1931年オーストリア銀行の倒産を受けて、フーヴァー大統領はモラトリアム(フーヴァー・モラトリアム)を実施します。アメリカ国内の銀行は1931年9月に305行、10月に522行が閉鎖します(右はアメリカ・ユニオン銀行に取り付けに押し寄せた群衆)。正に金融状況は破綻寸前、不況も深刻化の一途をたどります。
このフーヴァー・モラトリアム(Hoover Moratorium)は、そもそも世界恐慌によって財政危機に陥ったドイツを救済するために行った債務支払猶予措置でした。西洋諸国によるアメリカへの債務支払いを1年猶予すると同時に、ドイツによる西欧諸国への賠償支払いに1年の猶予を与えたのです。1931年6月20日にフーヴァー大統領が声明を発表するとフランスは即座に反対しましたが、モラトリアムは7月6日までに15カ国からの支持を得て、アメリカ議会は12月に承認しました。
1931年はまだ禁酒法下の時代でした。これまで<シカゴ・ギャングとジャズメンたち>という項を設け、油井正一氏の伝えるギャングたちとジャズメンたちの恐ろしくも心暖まる(?)エピソードを書いてきましたが、この1931年暗黒街にも大きな変化の波が押し寄せます。
1931年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
順位 | アーティスト | 曲名 |
1 | キャブ・キャロウェイ(Cab Calloway) | ミニー・ザ・ムーチャー(Minnie the moocher) |
2 | テッド・ルイス(Ted Lewis) | ジャスト・ア・ジゴロ(Just a Gigolo) |
3 | デューク・エリントン(Duke Ellington) | ムード・インディゴ(Mood Indigo) |
4 | ウエイン・キング(Wayne King) | ドリーム・ア・リトル・ドリーム・オブ・ミー(Dream a little dream of me) |
5 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | アウト・オブ・ノーホエア(Out of nowhere) |
6 | ザ・ミルズ・ブラザーズ(The Mills brothers) | タイガー・ラグ(Tiger rag) |
7 | アイシャム・ジョーンズ(Isham Jones) | スターダスト(Stardust) |
8 | ガイ・ロンバード(Guy Lombardo) | グッドナイト・スイートハート(Goodnight sweetheart) |
9 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | アット・ユア・コマンド(At your command) |
10 | ウエイン・キング(Wayne King) | グッドナイト・スイートハート(Goodnight sweetheart) |
年間ヒットチャートの第1位に輝いたのは、キャブ・キャロウェイの「ミニー・ザ・ムーチャー」です。キャブ・キャロウェイはジ・アラバミアンズというバンドのの歌手でしたが、これをザ・ミズーリアンズが引き抜き、歌手兼指揮者に据えるとこれがうまく当たり、バンド名も「キャブ・キャロウェイ・アンド・ヒズ・ミズーリアンズ」そして「キャブ・キャロウェイ・アンド・ヒズ・オーケストラ」と名称を変えます。1931年にエリントン楽団が5年に渡るハウス・バンド連続出演をしていたコットン・クラブから巡業に出ると、キャブ・キャロウェイ楽団が変わってハウス・バンドとして入り、その後3年のレギュラー出演することになります。ヒットが先かコットン・クラブのハウス・バンド就任が先かは現状分かりませんが、全米屈指の人気バンドにのし上がっていくきっかけになったことは間違いありません。
1999年にグラミー賞の殿堂入りを果たし、2019年にはアメリカ議会図書館から「文化的、歴史的、または審美的に重要」として国立録音登録簿の保存対象に選ばれました。詳しくは「キャブ・キャロウェイ 1931年」をご覧ください。
第2位にはテッド・ルイス(写真左)が入っています。テッド・ルイスはヴォードヴィル出身のクラリネット奏者兼バンド・リーダーで1920年から30代にかけてポール・ホワイトマンに次ぐ人気があったといわれています。若きベニー・グッドマンが憧れた人物としても知られています。BGはこの年憧れのテッド・ルイスの楽団に加わって吹込みもしていますので、詳しくは「ベニー・グッドマン 1931年」をご覧ください。
そして第3位にはデューク・エリントンの「ムード・インディゴ」が入っています。この曲は前年の録音ですが発売されてヒットしたのは1931年になってからのようです。詳しくは「デューク・エリントン 1931年」をご覧ください。
第4位と10位にランクされている「ウエイン・キング」はポール・ホワイトマン楽団出身のサックス奏者で1927年から独立しバンドを率い、ワルツを多くヒットさせたことから「ワルツ王(The Waltz king)」と呼ばれた人物です。
第5位と9位にランクされたビング・クロスビーもポール・ホワイトマン楽団出身の歌手。ザ・ミルズ・ブラザーズは1928年に結成された黒人4人組の男性コーラス・グループ。この「タイガー・ラグ」は彼らのデビュー・レコードです。詳しくは「ザ・ミルズ・ブラザーズ 1931年」をご覧ください。また彼らの父親理髪店を営んでおり、まさに「バーバー・ショップ・ミュージック」の代表として以前少し取り上げていますので、詳しくは「僕の作ったジャズの歴史5 … プレ・ジャズ2」をご覧ください。
第7位にランクされたアイシャム・ジョーンズは、作曲家で自身のダンス・バンドを率いて活躍した人物です。彼の作品で有名なのは「アラモにて(On the Alamo)」、「夢で逢いましょう(I'll see you in my dreams)でしょう。第8位のガイ・ロンバードはこれまで何度も登場している「スイート・ミュージック」を得意とした楽団を率いていました。
世界不況の真っただ中という暗い世相を反映してかトップ10に入った曲には、「面白ミュージック」と「スイート・ミュージック」が多いようです。」因みに中村とうよう氏監修の『アメリカン・ミュージックの原点』CD2枚組には、1931年の楽曲は1曲も収録されていません。
また代表的な白人オーケストラの一つポール・ホワイトマンの録音も持っていませんが、ペンシルヴァニアンズの演奏は2曲持っています。2曲ともブロードウェイ・ミュージカルのナンバーです。詳しくは「ペンシルヴァニアンズ 1931年」をご覧ください。
では本題の1931年のジャズ界の動きを見ていきましょう。この年は大分録音数が減少しているように感じます。
まずは老舗のフレッチャー・ヘンダーソン楽団。1930年たった4面分しか録音を行わなかったフレッチャー・ヘンダーソンとその楽団は、1931年に入ると録音という面ではこれまでの低迷ぶりを吹き払うように一気に復活を遂げます。僕が持っている1931年の録音は、CD版の「スタディ・イン・フラストレイション」とRCA版の編集企画ものだけですが、それでも15面分を数えます。しかしWeb版のディスコグラフィーを見るとさらに数多い録音をこの年行っているのです。世界的不況が深刻化する中で意外な感じがしますが、何はともあれ老舗バンドが元気を取り戻すのはうれしいことです。
音楽家であり評論家でもあるガンサー・シュラー氏は、非常に分かりにくい表現で、ヘンダーソンのバンドが3月に行った演奏はビッグ・バンドの歴史に対して測り知れない影響を及ぼしたと述べています。
この年でもう一つ目を惹くのは、いや耳を惹くのは、ビックス・バイダーベックの「シンギング・ザ・ブルース」の演奏にほれ込んでレックス・スチュアートにビックスの名ソロをそのまま吹かせるという前代未聞の録音を4月にやっているのです。ところが同年10月には同曲を再度録音しているのですが、そこでは何とコルネット・ソロはなくレス・ライスという歌手に歌わせ、どう聴いても「シンギング・ザ・ブルース」とは思えない録音も残しています。実に摩訶不思議な活動ぶりなのです。詳しくは、「フレッチャー・ヘンダーソン 1931年」をご覧ください。
1930年の録音は持っていませんが、1931年の録音があります。チック・ウエッブです。チック・ウエッブのバンドはこの年フレッチャー・ヘンダーソンのバンドから名アレンジャーにして名アルト・サックス奏者のベニー・カーターを入団させます。詳しくは「チック・ウエッブ 1931年」ご覧ください。
この年ニュー・ヨーク・シーンにおいて最も注目されたのは、何といっても天才ドン・レッドマンがマッキニーズ・コットン・ピッカーズを辞めて独立、自身のバンドを立ち上げたことでしょう。デューク・エリントンをして「ドン・レッドマンは、わたしたちの世界で常に高く聳え立っている存在」と言わしめた存在です。そしてこの年に吹き込んだ「チャント・オブ・ザ・ウィード」はその後20年以上たっても色褪せることない傑作ともデュークは述べています。詳しくは「ドン・レッドマン 1931年」ご覧ください。
一方レッド・マンに去られたマッキニーズ・コットン・ピッカーズは色々継続策を図るもその穴は大きく1934年には解散に追い込まれます。それ以前は彼に去られてフレッチャー・ヘンダーソンのバンドが低迷に喘ぐなどその影響力は非常に大きなものがあったと言えます。
因みにこの年、ジミー・ランスフォードなどの録音は見当たらいません。
ジャズの中心がニュー・ヨークに移りつつあったこの時代ですが、ジミー・ヌーンはシカゴで活躍していました。とはいっても厳しい社会環境の中生き残りをかけてのことでしょうか、30年ごろから白人シンガーを起用し出します。この年の録音は6曲ありますが、最初の1月録音では、「スイングの女王」ミルドレッド・ベイリーを起用しています。ベイリーはポール・ホワイトマンの楽団所属でしたが、どういうわけこの録音に加わっています。レコーディングとしてはホワイトマンに先んじるものです。
また7月の録音にはかつてのコンビ復活というわけでもないでしょうが、ピアノにアール・ハインズが加わり先鋭的なピアノを聴かせてくれます。不況が深刻化する中、ヌーンのエイペックス・オーケストラとハインズのグランド・テラス・ビッグ・バンドは業務提携をしたのかもしれません。詳しくは「ジミー・ヌーン 1931年」をご覧ください。
エディ・コンドンなどシカゴアン達のこの年の録音は見当たりません。
カンサス・シティ・ジャズ・バンドの雄、ベニー・モーテンはこの年はニューヨークで2面分の録音を行っています。ディスコグラフィーを見てもその2曲しか載っていないので、レコーディングは低調だったといってよいでしょう。さらにその内の1曲は瀬川昌久氏が「ガイ・ロンバード的甘さ」と評しているので、時代背景にモーテン・バンドも対応せざるを得なかったのかもしれません。詳しくは「ベニー・モーテン 1931年」をご覧ください。
まずこの年常連のジェリー・ロール・モートンの録音はありません。1930年にヴィクターとの契約が切れたのです。モートンが復活するのはしばらく後のことになります。
また「ストライド・ピアノの父」ジェイムズ・P・ジョンソンの録音も見当たりません。これは僕が持っていないだけかもしれません。
さらにブギー・ウギー・ピアノのこの年の録音もあまり見当たりませんし、僕は1曲も持っていません。
唯一持っているのがファッツ・ウォーラーですが、椙山雄作氏によればこの年のウォーラーの録音は4曲しかないそうです。ただ僕がWebのディスコグラフィーで調べたところ5曲あるようですが。ともかく僕が持っているのは、トロンボーンのジャック・ティーガーデンの録音に加わった3曲のみです。詳しくは「ファッツ・ウォーラー 1931年」をご覧ください。
僕が持っているこの年のニコルスの録音は1曲だけです。バンドはドンドン大きくなって”Five Pennies”などではなく”Orchestra”と言った方がいいような陣容となります。この年の録音では「虹の彼方に」などで有名なハロルド・アーレンが歌手として参加しています。アーレンはもともとヴォードヴィルの歌手だった人物ですので、実に堂に行った歌いっぷりです。パーソネルもベニー・グッドマン、ジャック・ティーガーデン、グレン・ミラー、ジーン・クルーパなどが参加し実に豪華です。詳しくは「レッド・ニコルス 1931年」をご参照ください。
この年も彼が加わった吹込みはレッド・ニコルスのようなジャズ・バンドに留まらず前出のベン・セルヴァンなどポップ・ミュージックへも参加しています。面白いのは若き日に憧れたテッド・ルイスのバンドに客演した録音です。また9月に初めて”Benny Goodman and his Orchestra”名義で録音を行っています。自身のバンドを組織するのは1934年になってからですが、レコーディング・バンドとしてですが、初めて自分の名前を使ったオーケストラでの録音です。クラリネット以外も演奏できるBGですが、この年アルト、バリトン・サックスなどでソロを記録しています。詳しくは「ベニー・グッドマン 1931年」をご覧ください。
また「ビッグT」ことジャック・ティーガーデンも安定した活動を行っていたようです。特に2月にチャールストン・チェイサーズの一員として参加吹き込んだ”Basin street blues”はグレン・ミラーの作ったヴァースとも相俟ってこの曲の定番と言われる名録音となります。詳しくは「ジャック・ティーガーデン 1931年」をご参照ください。
本来はベン・ポラックの楽団で先輩でありながら、ビッグTにソロイストの座を奪われた感のあるグレン・ミラーはレッド・ニコルスのバンドでトロンボニスト兼アレンジャーとして活躍しだしました。もう一人のトロンボニスト、トミー・ドーシーは兄のジミーと1928年からレコーディング・バンドを作っていましたが、この年の録音はベン・セルヴァンの楽団に加わった録音しか持っていません。
詳しくは「グレン・ミラー 1931年」、をご参照ください。
詳しくは「トミー・ドーシー 1931年」、をご参照ください。
個人的な話で恐縮だが、というかこのサイト自身が個人的なものなので勘弁していただきたいが、僕は、高校生時代に粟村政昭著『ジャズ・レコード・ブック』を参考書としてジャズを聴き始め、最も聞いてみたいと思っていたレコードの一つがこのカサ・ロマ・オーケストラでした。とにかく鬼才ジーン・ギフォードの恐ろしく手の込んだ精緻極まるアレンジ、ビックスが直ぐに退かざるを得なかったという伝説の演奏を聴いてみたかったのです。30年代前半先鋭的なものを好む大学生たちに最も人気があったバンドと言われるのも頷けます。
またこのバンドは変わった運営形態をとっていて、会社組織だったといいます。詳しいことは分かりませんが、メンバーが出資しているので、メンバーが株主であり、役員であり、従業員でもあったということになります。退団するときにはその権利を買い取られたというのですが、このような運営をしたバンドは他にはないのではないでしょうか?詳しくは「カサ・ロマ・オーケストラ 1931年」、をご参照ください。
スイング時代白人最高のトランぺッターと言われるバニー・ベリガンがレコード・デビューを果たしたのがこの年です。6月にベン・セルヴァンの楽団の一員として吹いたものが、初レコーディングかどうか定かではありませんが、最も初期の吹込みであることは間違いありません。彼は「サッチモとビックスーという全く異なった二つの個性を巧みに融合させて特異なキャラクターを作り上げた」と言われますが、ビックスはこの年無理を押して出演したダンス・パーティが仇となり、体調を壊し8月6日帰らぬ人となってしまいます。そこに登場したベリガンはビックスに代わるトランペットの期待の星となっていくのです。詳しくは「バニー・ベリガン 1931年」、をご参照ください。
油井正一氏によれば、この年ベッシー・スミスには6曲ほど吹込みがあるはずですが、残念ながら保有していません。
ギターの名手として名高いロニー・ジョンソンですが、前年からブルース・シンガーとしての味わいが深くなった気がします。この年の録音も典型的なブルースという感じのナンバーが多く、グラフトン、カンサス・シティ録音のブルースに比べると洗練されているように感じます。ギター・プレイも非常にスムーズで、時折他のブルース・マンでは絶対聞かれない様なフレーズが飛び出しますが、この辺りは様々なジャズ・マンとの共演歴がものを言っているような気がします。詳しくは「ロニー・ジョンソン 1931年」をご覧ください。
ブラインド・ブレイクもこの年の吹込み数4面分と大幅に吹込み数が減っています。詳しくは「ブラインド・ブレイク 1931年」をご覧ください。
上記以外のブルース・ピープルの1931年の録音については、詳しくは「ブルース・ピープル 1931年」をご覧ください。