レコード解説の末広光男氏によると、1947年秋、バンク・ジョンソンは前年1946年春に解散したバンドのメンバーを補充して、ニューヨークの「スタイブサント・カジノ」(Stuyvesant casino)のステージに立ったという。しかしそれまでどこで何をしていたのかは、記載がない。このきっかけを作ったのは、バンクのよき理解者であり、友人の一人でもあったハロルド・ドロップ氏によるものだという。彼はバンクに、好きなミュージシャンを集め、好きな曲を演るように指示したという。それが以下に挙げるバンド・メンバーで、これまでとはがらりと変わったメンバーで、バンクとの共演はスティールを除いては初めてであった。しかしそれぞれは実績のあるミュージシャンばかりである。これはたぶん自分に見切りをつけて去っていった、ジョージ・ルイスやジム・ロビンソン、ロウレンス・マレロに対する意趣返しということもあったろう。「お前らニューオリンズの田舎者ではなく、ニューヨークで実績のあるミュージシャンと俺は組めるんだ、そうすればまた大受けするのだ」と言いたかったに違いない。ところが結果はどうだったか?全くと言っていいほど受けなかったのである。末広氏によれば、この受けない原因は、「ニューオリンズの香りがない」、「都会的すぎる」という声が圧倒的多数だったという。ニューオリンズのミュージシャン達を切ったことが仇となって出てしまった形である。そこでドロップ氏は、このバンドをPRしようと考えレコードを作ることにしたというのである。このレコーディングを終えた1週間後、バンクは故郷のニューオリンズに戻る。そして翌1948年の後半に、脳卒中で倒れ、翌年7月7日帰らぬ人となるのである。69歳だった。つまりこのレコードが最後の吹込みとなる。タイトルの"The last testament of a great New Orleans Jazzman"(一人の偉大なニューオリンズ・ジャズマンの最後の遺言)はこうしてつけられた。写真右は1946年のバンク・ジョンソン。
| Band leader & Trumpet | … | バンク・ジョンソン | Bunk Johnson |
| Trombone | … | エド・クッフィー | Ed Cuffee |
| Clarinet | … | ガルヴィン・ブッシェル | Garvin Bushell |
| Piano | … | ドン・カークパトリック | Don Kirkpatrick |
| Guitar | … | ダニー・バーカー | Danny Barker |
| Bass | … | ウェルマン・ブラウド | Wellman Braud |
| Drums | … | アルフォンス・スティール | Alphonse Steele |
| A面1. | エンターティナー | The entertainer | 12月23日 |
| A面2. | サムデイ | Someday(You'll want me to want you) | 12月23日 |
| A面3. | クロエ | Chloe(Song of the swamp) | 12月23日 |
| A面4. | ミンストレル・マン | The minstrel man | 12月23日 |
| A面5. | また逢う日まで | Till we met again | 12月26日 |
| A面6. | ユー・アー・ドライヴィング・ミー・クレイジー | You're driving me crazy | 12月24日 |
| B面1. | キンクレッツ | Kinklets | 12月24日 |
| B面2. | マリア・エレーナ | Maria Elena | 12月26日 |
| B面3. | サム・オブ・ディーズ・デイズ | Some of these days | 12月26日 |
| B面4. | ヒラリティ・ラグ | Hilarity rag | 12月24日 |
| B面5. | アウト・オブ・ノーホエア | Out of nowhere | 12月24日 |
| B面6. | ザット・ティーズン・ラグ | That teasin' rag | 12月26日 |
先ず演奏曲目を見ると、ニューオリンズ・ジャズの定番曲が全くない。ラグタイムあり、スイングのスタンダードあり、当時のヒット曲、ティン・パン・アレーのルンバ・ナンバーまで実に幅広い。これはバンクが意識して選んだもので、バンクは常日頃からどんな曲でも、やり方次第でジャズになると言っていたことの証明だという。演奏自体は見事にニューオリンズ・ジャズになっているのだが、そのことが「ニューオリンズの香りがない」と言われる原因となり、不評につながったとすれば、実に皮肉なことである。
またこの録音はカーネギー・ホールで行われた。なぜカーネギー・ホールなのかも不思議なところだが。録音に当たっては、マイクロフォンをバンドから遠く離して1本だけ立て、モニター・スピーカーも無し、マイクのコードは直接録音機につなぎ、バルコニーの外に置いたという。かなりお粗末なように思えるが、なるべくニューオリンズらしい雰囲気を出そうというドロップ氏の配慮だったという。ともかく初日12月23日、二日目24日と快調に進んだが、3日目26日は折悪しく朝から吹雪に見舞われた。この12月26日は、デューク・エリントンの2日間のコンサートの初日でもあった。バンクとエリントンとどちらが先だったかは分からないが、エリントンもまともなコンサートはできなかったという。エリントンのこのカーネギー・ホール・コンサートは、依頼を受けて作ったリベリア国の建国百年を祝う「リベリア組曲」の初披露の舞台であった。バンクが寒々とした中、レコーディングを行う一方、エリントンはグラス片手にリベリア国の要人たちとレセプションに出席していたのである。この事実に一掬の感慨を持つのは僕だけではないだろう。
「また逢う日まで」