カウント・ベイシー 1936年

Count Basie 1936

モーテン、ベイシーとラッシング

久しぶりの登場である。ベイシーはベニー・モーテンの楽団に在籍していたが、1932年モーテンの楽団はヴィクターとの契約が切れ、レコーディングは行われなくなる。しかしモーテンのバンドは地元カンサス・シティでは最強を謡われ、大いに活躍していた。しかし御大のモーテンは1935年4月2日簡単なはずの扁桃腺の手術が失敗し、この世を去ってしまう。ベニーが不在となったバンドを弟のバスター・モーテンが引き継いだが、ベイシーはこのバンドを辞め、カンサス・シティでソロやトリオで演奏を行っていたという。
やがて<ブルー・デヴィルズ>時代の同僚バスター・スミスと”Barons of rhythm”を結成する。さらに1935年の暮れごろと思われるが、ベイシーが単独でリーダーとなり、10人編成まで拡大したバンド、“Count Basie and his men”を結成、カンサス・シティのリノ・クラブへ出演する。この10人とは、カール・スミス、ジョー・キーズ、ホット・リップス・ペイジのTp、ダン・マイナー(Tb)、バスター・スミス(As)、レスター・ヤング(Ts)、ジャック・ワシントン(Bs)、ベイシー(P)、ウォルター・ペイジ(B)、ジョー・ジョーンズ(Ds)であった。若きチャーリー・パーカーが忍び込んで聴いていたのはこの頃であったと思われる。
ジョン・ハモンド氏 そしてのちのジャズに大きな影響を及ぼす重大な事件が起こる。ジョン・ハモンド氏によるカウント・ベイシー楽団の発見である。ジョン・ハモンド氏はベニー・グッドマンを売り出し、フレッチャー・ヘンダーソンを世に認めさせ、テディ・ウィルソンやビリー・ホリディを世に出すなどジャズ評論家として、プロデューサーとして確固たる地位を築き上げていた。彼は米国の<ダウンビート>誌やイギリスの<メロディ・メーカー>誌に情熱溢れる記事を書いていたが、その材料を得るため、車には大出力のカー・ラジオを備え付け、全米中のローカル局を聴いていたのである。そして1936年5月ハモンド氏はベニー・グッドマンをプロデュースするためシカゴに来ていた。当時カンサス・シティの小さな電波実験局W9XBYは、毎晩のように薄汚れたリノ・クラブのバンド演奏を放送していた。そしてその5月のある晩、ハモンド氏はカー・ラジオから流れる“Count Basie and his men”を耳にするのである。因みにこの時“Count Basie and his men”は10人ではなく、9人で演奏していたという。
ベイシーらの演奏を聴いたハモンド氏は、居ても立ってもいられず直ぐに車を駆ってカンサス・シティに向かうのである。カンサス・シティのリノ・クラブに駆け付けたハモンド氏は、さっそく自分のテーブルにベイシーを呼んで、いかに自分が感激したかを語り、何としてもこのバンドを全米中に知らしめる必要があると決意する。
ハモンド氏はニュー・ヨークに戻ると早速このバンドの素晴らしさを雑誌などに頻繁に紹介し、レコード会社Brunswickを説得して契約を結ぶことを決意させる。ハモンド氏がBrunswickとの契約書を持ってカンサス・シティに向かうが、鼻先でデイヴ・カップのDeccaレコードに専属契約をかすめ取られてしまうのである。ディヴ・ゲリー著『レスター・ヤング』によれば、Deccaレコードは「ジョン・ハモンドの使いの者だ」と言ってベイシーにサインをさせたという。そのデッカとの契約は、デイヴ・ゲリー氏の言葉を借りれば「奴隷契約」と呼ばれる過酷なものであったという。その契約内容とは「3年間で毎年24面の吹込みのノルマ、そして印税なしで750ドル」というものであったという。一方日本の評論家大和昭氏は、「契約期間2年間(1937年1月〜1939年2月)で録音数58曲」だったと述べている。どちらが本当だろうか?
またベイシーはアメリカ最大のタレント・ブッキング・エージェンシー、MCA(Music Corporation of America)とも契約を交わしていた。その契約により、ベイシー達はストレートにニュー・ヨークへは向かわず、シカゴを経由することになる。36年10月シカゴのサウス・サイドにある<グランド・テラス>に出演することが決定するのである。そしてハモンド氏の本当に偉いところはここからである。契約をDeccaに取られ、ハモンド氏は関係ないと言えば関係なくなったのであるが、ニュー・ヨークに進出するに当たってのアドヴァイスを親身に行うのである。
ハモンド氏はニュー・ヨーク進出に当たってバンドの編成を大きくすることを提言する。それに従ってベイシーは、かつてモーテン楽団に在団したことのあるハーシャル・エヴァンズを加入させ、さらにエヴァンズが在団していたバンドのリーダーだったバック・クレイトンを、退団したホット・リップス・ペイジに代わって入団させた。またバスター・スミスが退団したので代わりのアルト・サックス奏者を入れ、トロンボーンもジョージ・ハントを加えて2人とし、リズム・セクション強化のア点ギター奏者を入れ、さらにシンガーとしてジミー・ラッシングも加入させた。
ディヴ・ゲリー著『レスター・ヤング』 初めてナショナル・ツアーし出発したベイシー楽団は、ユニフォームも満足に揃えておらず、楽器もオンボロで楽譜さえ十分に用意されていなかった。そのためスタートしたてのベイシー楽団はヘッド・アレンジによって演奏されることとなったのである。10月シカゴの<グランド・テラス>に出演した時、<グランド・テラス>に直前に出演したのは偉大なるフレッチャー・ヘンダーソンの楽団で、いち早くこのバンドの実力を認めたフレッチャー・ヘンダーソンは自分のアレンジを提供してくれた(ハモンド氏の勧めもあったろう)。<グランド・テラス>の経営者はベイシー達の演奏を気に入らず、出演キャンセルを申し出るなど、最初から楽旅は難航のスタートを切ったという。

レスター・ヤング初レコーディング
「レスター・ヤング/メモリアル・アルバム」レコード・ジャケット Deccaにレコーディング契約を出し抜かれたジョン・ハモンド氏はそのままでは引き下がらず、デッカに一矢を報いる。デッカのあるニューヨークに行ってしまう前に、ピックアップ・メンバーによる録音をシカゴで行ったのである。ハモンドが仕組んだセッションは、バック・クレイトンのトランペット、レスター・ヤングのテナー・サックス、それにベイシー、ウォルター・ペイジのベース、ジョー・ジョーンズのドラムというメンバーだったが、土壇場になってバック・クレイトンはトランぺッターの職業的致命傷と言っていい唇を切る目に遭い仲間のカール・スミスが替わることになった。1936年10月9日(CDによれば11月9日)朝10時、ミュージシャンたちがベッドに転がり込む頃録音は行われた。デッカとのトラブルを避けるために敢えてベイシーの名は使わず、レコーディング・スタジオに最初に姿を見せたジョー・ジョーンズ(jo Jones)とカール・スミス(Carl Smith)の名を取って、バンド名は”Jones-Smith incorporated”としたという。
録音が行われたスタジオはあまり広くなく、録音テストをしてみるとペイジのベースの音がジョーンズのバス・ドラムの大きな迫力ある音に消されがちとなり、バランスの面で問題があった。そこでバス・ドラムは使用しないことにしたという。そのため却って全体の音が引き締まり、全体のスイング感を盛り上げるリズムが軽快になった。ジョーンズのシンバル・プレイやスネアを駆使した演奏が効果を上げ、、ペイジのベース・プレイも、当時の通常の録音よりも明瞭に響き渡るという予期せぬ効果を生んだという。
こうして全4曲が録音されたが、この4曲を一つにアルバムに収録したのは、左の「レスター・ヤング/メモリアル・アルバム」が初めてだという。プロデュースを行ったジョン・ハモンド氏は、後のこのレコーディングを「私にとって唯一の完全な、全く完全なレコーディング・セッションだった」と述べている。さらに「全4曲2つずつテイクを録った。採用したテイクが心持で気が良いかなと思う程度で、8回とも素晴らしいパフォーマンスで会った」と語っているので、別テイクが存在するはずだが、破棄されたようだ。しかし後に「シュー・シャイン・スイング」の別テイクだけは発見されて右の海賊版"The alternative Lester"(TAX m-8000)に収録されている。
CDでは、"Hall of fame/Lester Young"(TIM 220149)という5枚組CDボックスに4曲収録されている。

[The alternative Lester]

<Date&Place> … 1936年10月9日 シカゴにて録音

<Personnel> … ジョーンズースミス・インコーポレイテド(Jones-Smith incorporated)

Trumpetカール・スミスCarl Smith
Tenor saxレスター・ヤングLester Young
Pianoカウント・ベイシーCount Basie
Bassウォルター・ペイジWalter Page
Drumsジョー・ジョーンズJo Jones
Vocalジミー・ラッシングJimmy Rushing

<Contents> … 「レスター・ヤング/メモリアル・アルバム」(Epic ECPW-1〜2)& "Hall of fame/Lester Young"(TIM 220149)

CD1-1.シュー・シャイン・スイングShoe shine swing
CD1-2.イヴニンEvenin'
CD1-3.ブギ・ウギ―Boogie Woogie
CD1-4.レディ・ビー・グッドLady be good
「レスター・ヤング/「Hall of fame」CDボックス

普通Tp、Ts、P、B、Dsと言えば、モダン・ジャズでよく見られるクインテット編成である。そしてそこに偶にヴォーカルが加わる曲があるという風に見える。しかしサウンドが全く異なる。モダン・ジャズでよく行われるようなTpとTsがユニゾンでテーマを吹くといった展開は全くない。オーケストラの縮小版ならそういう展開があってもよさそうなものだが…。それどころかTpとTsが一緒に吹くことすらほとんどない。そういうことではかなり変わった演奏である。
CD1-1.[シュー・シャイン・スイング]
まず始めに録音したナンバーという。この曲だけ別テイクが発見されていて、"The alternative Lester"(TAX m-8000)に収録されている。何となく正規ヴァージョンがいいように感じる。
曲は「シュー・シャイン・ボーイ」でタイトルだけ変えられたという。ゲリー氏は、レスターの録音の中で、これほど端的に彼の人並み外れた誠実さを著わした演奏はないという。レスターのプレイの詳細は「レスター・ヤング 1936年」を参照のこと。
CD1-2.[イヴニン]
ジミー・ラッシングのヴォーカル・フューチャー・ナンバー。音数を絞ったようなベイシーのイントロ、ヴォーカルの少し前に出てくるテナー・ソロなどはいかにもレスターらしいゆとりを感じさせる吹奏だと思う。同じ音を連打するペイジのベース・プレイも面白いと思う。
CD1-3.[ブギ・ウギ―]
ベイシーの作でこれもジミー・ラッシングのヴォーカル・フューチャー・ナンバー。ベイシーはこの後デッカでも吹き込んでいる。
レスターのソロなどは、ブルースでは「こんな風に吹くとカッコいいよ」といったのソロのお手本のようなプレイではないか。
CD1-4.[レディ・ビー・グッド]
ガーシュイン兄弟の作。これもベイシーはデッカにも吹き込んでいる。アップ・テンポのスインギーなナンバー。ここでもレスターの64小節に渡るスインギーなソロを堪能できる。

フレッチャー・ヘンダーソンの助けもあり、何とかシカゴの<グランド・テラス>を乗り切り、ベイシー・バンドはバッファローのヴァンドーム・ホテルやピッツバーグのホテル・ウィリアム・ペンなどに出演しながら、ニュー・ヨークを目指して行った。このようにお先真っ暗な状態でニューヨークの土を踏んだのであった。
こうして1936年12月のクリスマス・ウィークに彼らは「ローズランド・ボールルーム」においてニューヨーク公演の幕を切ったのであった。
評論家やミュージシャンの多くはダイナミックなスイング感と優れたソロイスト達によるリラックスしたアドリブ共演に酔ったが、一般的な受けは同じカンサス・シティ出身のアンディ・カーク楽団の演奏の方に人気が集まったという。当時のニューヨークのジャズは複雑なアレンジを洗練された、メカニックで整然とした演奏でスマートにこなすやり方が受けていたのであった。
ベイシーはすっかり意気消沈して、自分のバンドにはコマーシャルな点に欠けているから人気が沸かないのだと感じ、それまでのやり方を変えようとさえ思ったという。しかし周囲の励ましとサイドメンの主張によって、KC時代に9人が一致団結してリラックスした演奏を展開し人気を得ていたように、14人が力を合わせてやればいつかはKCと同じようにこのニューヨークでも自分たちのやり方を理解するに違いないと考えるようになったという。

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