僕の作ったジャズ・ヒストリー 16 … 初期のジャズ 9 1931年

1930年仕事を求めて並ぶ人々

1931年オーストリア銀行の倒産を受けて、フーヴァー大統領はモラトリアム(フーヴァー・モラトリアム)を実施します。アメリカ国内の銀行は1931年9月に305行、10月に522行が閉鎖します(右はアメリカ・ユニオン銀行に取り付けに押し寄せた群衆)。正に金融状況は破綻寸前、不況も深刻化の一途をたどります。
このフーヴァー・モラトリアム(Hoover Moratorium)は、そもそも世界恐慌によって財政危機に陥ったドイツを救済するために行った債務支払猶予措置でした。西洋諸国によるアメリカへの債務支払いを1年猶予すると同時に、ドイツによる西欧諸国への賠償支払いに1年の猶予を与えたのです。1931年6月20日にフーヴァー大統領が声明を発表するとフランスは即座に反対しましたが、モラトリアムは7月6日までに15カ国からの支持を得て、アメリカ議会は12月に承認しました。

戦争とファシズムの時代へ
一方、第一次世界大戦後パリ講和会議によって策定されたヴェルサイユ条約によって、敗戦国ドイツは植民地と領土の一部の割譲、莫大な賠償金の支払い、軍備の制限を負わされていていました。社会、経済とも大きく混乱していました。しかし1923年ごろからインフレは沈静化し、安定期を迎えつつありましたが、1928年ころから経済は再び悪化しはじめ、1930年の世界恐慌によってドイツは壊滅的な打撃を受けることになります。そんな社会不安の中で台頭してくるのが、アドルフ・ヒトラーを指導者とする国家社会主義ドイツ労働党(ナチ党)です。
極東では第一次世界大戦の戦勝国であった日本が中国でのさらなる権益の拡大を目指し進出を強め、9月満州事変が勃発します。戦争とファシズムの時代へと向かっていくのです。
ヒトラーとチャップリン
チャールズ・チャップリン さて、たった4日誕生日が違うだけの二人の人物に注目してみましょう。一人は1889年4月20日オーストリア北部生まれのアドルフ・ヒトラー、もう一人は1889年4月16日イギリス・ロンドン南部で生まれたとされるチャールズ・チャップリンです。チャップリンの方が4日ほど年上になりますが、実はこの二人とも出自がはっきりしないという共通点を持っているのですが、その歩んだ人生は全く逆のものでした。
ヒトラーは複雑な家庭環境で、正規の教育を小学校以外ほとんど受けておらず、一時画家を目指すも直ぐに頓挫しています。オーストリアの徴兵検査を受けず国外逃亡しながら、第一次世界大戦時には志願してバイエルン王国第16歩兵予備隊に入隊しています。この頃から大ドイツ主義に傾倒していたことが分かります。
チャップリン アメリカへ
一方チャップリンは、ミュージック・ホールの芸人の息子として生まれています。父親のチャールズは人気のあった歌手だったようですが、母親は芽の出ない女優で、二人は1892年までには離婚し、チャップリンは母親に引き取られます。しかし母親は時折の洋裁や看護で小銭を稼ぐ以外に収入がなく、救貧院に収容されるという極貧生活を送っています。初舞台は5歳の時に母ハンナの代役で舞台に立った時でしたが、9歳の時には自身で舞台に興味を持ち、ダンスだけではなくコメディアンになることを夢見るようになったといいます。
中々舞台の仕事では食べていけませんでしたが、色々な仕事をしながら、脇役などをこなしていくうち1908年コメディの名門フレッド・カーノー(Fred Karno)劇団と契約を結びます。そして1909年主役級を演じるようになります。そして1910年10月カーノー劇団のアメリカ巡業に加わり、初めて渡米するのです。その公演での演技は批評家から「これまでに見た中で最高のパントマイム芸人の一人」と評され、アメリカでの名声を獲得します。アメリカ巡業は21ヶ月も続き、1912年6月にイギリスに帰国しますが、10月には再びアメリカ巡業に出発します。
そして1913年2度目のアメリカ巡業中に、ニュー・ヨークの映画会社キーストンから契約を持ち掛けられるのです。チャップリンはドタバタ短編喜劇を得意とするキーストン社の作風をあまり好みませんでしたが、舞台の仕事に変わるものを求めていたこともあり、9月25日に週給150ドルで契約を交わすのです。
チャップリン「街の灯」 しばらくは映画の製作技術などを学び、1914年2月公開の『成功争ひ』でデビューします。チャップリン自身はこの作品を嫌ったと言われますが、マスコミはその演技に早くも注目し、「第一級のコメディアン」と賞賛する業界紙もあったと言います。そして第2作『ヴェニスの子供自動車競走』において、「だぶだぶのズボンにきつすぎるほどの上着、口ひげを付けて少し老けた感じを出し、小さな山高帽子に大きすぎる靴というとにかくすべてにチグハグな」いでたちで登場し大当たりを取り、チャップリンと言えばこれというトレードマークとなっていきます。
チャップリンはこのヒットに自信を深め、より自分で思うような作品作りをしたいと考え、シカゴのエッサネイ社(The Essanay Film Manufacturing)に移籍しより自分が考える方法で映画旁を開始します。1915年にチャップリンの人気は爆発的に上昇、その人気にあやかった人形や玩具などの関連商品が売られたり、新聞に漫画や詩が掲載されたり、チャップリンについての曲が作られたり、チャップリンの真似をする「チャップリニティス」がアメリカ全土で広まります。
こうしたなかチャップリンは「小さな放浪者」のキャラクターを少しずつ変えていきます。キーストン時代のキャラクターは、女性や子供をいじめたりする卑劣で残酷な役柄や、性的にいやらしい性格であるものが多かったのですが、エッサネイ社時代になると、より穏やかでロマンティックな性格に変化していきます。1917年ファースト・ナショナル社と契約したチャップリンは、最初の作品『犬の生活』(A dog life)を1917年4月に公開します。この作品でチャップリンは小さな放浪者を一種のピエロとして扱い、コメディ映画に複雑な人間的感情を盛り込むことに成功します。心優しい小さな放浪者のキャラクターが完成したと言われています。またこの作品でチャップリンの芸術的評価は決定的なものとなり、「映画史上初のトータルな芸術作」と呼ぶ批評家もいたほどです。
突然私事で失礼します。僕はこの作品を観ました。確か昭和47年(1972)ごろチャップリンの再認識キャンペーンのようなイヴェントがあり、当時18歳だった僕は映画館に足を運び、この作品や『キッド』、『担え銃(つつ)』、『黄金狂時代』といった無声映画を観ました。そして僕は『犬の生活』の「小さな放浪者」は、世界恐慌で生まれた失業者と思い込んでいたのです。ジャズの歴史と並行しているチャールズ・チャップリンの歴史をこれまで取り上げてこなかった理由です。全くの勘違いでした。
ジム・クロウ 因みに『キッド』は1921年、『担え銃(つつ)』は1918年、『黄金狂時代』は1925年の作品です。そしてこの年1931年に発表された作品は、これも名作として有名な『街の灯』(City lights 写真右)です。僕もこの作品には胸が締め付けられるような感銘を覚えました。今でも思い出す度色々考えこまずにはいられない作品です。
ヨーロッパ喜劇=アメリカ・ミンストレル・ショウ=チャップリン
ところでチャップリンのトレード・マーク「小さな放浪者」のスタイルについてチャップリンは自伝で「2作目出演のため扮装を決めることになり、衣裳部屋に行く途中に思い付いた」と記していますが、完全にオリジナルでしょうか?「ぼろぼろのスーツ姿にぼろぼろの靴、それでも紳士然として知識もないのに知ったかぶりをする愚かな黒人、ミンストレル、ヴォードヴィル・ショウの「ジム・クロウ」の白人版のように思えてなりません。
チャップリンが渡米した1910年代初めころは下火に放ったとはいえ、ミンストレルやヴォードヴィル・ショウも行われていたといわれます。チャップリンがこれらアメリカの「お笑い」芸を見て何らかの参考にしたことは十分に考えられることです。しかしそもそもミンストレル・ショウというのはヨーロッパ由来の演芸です。「ジム・クロウ」は19世紀初めころの芸人トーマス・ライスが作り出したとされていますが、そのいでたちなどはヨーロッパにその原型があったのかもしれません(詳しくは「そもそもアメリカと黒人 その10 ミンストレル・ショウ」をご覧ください)。その辺りのことは他の研究にお任せしましょう。

暗黒街の大きな動き

1931年はまだ禁酒法下の時代でした。これまで<シカゴ・ギャングとジャズメンたち>という項を設け、油井正一氏の伝えるギャングたちとジャズメンたちの恐ろしくも心暖まる(?)エピソードを書いてきましたが、この1931年暗黒街にも大きな変化の波が押し寄せます。
アル・カポネ

シカゴ・シーン … アル・カポネ(写真右)
ギャングと言えばやはりアル・カポネですね。彼はこれまでのエピソードで見られるように台のジャズ好きとして知られていたようです。彼は1929年「セント・ヴァレンタインデーの虐殺」と呼ばれる対立するジョージ・モラン一味を暗殺し、シカゴの闇の世界の帝王となりますが、拳銃の不法所持で自作自演で逮捕され、1929年5月17日から1930年3月17日まで収監されます。もちろんそうはいっても彼の待遇は特別で、刑務所内でも豪華な暮らしをしていたようです。しかしそこに登場するのがTVや映画でも有名なエリオット・ネス率いる「ジ・アンタッチャブル」です。彼等はカポネの脱税を告発します。この年1931年10月7日に始まった裁判で有罪となり、1931年10月24日イリノイ州クック軍の刑務所に収監されたのです。
ニュー・ヨーク・シーン … マフィア
当時ニューヨークの闇の世界では、激しいマフィア同士抗争、ジョー・マッセリア一味とサルヴァトーレ・マランツァーノ一味の間のカステラン・マレーゼ戦争が起きていました。色々紆余曲折はあるのですが、マランツァーノ一味に加担したラッキー・ルチアーノが1931年4月15日コニーアイランドのイタリアン・レストランでマッセリアを殺害、ニュー・ヨーク・マフィアの大ボスにのし上がっていきます。やがてはマランツァーノも暗殺し、ニュー・ヨークの暗黒街支配するラス・ボスとなっていきます。このラッキー・ルチアーノこそが映画『ゴッド・ファーザー』のモデルです。
カンサス・シティ・シーン … トム・ペンダーガスト
カンサス・シティのカポネと呼ばれたペンダーガストの勢力が弱まるのは1933年の禁酒法廃止以後、1939年に逮捕されますのでこの頃はまだ我が世の春を謳歌していたのかもしれません。そんな中カンサス・シティ・ジャズも勢いを保持していたと思われます。

ポピュラー・ミュージック

1931年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
1931年のキャブ・キャロウェイの出演告知
順位アーティスト曲名
キャブ・キャロウェイ(Cab Calloway)ミニー・ザ・ムーチャー(Minnie the moocher)
テッド・ルイス(Ted Lewis)ジャスト・ア・ジゴロ(Just a Gigolo)
デューク・エリントン(Duke Ellington)ムード・インディゴ(Mood Indigo)
ウエイン・キング(Wayne King)ドリーム・ア・リトル・ドリーム・オブ・ミー(Dream a little dream of me)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)アウト・オブ・ノーホエア(Out of nowhere)
ザ・ミルズ・ブラザーズ(The Mills brothers)タイガー・ラグ(Tiger rag)
アイシャム・ジョーンズ(Isham Jones)スターダスト(Stardust)
ガイ・ロンバード(Guy Lombardo)グッドナイト・スイートハート(Goodnight sweetheart)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)アット・ユア・コマンド(At your command)
10ウエイン・キング(Wayne King)グッドナイト・スイートハート(Goodnight sweetheart)

年間ヒットチャートの第1位に輝いたのは、キャブ・キャロウェイの「ミニー・ザ・ムーチャー」です。キャブ・キャロウェイはジ・アラバミアンズというバンドのの歌手でしたが、これをザ・ミズーリアンズが引き抜き、歌手兼指揮者に据えるとこれがうまく当たり、バンド名も「キャブ・キャロウェイ・アンド・ヒズ・ミズーリアンズ」そして「キャブ・キャロウェイ・アンド・ヒズ・オーケストラ」と名称を変えます。1931年にエリントン楽団が5年に渡るハウス・バンド連続出演をしていたコットン・クラブから巡業に出ると、キャブ・キャロウェイ楽団が変わってハウス・バンドとして入り、その後3年のレギュラー出演することになります。ヒットが先かコットン・クラブのハウス・バンド就任が先かは現状分かりませんが、全米屈指の人気バンドにのし上がっていくきっかけになったことは間違いありません。
1999年にグラミー賞の殿堂入りを果たし、2019年にはアメリカ議会図書館から「文化的、歴史的、または審美的に重要」として国立録音登録簿の保存対象に選ばれました。詳しくは「キャブ・キャロウェイ 1931年」をご覧ください。
テッド・ルイス 第2位にはテッド・ルイス(写真左)が入っています。テッド・ルイスはヴォードヴィル出身のクラリネット奏者兼バンド・リーダーで1920年から30代にかけてポール・ホワイトマンに次ぐ人気があったといわれています。若きベニー・グッドマンが憧れた人物としても知られています。BGはこの年憧れのテッド・ルイスの楽団に加わって吹込みもしていますので、詳しくは「ベニー・グッドマン 1931年」をご覧ください。
そして第3位にはデューク・エリントンの「ムード・インディゴ」が入っています。この曲は前年の録音ですが発売されてヒットしたのは1931年になってからのようです。詳しくは「デューク・エリントン 1931年」をご覧ください。
第4位と10位にランクされている「ウエイン・キング」はポール・ホワイトマン楽団出身のサックス奏者で1927年から独立しバンドを率い、ワルツを多くヒットさせたことから「ワルツ王(The Waltz king)」と呼ばれた人物です。
第5位と9位にランクされたビング・クロスビーもポール・ホワイトマン楽団出身の歌手。ザ・ミルズ・ブラザーズは1928年に結成された黒人4人組の男性コーラス・グループ。この「タイガー・ラグ」は彼らのデビュー・レコードです。詳しくは「ザ・ミルズ・ブラザーズ 1931年」をご覧ください。また彼らの父親理髪店を営んでおり、まさに「バーバー・ショップ・ミュージック」の代表として以前少し取り上げていますので、詳しくは「僕の作ったジャズの歴史5 … プレ・ジャズ2」をご覧ください。
第7位にランクされたアイシャム・ジョーンズは、作曲家で自身のダンス・バンドを率いて活躍した人物です。彼の作品で有名なのは「アラモにて(On the Alamo)」、「夢で逢いましょう(I'll see you in my dreams)でしょう。第8位のガイ・ロンバードはこれまで何度も登場している「スイート・ミュージック」を得意とした楽団を率いていました。
世界不況の真っただ中という暗い世相を反映してかトップ10に入った曲には、「面白ミュージック」と「スイート・ミュージック」が多いようです。」因みに中村とうよう氏監修の『アメリカン・ミュージックの原点』CD2枚組には、1931年の楽曲は1曲も収録されていません。
また代表的な白人オーケストラの一つポール・ホワイトマンの録音も持っていませんが、ペンシルヴァニアンズの演奏は2曲持っています。2曲ともブロードウェイ・ミュージカルのナンバーです。詳しくは「ペンシルヴァニアンズ 1931年」をご覧ください。

ジャズの動き … 1931年

では本題の1931年のジャズ界の動きを見ていきましょう。この年は大分録音数が減少しているように感じます。

ニュー・ヨーク・シーン

フレッチャー・ヘンダーソン楽団 1931年

フレッチャー・ヘンダーソン

まずは老舗のフレッチャー・ヘンダーソン楽団。1930年たった4面分しか録音を行わなかったフレッチャー・ヘンダーソンとその楽団は、1931年に入ると録音という面ではこれまでの低迷ぶりを吹き払うように一気に復活を遂げます。僕が持っている1931年の録音は、CD版の「スタディ・イン・フラストレイション」とRCA版の編集企画ものだけですが、それでも15面分を数えます。しかしWeb版のディスコグラフィーを見るとさらに数多い録音をこの年行っているのです。世界的不況が深刻化する中で意外な感じがしますが、何はともあれ老舗バンドが元気を取り戻すのはうれしいことです。
音楽家であり評論家でもあるガンサー・シュラー氏は、非常に分かりにくい表現で、ヘンダーソンのバンドが3月に行った演奏はビッグ・バンドの歴史に対して測り知れない影響を及ぼしたと述べています。
この年でもう一つ目を惹くのは、いや耳を惹くのは、ビックス・バイダーベックの「シンギング・ザ・ブルース」の演奏にほれ込んでレックス・スチュアートにビックスの名ソロをそのまま吹かせるという前代未聞の録音を4月にやっているのです。ところが同年10月には同曲を再度録音しているのですが、そこでは何とコルネット・ソロはなくレス・ライスという歌手に歌わせ、どう聴いても「シンギング・ザ・ブルース」とは思えない録音も残しています。実に摩訶不思議な活動ぶりなのです。詳しくは、「フレッチャー・ヘンダーソン 1931年」をご覧ください。
[Duke Ellington/Creole Rhapsody]SP盤

デューク・エリントン

不況下とはいえ前年1930年はかなり録音数は多かったのですが、1931年になると録音数だけでいえばかなり数が減ってきます。この年は何といっても先に触れたように「ムード・インディゴ」が大ヒットしていました。この年の録音を見ると、「南京豆売り」やカーマイケルの「ロッキン・チェア」などポップスよりの録音が多いように感じますが、注目すべきは「クレオール・ラプソディ―」で、パート1とパート2に分かれ合計8分を超す大作、組曲です。これはエリントンにとって多分初めての組曲録音で、ジャズ史上初めての組曲なのではないかと思います。少なくともこれまで取り上げた中でこのように明確に組曲ですと言った曲はなかったと思います。しかし当時のSP盤は3分が収録の限度のはずですが、どうしてこういうことが可能だったのでしょうか?それは通常のSP盤が10インチだったのに対し12インチ盤などというものあったようなのです。この辺りのことを解説してくれる資料に今のところ巡り合っていません。またこのレコードは1931年に6月11日にヴィクターに録音されますが、発売は翌32年の3月25日。12インチだった分プレスが速くできなかったのかもしれません。ともかくこの年のエリントンの詳細については、「デューク・エリントン 1931年」をご覧ください。

その他のニュー・ヨーク・シーン

[Don Redman/Chronogical]CD

1930年の録音は持っていませんが、1931年の録音があります。チック・ウエッブです。チック・ウエッブのバンドはこの年フレッチャー・ヘンダーソンのバンドから名アレンジャーにして名アルト・サックス奏者のベニー・カーターを入団させます。詳しくは「チック・ウエッブ 1931年」ご覧ください。
この年ニュー・ヨーク・シーンにおいて最も注目されたのは、何といっても天才ドン・レッドマンがマッキニーズ・コットン・ピッカーズを辞めて独立、自身のバンドを立ち上げたことでしょう。デューク・エリントンをして「ドン・レッドマンは、わたしたちの世界で常に高く聳え立っている存在」と言わしめた存在です。そしてこの年に吹き込んだ「チャント・オブ・ザ・ウィード」はその後20年以上たっても色褪せることない傑作ともデュークは述べています。詳しくは「ドン・レッドマン 1931年」ご覧ください。
一方レッド・マンに去られたマッキニーズ・コットン・ピッカーズは色々継続策を図るもその穴は大きく1934年には解散に追い込まれます。それ以前は彼に去られてフレッチャー・ヘンダーソンのバンドが低迷に喘ぐなどその影響力は非常に大きなものがあったと言えます。
因みにこの年、ジミー・ランスフォードなどの録音は見当たらいません。

シカゴ・シーン

ルイ・アームストロング 1930年

ルイ・アームストロング

ルイ・アームストロングはニュー・ヨークに移った思っていましたが、この年ニュー・ヨークでは録音を行っていません。この年の初めはまだロス・アンゼルスで活動を続けていました。3月まではロスで録音を行い、ニュー・ヨークに戻るのかというとそうではなく、シカゴに赴いているのです。4月に8曲ほどの録音を行いますが、大和昭氏によれば、当時のヒット・チューンを歌にTpに一般受けするような口当たりの良い表現を試みているとしています。やはり不況の影響でしょう。
さらに11月にもまとめて8曲分を録音しますが、ここでも「スターダスト」などポップスよりの録音を行っているのです。詳しくは「ルイ・アームストロング 1931年」をご覧ください。

ジミー・ヌーン

ジャズの中心がニュー・ヨークに移りつつあったこの時代ですが、ジミー・ヌーンはシカゴで活躍していました。とはいっても厳しい社会環境の中生き残りをかけてのことでしょうか、30年ごろから白人シンガーを起用し出します。この年の録音は6曲ありますが、最初の1月録音では、「スイングの女王」ミルドレッド・ベイリーを起用しています。ベイリーはポール・ホワイトマンの楽団所属でしたが、どういうわけこの録音に加わっています。レコーディングとしてはホワイトマンに先んじるものです。
また7月の録音にはかつてのコンビ復活というわけでもないでしょうが、ピアノにアール・ハインズが加わり先鋭的なピアノを聴かせてくれます。不況が深刻化する中、ヌーンのエイペックス・オーケストラとハインズのグランド・テラス・ビッグ・バンドは業務提携をしたのかもしれません。詳しくは「ジミー・ヌーン 1931年」をご覧ください。

エディ・コンドンなどシカゴアン達のこの年の録音は見当たりません。

カンサス・シティ・シーン … ベニー・モーテン

カンサス・シティ・ジャズ・バンドの雄、ベニー・モーテンはこの年はニューヨークで2面分の録音を行っています。ディスコグラフィーを見てもその2曲しか載っていないので、レコーディングは低調だったといってよいでしょう。さらにその内の1曲は瀬川昌久氏が「ガイ・ロンバード的甘さ」と評しているので、時代背景にモーテン・バンドも対応せざるを得なかったのかもしれません。詳しくは「ベニー・モーテン 1931年」をご覧ください。

ファッツ・ウォーラー

ピアノ・シーン

まずこの年常連のジェリー・ロール・モートンの録音はありません。1930年にヴィクターとの契約が切れたのです。モートンが復活するのはしばらく後のことになります。
また「ストライド・ピアノの父」ジェイムズ・P・ジョンソンの録音も見当たりません。これは僕が持っていないだけかもしれません。
さらにブギー・ウギー・ピアノのこの年の録音もあまり見当たりませんし、僕は1曲も持っていません。
唯一持っているのがファッツ・ウォーラーですが、椙山雄作氏によればこの年のウォーラーの録音は4曲しかないそうです。ただ僕がWebのディスコグラフィーで調べたところ5曲あるようですが。ともかく僕が持っているのは、トロンボーンのジャック・ティーガーデンの録音に加わった3曲のみです。詳しくは「ファッツ・ウォーラー 1931年」をご覧ください。

白人ジャズマン

レッド・ニコルス

レッド・ニコルス

僕が持っているこの年のニコルスの録音は1曲だけです。バンドはドンドン大きくなって”Five Pennies”などではなく”Orchestra”と言った方がいいような陣容となります。この年の録音では「虹の彼方に」などで有名なハロルド・アーレンが歌手として参加しています。アーレンはもともとヴォードヴィルの歌手だった人物ですので、実に堂に行った歌いっぷりです。パーソネルもベニー・グッドマン、ジャック・ティーガーデン、グレン・ミラー、ジーン・クルーパなどが参加し実に豪華です。詳しくは「レッド・ニコルス 1931年」をご参照ください。

ベニー・グッドマン

若きBG

この年も彼が加わった吹込みはレッド・ニコルスのようなジャズ・バンドに留まらず前出のベン・セルヴァンなどポップ・ミュージックへも参加しています。面白いのは若き日に憧れたテッド・ルイスのバンドに客演した録音です。また9月に初めて”Benny Goodman and his Orchestra”名義で録音を行っています。自身のバンドを組織するのは1934年になってからですが、レコーディング・バンドとしてですが、初めて自分の名前を使ったオーケストラでの録音です。クラリネット以外も演奏できるBGですが、この年アルト、バリトン・サックスなどでソロを記録しています。詳しくは「ベニー・グッドマン 1931年」をご覧ください。

ジャック・ティーガーデン

また「ビッグT」ことジャック・ティーガーデンも安定した活動を行っていたようです。特に2月にチャールストン・チェイサーズの一員として参加吹き込んだ”Basin street blues”はグレン・ミラーの作ったヴァースとも相俟ってこの曲の定番と言われる名録音となります。詳しくは「ジャック・ティーガーデン 1931年」をご参照ください。
本来はベン・ポラックの楽団で先輩でありながら、ビッグTにソロイストの座を奪われた感のあるグレン・ミラーはレッド・ニコルスのバンドでトロンボニスト兼アレンジャーとして活躍しだしました。もう一人のトロンボニスト、トミー・ドーシーは兄のジミーと1928年からレコーディング・バンドを作っていましたが、この年の録音はベン・セルヴァンの楽団に加わった録音しか持っていません。
詳しくは「グレン・ミラー 1931年」、をご参照ください。
詳しくは「トミー・ドーシー 1931年」、をご参照ください。

注目のニュー・カマー

1.カサ・ロマ・オーケストラ

グレン・グレイとカサ・ロマ・オーケストラ

個人的な話で恐縮だが、というかこのサイト自身が個人的なものなので勘弁していただきたいが、僕は、高校生時代に粟村政昭著『ジャズ・レコード・ブック』を参考書としてジャズを聴き始め、最も聞いてみたいと思っていたレコードの一つがこのカサ・ロマ・オーケストラでした。とにかく鬼才ジーン・ギフォードの恐ろしく手の込んだ精緻極まるアレンジ、ビックスが直ぐに退かざるを得なかったという伝説の演奏を聴いてみたかったのです。30年代前半先鋭的なものを好む大学生たちに最も人気があったバンドと言われるのも頷けます。
またこのバンドは変わった運営形態をとっていて、会社組織だったといいます。詳しいことは分かりませんが、メンバーが出資しているので、メンバーが株主であり、役員であり、従業員でもあったということになります。退団するときにはその権利を買い取られたというのですが、このような運営をしたバンドは他にはないのではないでしょうか?詳しくは「カサ・ロマ・オーケストラ 1931年」、をご参照ください。

バニー・ベリガン

2.バニー・ベリガン

スイング時代白人最高のトランぺッターと言われるバニー・ベリガンがレコード・デビューを果たしたのがこの年です。6月にベン・セルヴァンの楽団の一員として吹いたものが、初レコーディングかどうか定かではありませんが、最も初期の吹込みであることは間違いありません。彼は「サッチモとビックスーという全く異なった二つの個性を巧みに融合させて特異なキャラクターを作り上げた」と言われますが、ビックスはこの年無理を押して出演したダンス・パーティが仇となり、体調を壊し8月6日帰らぬ人となってしまいます。そこに登場したベリガンはビックスに代わるトランペットの期待の星となっていくのです。詳しくは「バニー・ベリガン 1931年」、をご参照ください。

ブルース・イメージ2

ブルース

クラシック・ブルース … ベッシー・スミス

油井正一氏によれば、この年ベッシー・スミスには6曲ほど吹込みがあるはずですが、残念ながら保有していません。

ロニー・ジョンソン

ロニー・ジョンソン

ギターの名手として名高いロニー・ジョンソンですが、前年からブルース・シンガーとしての味わいが深くなった気がします。この年の録音も典型的なブルースという感じのナンバーが多く、グラフトン、カンサス・シティ録音のブルースに比べると洗練されているように感じます。ギター・プレイも非常にスムーズで、時折他のブルース・マンでは絶対聞かれない様なフレーズが飛び出しますが、この辺りは様々なジャズ・マンとの共演歴がものを言っているような気がします。詳しくは「ロニー・ジョンソン 1931年」をご覧ください。

ブラインド・ブレイク

ブラインド・ブレイクもこの年の吹込み数4面分と大幅に吹込み数が減っています。詳しくは「ブラインド・ブレイク 1931年」をご覧ください。

他のブルース・ピープル

上記以外のブルース・ピープルの1931年の録音については、詳しくは「ブルース・ピープル 1931年」をご覧ください。

ジャグ・ミュージック

<ジャズ>とも<ブルース>とも近しい音楽にジャグ・ミュージックがあります。この年の録音で僕の持っているレコードは、「ジャグ・バンド 1931年」です。

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