないものはなかったといいます。そう云った人物にモートンは憧れた、つまり「何でも弾ける」ことを目指したことになります。こうしてその多様性を育んでいったのでしょう。
そのモートンは1923年ジネットに始めてピアノ・ソロを録音します。この録音についてシュラー氏は、楽想のみならず技巧の点でも間違いなく質が高く、明晰で良くスイングしているしテンポも正確であると非常に高く評価しています。こちらも詳しくは、「ジェリー・ロール・モートン 1923年」をご覧ください。このモートンのピアノ・ソロとジェイムズ・P・ジョンソンのピアノ・ソロを比べて聴いてみれば、「ハーレム・ストライド奏法」との違いが明確になると思います。比較して感じることは、ジョンソンが終始「ブンチャ、ブンチャ」という2ビートなのに対して、モートンは曲によってはハバネラのビートを用い変化をつけていることでしょう。モートンの方により「ジャズ」を感じるのは僕だけではないのではないかと思います。
1923年の年間ヒットチャートを見ると、「カンサス・シティ・ストンプ」が17位、「グランドパーズ・スペルズ」が70位にランクされていることで、モートン自身が「結構売れた」と言っているバンド演奏の方は、100位までにはランクされていません。

アール・ハインズのデビュー

ロイス・デピュとハインズ

1923年後にジャズ界に大きな影響を及ぼす偉大なアーティストが密かにレコードデビューしています。別に「密かに」でもないのですが、そのデビューがjジャズ本などで取り上げられているのを見たことがありません。その人物とは「アール・ハインズ」です。アール・ハインズは1903年12月生まれという記述と1905年生まれという記述がありますが、1903年生まれとしてもまだ19歳という若者です。その若者ハインズは1923年10月3日歌手ロイス・デピュのバンドでレコーディング・デビューしています。ロイス・デピュはどちらかと言えばジャズ系の人ではなく、シカゴ近辺を中心に活躍していたシンガーですが、その吹込みでハインズの作った曲「コンゲイン」(Congaine)を取り上げ、ハインズにピアノ・ソロまで弾かせています。デピュがいかにハインズを高く評価していたかが分かります。
ハインズは当時のピアノ・スタイルのラグタイムにニューヨーク・スタイルと呼ばれるストライド奏法を取り入れ、さらにはシングル・トーンを活かした「トランペット奏法」を編み出すなど正に"Fartha"(ジャズ・ピアノの父)と呼ばれる存在ですが、デビュー当時からその天才ぶりを発揮していた傑出したアーティストだったkとが分かります。 詳しくは「アール・ハインズ 1923年」をご参照ください。

白人ディキシーランド・バンド

「ジ・オリジナル・メンフィス・ファイヴ」

ODJBに始まる白人ジャズ・バンドは、早くも1920年代初めには既に飽きられかけていたと言われます。1923年のヒット・チャートを見てもこれまで登場したバンドとしては、O.D.J.B.(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド)の、「サム・オブ・ディーズ・ディズ(Some of these days)」が85位にランクされているのが最高です。これはこれまでの白人ジャズ・レコードの主要な消費者の白人達の関心が他に移ったことの表れかもしれません。
僕の持っている1923年に吹き込まれた白人バンドによるジャズは、ジェリー・ロール・モートンと共演したNORKを別にすると、「ザ・コットン・ピッカーズ 1923年」のみだが、一応取り上げておこう。このバンドは「ザ・コットン・ピッカーズ」とか「ジ・オリジナル・メンフィス・ファイヴ (The Original Memphis Five)」とという異なったバンド名で吹込みを行っているのでややこしい。
彼らの吹込みは2曲しか保有していませんが、演奏自体は立派な感じがしますが、サウンド的には1917年のO.D.J.B.の吹込みと相も変らぬもので、これなら飽きも来ようという感じがします。

ジョー・キング・オリヴァー

ジョー・キング・オリヴァー

ニュー・オリンズ時代O.D.J.B.のリーダーでコルネット奏者、ニック・ラロッカが夜な夜な聴きに通い真似をするのに余念がなかったと言われる、2代目ジャズ王(3代目説もある)と呼ばれたジョー・”キング”・オリヴァーもこの年からレコーディングを開始します。ジョー・”キング”・オリヴァーがニュー・オリンズからシカゴに移って結成したバンド「クレオール・ジャズ・バンド」のレコードは、オリヴァーそしてジャズに大きな変革をもたらしたといわれる天才サッチモことルイ・アームストロングの初レコーディングを収録したものとして歴史的に大変重要な録音であることは間違ありません。粟村政昭氏はその著『ジャズ・レコード・ブック』において、「若き日のサッチモが加わっていた頃のオリヴァー・バンドの名演は『Creole Jazz Band』(British Riverside RLP-8805 廃盤)、『オリヴァー傑作集』(Odeon OR-8068)の2枚にほぼ完全に収録されている。もちろん音は悪いが、ジャズを語らんとする人はまずこれを仕入れておかぬことには話になるまい」と書いています。
キング・オリヴァーは、ルイジアナ州内陸部アベン(Abend)近くのソールズバーグ・プランテイションの生まれというから、彼の率いたバンド名「クレオール・ジャズ・バンド」とは相違し、クレオールではなかったのではないかと思われます。彼はまずニュー・オリンズに出て名門オンワード・ブラス・バンドなどでプレイをしていましたが、1917から18年にかけてはキッド・オリーのバンドで演奏、この頃にニュー・オリンズで彼の名声は高まりバディ・ボールデンと同じ『キング』という称号で呼ばれるようになったと言われています。
しかし17年ストーリーヴィル閉鎖で仕事を失い、18年シカゴに移ります。シカゴに落ち着いたオリヴァーは、20年にクレオール・ジャズ・バンドを編成し、一時カリフォルニアなどへ巡業を行いますが、22年シカゴへ戻りニュー・オリンズよりルイ・アームストロングを呼び寄せ、ロイヤル・ガーデンズ(後にリンカーン・ガーデンズと改名)に出演し、一大センセーションを巻き起こしたといわれています。そのことによってレコーディングの話が持ち込まれたのだと思われます。

 「ザ・コンプリート・セット」CDジャケット

まずこれらの音源についてご紹介しておきましょう。僕が聴いているのはチャレンジ・レコーズ(Challenge records)というところから出ているCD2枚組で、タイトルは”King Oliver's creole jazz band/The complete set”というものです。ディスコグラフィーなどと比べてみても「クレオール・ジャズ・バンド」の録音を完全に収録しているように思われます。
そしてこの1923年に行われた録音で驚くのは、少しずつ行われたのではなく、1年間に37曲をジネット(Gennett)、オーケー(Okeh)、コロンビア(Columbia)、パラマウント(Paramount)という4つのレーベルに行っていることです。ブライアン・プリーストリー氏によれば、この時代にはまだレコード会社に専属契約という考え方はなかったから可能だったそうです。
で実際に聴いてみてどうかといいますと、正直あまり面白くないのです。このことはかのガンサー・シュラー氏も認めていて、「過去40年前後もの間ソロ志向のジャズのせいで、このバンドが代表する、集団による音楽の創造という発想を理解することは人々にとって困難になっている」と述べています。このことをもう少し掘り下げてみましょう。粟村氏は「その昔ニュー・オリンズのラッパ奏者たちはこぞってその音の大きさを競い合ったというが、そういう単純な伝説が一番不似合いに思える人が、キング・オリヴァーである」と述べています。そしてガンサー・シュラー氏は、「オリヴァーの目指したものは、厳密な統制に基づくニュー・オリンズ・スタイルのジャズ」であるというのです。これを総合してみると、オリヴァーという人は、リーダーとして自分を前面に押し出し、ガンガンに吹きまくるというタイプの人ではなかったということになります。そして当時の録音技術の未熟さも手伝って、レコード上はオリヴァーのプレイは全体的にアンサンブルの中に埋没してしまっているのである。

キング・オリヴァーズ・クレオール・ジャズ・バンド

さてでは、オリヴァーという人はそもそもこういう演奏スタイルを持っていたのでしょうか?シュラー氏によればニュー・オリンズの赤線地区、ストーリーヴィルのビッグ25におけるオリヴァーの初期の演奏とシカゴに赴き人気の絶頂期を迎えたころの演奏はまるで違っていたという1897年生まれでギター、バンジョーのプレイヤーでありニュー・オリンズ・ジャズの紹介者でもあるエドモンド・ドク・スーション(Edmond "Doc" Souchon)の話を紹介しています。また、同時代のトランペット奏者マット・ケアリーは、「キング・オリヴァーの本物の演奏とそっくりに響くレコードを聴いたことが無い」と発言しているそうです。すなわちここで聴かれるオリヴァーの演奏は、本来10年代にニュー・オリンズで行っていたのと同じ演奏をしていたわけではなく、オリヴァー本来の演奏でもないということになる。つまりオリヴァーは、ニュー・オリンズの「ビッグ25」に出演していた時には熱気があってドライヴ感あふれた、荒々しく活気に満ちた演奏をしたのに対し、シカゴに移ってからは洗練されニュー・オリンズの響きを全く失った演奏スタイルだったというのです。
シュラー氏は、さらに「クレオール・ジャズ・バンドの異常なほどのまとまりは全ての様式上の進歩を断念することによって確保されたが、このことは過ぎ去ったばかりの時代の理想を完成することであり、そのことによって死刑宣告書を自らに執筆してしまった」とまで書いています。しかし後にはこれらオリヴァーの音楽に心酔し、このバンドのサウンドを再現することを目標に掲げたルー・ワターズ一党のような存在も現れてきます。シュラー氏は、この重要人物について独立した章は設けていません。どちらかと言えばルイ・アームストロング登場の前振りのような位置づけです。

若き日のルイ

ルイ・アームストロング登場

ルイ・アームストロングと言えば、最近の若い方達にはコマーシャル・ソング『この素晴らしき世界』(What a wonderful world)の歌手としてしか知らないという方も多いのではないかと思われますが、かのマイルス・デイヴィスは「ジャズの歴史?それは簡単だ。4つの言葉で全て言える。[Louis] [Armstrong]そして[Charlie][Parker]だ」と述べているほどの重要革新者です。一体どこがそう凄いのかについては少しずつ本HPで解き明かしていきたいと思います。
さてそのルイ・アームストロングは1923年までニュー・オリンズに留まっていました。そしてオリヴァーにシカゴへ呼ばれたとき、ルイは23歳で正に伸び盛りで、クリス・ケリー、パティ・プティ、キッド・リナなど年長のトランペット奏者を根こそぎ打ち負かしたと伝えられています。そして15歳年長で38歳のオリヴァーからシカゴで結成する新バンドに呼ばれることになります。
ガンサー・シュラー氏によれば、このクレオール・ジャズ・バンドは当然ながらリーダー、オリヴァーの標榜する旧来のジャズ、ニュー・オリンズのジャズの再現をするものであり、あくまでオリヴァーが中心で、ルイが求められたのはオリヴァーを引き立てる役目でした。しかし若さ爆発、日の出の勢いのルイがこの状況に甘んじるはずもなく、約1年の在団のちルイはニュー・ヨークに向かうことになるのです。
もちろんこうしたルイの心情をオリヴァーは察していたようで、ところところでルイにソロ・スペースを与えています。1923年4月5日インディアナ州リッチモンドで行われたその初めての録音において(”Chimes blues”)、早速ルイは記念すべき初ソロを記録しています。
さてこの年のポピュラー・ミュージックのヒット・チャートを見てみると、最も多くヒット曲を出したアーティストは、この年もポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)でした。しかし「?」なのは、第10位にルイ・アームストロングの“Dippermouth blues”がランク・インしていることです。ルイはこの年は、キング・オリヴァーのバンドの一員として録音に参加しているのであり、ルイ名義でレコードは出ていないと思われます。まことに「?」です。因みにKing Oliver's Creole Jazz Bandとして”Chimes blues”が20位にランクされています。
オリヴァーとルイの1923年の録音について詳しくは、「ジョー・キング・オリヴァー 1923年」をご覧ください。

ジミー・ヌーン

ジミー・ヌーン

ジョニー・ドッズ(1892〜1940)と並びニュー・オリンズ・ジャズ・クラリネットの第一人者ジミー・ヌーン(1895〜1944)もこの年からレコーディングを開始しています。ドッズがキング・オリヴァーのクレオール・ジャズ・バンドの一員としての録音しか見当たらない中ヌーンは、1曲だけクレオール・ジャズ・バンドにも参加していますが、他の録音もあるようですので、取り上げておきましょう。音源はオリー・パワーズ・ハーモニー・シンコペイターズ (Ollie Powers’ harmony syncopators)に参加したものです。
リーダーのオリー・パワーズについてはよく分かっていませんが、歌手でありドラマーであったと言われます。シカゴの音楽シーンの顔役的存在だったのかもしれません。
この録音について詳しくは「ジミー・ヌーン 1923年」をご覧ください。


フレッチャー・ヘンダーソン

フレッチャー・ヘンダーソン

ドイツが生んだ世界的なジャズ評論家ヨアヒム・ベーレント氏は、「ビッグ・バンドがいつごろ始まったかを確かめることは難しいとしながら、ニューオリンズでジャズが始まった次の瞬間ビッグ・バンド・ジャズが起こりスイング時代へと続くとしている。そしてフレッチャー・ヘンダーソンの楽団がその過渡期をはっきり示している。ビッグ・バンド・ジャズの歴史はヘンダーソンと共に始まった」と書いています。またそれを証明するように今回取り上げた1923年の録音は6人編成のバンドでありとてもビッグ・バンドと呼べる編成ではありませんが、翌1924年の吹込みでは4人増えて10人体制のバンドとなっています。
さて、このヘンダーソンやエリントンが1920年代初期にニュー・ヨークに現れる前にニューヨークを支配していた音楽はなんだったのでしょうか。ヒット・チャートを見ればポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)やアイシャム・ジョーンズ(Isham Jones)達の音楽だったように思いますが、ガンサー・シュラー氏によれば(『初期のジャズ』)、ジェイムス・リース・ユーロップ(James Reese Europe:1881〜1919)という黒人音楽家の音楽だったといいます。彼の音楽はラグタイムを発展させたもので、最初は、ヴァイオリンやヴィオラ、マンドリンなども含む大オーケストラで演奏されたといいます。彼らの音楽1913年と14年に録音されているそうです。そこで思い出されるのは、先にO.D.J.B.が1917年に行った録音がジャズ史上初のレコーディングだと言われていることです。つまりO.D.J.B.より古いレコーディングのため逆に、ジャズではないと判断されたのかもしれません。
またこのユーロップの音楽は「シンコペイテッド・ミュージック」と呼ばれ、彼のバンドも「シンコペイテッド・オーケストラ」と呼ばれていたといいます。シンコペイションはジャズの大きな特徴の一つと言われます。しかしシュラー氏は彼らの音楽には驚くほどシンコペイションが少なかったと述べています。僕は全く聞いたことがないのですが、彼らの音楽はいわゆるフォックス・トロットなど社交ダンスの伴奏用のもので、後にジャズ・エイジが花開くために重要な地ならしをしたといわれています。
さてジャズ史に大きな足跡を残したフレッチャー・ヘンダーソンとはどのような人物なのでしょう。詳しくは彼のプロフィールをご参照いただきたいのですが、かいつまんで記しますと、1897年ジョージア州出身で、1920年アトランタ大学を卒業後さらに薬学を学ぶためにニューヨークのコロンビア大学へ進んだという秀才です。ニュー・ヨークでアルバイトとして楽譜出版社に勤め新曲宣伝部を務めるうち、出版社の経営者の一人が「ブラック・スワン・レコード」を設立。フレッチャーはその会社の音楽監督に就任してしまいます。そしてそのまま薬学の道には進まず、音楽の道に進むことを決心します。そして1922年自分のバンドを結成し、クラブ・デビューを果たし、翌1923年にはレコード・デビューを果たすことになります。この詳細は「フレッチャー・ヘンダーソン 1923年」をご覧いただきたいのですが、ニュー・オリンズ風のアンサンブルにコールマン・ホーキンスのバス・サックスによる正にロックン・ロールのベース・パターンのようなリズム吹奏が聴かれる大変面白い演奏です。彼のバンドのレコードはニュー・ヨークのジャズ・シーンを代表するものとしてこれから何度も登場してくると思います。

ベッシー・スミス

ブルースの皇后―ベッシー・スミス

メイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」の大ヒットをきっかけにレイス・レコードの商業化のめどが立ったことで、黒人ジャズ・ミュージシャンの録音が堰を切ったように始まりました。そして「クレイジー・ブルース」以後も女性ブルース・シンガーによる吹込みは行われていましたが、ついに1923年「ブルースの皇后」ベッシー・スミスがレコード・デビューを果たします。
油井正一氏は、その著『ジャズの歴史』において意外なことを書いています。
「昔の名歌手、例えばベッシー・スミスを鑑賞する時、最も大切なことは、発声法の違いは別として古典音楽における声楽の鑑賞法と同一観点に立つことであります。すなわち、歌詞の意味とその表現とが、絶対的な関連の上に結びついているということです。
ベッシー・スミスは、ニグロの厳しい生活を、或いは男に捨てられた女の悲しみを、他の歌い方では表現できない、至高絶対の歌唱法で表現いたしました。それゆえ彼女は、『ブルースの皇后』と呼ばれています。彼女は、歌詞の一語一語を、そのアクセント、そのテヌート、その息づかいに、ほとんど本能的な才知を働かせて、その意味深さをえぐり出した魂の歌声を表現いたしました。」
さらに氏は、「ベッシー・スミスは古典歌唱法の正道によってブルースの悲しさを表現しました。オペラのアリアを、正しく鑑賞する耳があれば、ベッシー・スミスのブルースは容易に理解されましょう」とし、「ベッシー・スミスのヴォーカルが日本で理解されない理由の一つとして、ジャズ・ヴォーカルはルイ・アームストロングによって、正統的な歌唱法のみに殉教することなく、ヴォイスを楽器の一つとしても取り扱い得るという独自の分野を開拓されましたが、その歌唱法に馴染んでしまったため、サッチモ以前の正道を歩むベッシーなどの歌唱を聴き落してしまうようになった」というのです。

油井正一著『ジャズの歴史』

僕が驚くのは、ベッシー・スミスがクラシックの歌唱法で歌っていたというところです。クラシックの歌唱法と一般のポピュラー歌手の歌い方では何が違うのでしょうか?一般にクラシックはマイクを使わないで歌うので、身体全体を使って腹式呼吸で歌いますし、低音と高音とで声質が変化しないよう一貫して裏声で歌うのに対して、我々のような一般人が歌う場合には「地声」で歌うのが普通です。クラシックではそのような歌い方を身につけるため、声楽を学ぶ必要があります。僕には、極貧の家に生まれ小さなころからヴォ―ドヴィルで歌ったりミンストレルで腰振りねぇちゃんをやっていたベッシー・スミスが正式な声楽を学んだとはどうしても思えません。その感想は彼女のレコードを聴いても変わりません。
もう一人重鎮の話を聞いてみましょう。ヨアヒム・ベーレント氏です。
「彼女は新興宗教の教祖的説得力を持っていた。聴衆はしばしば宗教体験と全く同じ反応を示した。まるで教会でスピリチュアルスかゴスペルを聴いた時と同じように、彼女がブルースを歌い終わると、「エイメン」と叫んだ。こうした時ほど、スピリチュアルスとブルースの関係が身近なことを示す例は当時余りなかった。
彼女の声の魅力を言い表すのは難しい。多分最も陽気でユーモラスな歌でさえ、深い悲しみで彩られた厳しさと荒々しさがあるかであろう。ベッシーは、数世紀の間奴隷として生きてきた人々の代表として歌った。この人種は、解放後も暗黒の奴隷時代よりもひどい環境で生き抜かねばならなかった。感傷のひとかけらさえなく、ラフで非常な声で、正確に悲しみを表現するところが、彼女の身上というべきであろう」
さてベッシー・スミスのレコードである。
1920年以来のレイス・レコードの盛況具合を見て、大手レコード会社コロンビアも1923年、ポピュラーA&Rマンにフランク・ウォーカー、レイス部門(黒人向けレコード)の主任にクラレンス・ウィリアムス(黒人)が就任し、ベッシーは週給75ドルのスターとしてコロンビアに迎えられることとなります。そして彼女は10年間に延べ160曲を録音し(実際は180曲だが、うち20曲は未発売のまま原盤行方不明となっている)、約1000万ドルの売り上げを記録したと言われるようになるのです。
コロンビアはなんとなくソロリソロリと録音を進めていったような気もするのですが、実際は1923年に32曲もの録音を行っています。これだけ数が多くなったのは、何といっても最初に吹き込んだ「ダウン・ハーテッド・ブルース」が一大センセイションを巻き起こし、レコードは200万枚も売れるその年最大のヒット曲になったことも影響しているでしょう。
そしてこれも驚くこととして、ベッシー・スミスの「ダウン・ハーテッド・ブルース」は、何とビルボード誌で12週間に渡りNo.1を獲得し、この年の最大のヒット・チューンになっていることです。この年のベッシー・スミスの吹込みについて、詳しくは「ベッシー・スミス 1923年」をご覧ください。

大和田俊之著『アメリカ音楽史』

ポピュラー音楽の分断化

大和田俊之氏は、次のような重要な指摘を行っています(『アメリカ音楽史』)。
「シート・ミュージックやヴォードヴィルからレイス・レコードへとメディアの変遷に対応しながら、ブルースが辿るプロセスは、アメリカのポピュラー音楽が<人種>によって分節化されて行く過程として見ることができる」というのです。続けて「もともとシート・ミュージック時代にそのようなことはなかったし、各レコード会社も<レイス・レコード>部門を立ち上げる前はブルースも通常のポピュラー音楽と同様にリリースされていた。しかし1923年以降、ブルースやジャズ、ラグタイムなどの音楽はレイス・レコードのカテゴリーに分類され、ルイ・アームストロングやデューク・エリントンなど一部のレコードを除いて白人の市場には届かなくなった」というのです。さらに「レコード会社のマーケティング戦略によって浮上する<黒人音楽>という認識論的な枠組みは、アメリカのポピュラー音楽界に曖昧に存在していたジャンルの境界を明確に可視化させた。その証拠として、それまでブルースとヒルビリーの両方を歌っていたアフリカ系アメリカ人ミュージシャンは1920年代から40年代にかけてほとんどヒルビリーをレコーディングすることはなかった」というのです。
ヒルビリーはどうだったのでしょう?ヒルビリーについて氏は、「カントリー・ミュージックの最初の商業録音は、1923年6月のフィドリン・ジョン・カーソン(Fiddlin' John Carson:1868〜1749)の「ザ・リトル・オールド・ログ・キャビン・イン・ザ・レイン」と言われているそうですが、こちらもブルース同様色々留保がつきまとうといいます。アトランタを拠点として活動していたタレント・スカウト、ポーク・ブロックマンと言う人物が、オーケー・レコードのラルフ・ピアにフィドリン・ジョン・カーソンを紹介したのだそうです。この「ラルフ・ピア」という人物は「クレイジー・ブルース」のレコーディングの際にも登場しました。フレッド・ヘイガーのアシスタントで、ペリー・ブラッドフォードと共にメイミー・スミスのレコーディングを実現させた人物です。ピアはブロックマンに地元のミュージシャンを紹介してくれるように依頼していたのです。黒人の「クレイジー・ブルース」の大ヒットを知っていたブロックマンは、南部白人の土着的音楽へのニーズもあるのではないかと考え、地元のラジオ局で活躍していたカーソンを紹介したのです。こうして製作・発売された「ザ・リトル・オールド・ログ・キャビン・イン・ザ・レイン」は瞬く間に完売し1923年度第7位にランクされるほどのヒットとなりました。これがマウンテン・ミュージックのフィールド・レコーディングが流行するきっかけとなったのです。ピアはその後ジョージア出身のストリング・バンドに「ヒルビリーズ」と名付けレコーディングを行い、1927年にはカントリー・ミュージック史上もっとも影響力のある2組のミュージシャン、「カーター・ファミリー」(1927年活動開始)と「ジミー・ロジャース」(Jimmy Rodgers:1897〜1933)の録音に成功するのです。これは正に黒人音楽のレイス・ミュージックに対する白人版です。
こうして人種によるジャンル分けを促進したレコード会社のマーケット戦略により、ブルースの「黒人性」が強調され、カントリーの「白人性」が強調されるようになっていきますが、これはこの時代にアメリカ社会に浸透したジム・クロウ法によって法的にも人種的に分断されたアメリカの反映であり、W・B・デュボイスやブッカー・T・ワシントンなどの黒人指導者が台頭し、アメリカ社会全体に「人種問題」が浮上する時期と正確に重なっているのだと述べられています。

Other Big Artists

シュラー氏がこの年レコーディングを開始した偉大な音楽家として上げている内、フレディ・ケパード、シドニー・ベシエ、ベニー・モーテン楽団の1923年の録音を現在僕は持っていません。機会があればレコードを入手することもあるかと思いますが、その概要だけ記しておきましょう。
フレディ・ケパード Freddie Keppard
1923年の録音としては、アースキン・テイトのヴァンドーム・オーケストラに加わった2曲とドク・クックのドリーム・ランド・オーケストラに加わっての2曲が該当すると思われますが、僕は1924年のドク・クックのドリーム・ランド・オーケストラに加わっての録音を持っていますので、次回取り上げます。
シドニー・ベシエ Sidney Bechet
クラレンス・ウィリアムズ・ブルーファイヴやウィリアムスのバンドでの録音などがあるようですが、初期のものは全く持っていません。彼の録音は余り日本では見かけないのですが…。
ベニー・モーテン Bennie Moten
ベニー・モーテンズ・カンサス・シティ・オーケストラによるオーケーへの吹込みが確認されますが、保有していません。この辺りも日本では入手がなかなか難しいのではないでしょうか?僕の持っているモーテン楽団の最も古い録音は1929年のものです。ともかくこのバンドが活躍したカンサス・シティは当時ニュー・ヨーク、シカゴに次ぐ第3のジャズ・シティとなった居ました。

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