セロニアス・モンク 1947年

Thelonious Monk 1947

ロビン・ケリー著「セロニアス・モンク/独創のジャズ物語」

セロニアス・モンクは実に久々の登場です。そしてその久々の登場が初のリーダー録音なのです。先ずいつ以来の登場かというと1940年の評伝で、「22〜23歳。特記事項無し。相変わらず仕事が無かった」とだけ書いています。その後の足跡をかいつまんでみてみましょう。

モンクの状況

1941年の新年に合わせてテディ・ヒルが「ミントンズ・プレイハウス」の後任経営者に抜擢された。ヒルは卓越したミュージシャンではないが、有望な新人を見つけ出す先見性を持っていた。彼はハウス・バンドを組織するに当たり、ケニー・クラークをハウス・バンドのリーダー兼音楽監督とし、Tpにはヒルの意向でジョー・ガイが収まり、ベースはニコラス・フェントンに決まった。そしてピアノにはソニー・ホワイトに依頼するが、他の仕事の都合から断わられ、全く無名だったセロニアス・モンクが雇われることになる。
1941年8月初め、ディジー・ガレスピーの推薦で、ラッキー・ミリンダ―がモンクを雇ったが、ミリンダ―はモンクの演奏が気に食わず、1週間でクビになった。モンクは定職に就けず、彼女のルビーはワシントンDCに働きに出ることになった。
1943年3月下旬、モンクは徴兵出頭命令書を受け取る。ミュージシャンたちは戦争には行きたがらなかった。出頭したモンクは、合衆国における人種差別と奴隷制度を痛烈に批判し、この国に対し忠実でいることは不可能であると主張し、任務に適さないと判断され、1Aだった資格が4Fに下がり、徴兵をまぬかれた。
大戦中、軍需産業の差し迫った必要性で、大量の黒人労働者が南部を離れ、北部都市圏の工場群に向かった。その黒人労働者の権利拡大に抗議する「ヘイト・ストライキ」が発生する。激しい人種間の暴力事件が全国の都市で発生した。警官たちは、暴動を非常に恐れていたので、ジャズ・クラブへの締め付けが厳しくなる。

ミントンズの前で 1944年2月頃モンクはコールマン・ホーキンスのバンドに飛び入りで加わるようになっていた。ホーキンスはモンクを気に入っていて、1944年3月ホークのバンドに入らないかと声をかけられたときには、驚きそして喜んだ。10月19日ホークとレコーディングに臨む。しかしこのレコードは注目されず、売れなかった。ホークとの「ダウンビート」への出演契約は12月に終了した。ロスアンゼルスのプロモーター、ビリー・バーグがホークに長期間雇う契約をした。モンクも一緒だった。出演開始は1945年2月と決まるがモンクは、西海岸には行かなかった。代わりにサー・チャールズ・トンプソンが雇われた。何という機会損失!モンクにとっては、西海岸は地球の反対側であり、音楽の中心地ではなく、ギグも無く、ネリーからも母親からも離れることだったのだ。
1945年モンクはニューヨークにいた。相変わらず定職は無く、不定期にギグなどに出ていた。ビ・バップが持て囃されるようになり、ディズとチャーリー・パーカーは大評判を取っていた。タウンホールなどでビ・バップのコンサートなどが企画されたが、モンクは呼ばれなかった。11月ノーマン・グランツがコールマン・ホウキンスを再度カリフォルニアへ招いた。今度は躊躇せずモンクは参加した。こうしてモンクもJ.A.T.P.コンサートに出演することになった。因みにその12月ディズとバードはロスアンゼルスに向かっている。ホークとモンクはクリスマス前にはニューヨークに戻り、「スポットライト」に出演した。
1946年ディズは戻り、バードはロスに残った。「スポットライト」でディズのバンドとホークのバンドが同時に出演した。ディズのバンドのアレンジャー、ギル・フラーにモンクは色々アドヴァイスした。ホークがJ.A.T.P.に加わって「スポットライト」を去ると、ガレスピーがモンクを雇ったが、モンクはいつも遅刻していた。最初は大目に見ていたディズだったが、「アポロ」に初めて出演することになった6月28日も遅刻し、ついに堪忍袋の緒が切れて首になった。この後またモンクはしばらく仕事にあぶれることになる。

マイケル・カスクーナ著「ブルーノートJazzストーリー」 何か月もギグの機会がなく、あっても一晩限りのギグだった。1946年末モンクは、ユニオンの会費を納めず、会員資格を失った。1947年前半その存在は全く知られていなかった。ビ・バップがいよいよ本格的人気を得てきたのを見てか、1947年春ジェリー・ニューマンが41年5月12日に行われた2回の長いジャム・セッションを78回転SP盤3枚に収録してヴォックス・レーベルから発売した。モンクはラジオやレコード店で自分の演奏を聴くことになった。チャーリー・クリスチャンはその夜たまたま飛び入りで参加したのに主役とされていた。
メリー・ルー・ウィリアムズ(P)がモンクにビル・ゴットリーブという人物が会いたがっていると伝えてきた。ゴットリーブはダウンビート誌のライター兼カメラマンだった。モンクは懐疑的だったが1947年9月初めに会うことになった。二人はミントンズに向かった。そこで何枚か写真を撮った。中には非常に有名な写真もある。「セロニアス・モンク―バップの天才」がダウンビート誌9月24日号に掲載される。謎めいた風変わりなモンクのイメージが動き出した。

ブルーノート側の事情

1944年ブルーノートは新しい局面に入る。先ずライオンが兵役を終えて帰ってきた。ライオンとウルフはここで本式のオフィスを構えることとし、レキシントン外へオフィスを引っ越す。以降ブルーノートを自分たちの本業と定め、一段と仕事に精を出し始めた。1944年7月コンボによるスイング・ミュージックに参入していたが、46年9月を契機に撤退する。そして翌47年9月までたった2度ほどしかセッションを行っていない。そして新しいジャズ「ビ・バップ」に参入しようとするが、ライオンは新しいジャズをクリエイトしていたミュージシャンにほとんど知己がいなかった。そこでライオンはケベックと連れ立って、ニューヨーク中のクラブに通い、それぞれの演奏を自分の目で確かめていた。そして情報を集め、人脈を広げ、録音を新しいジャズ=ビ・バップにシフトさせていった。

小川隆夫著「はじめてのブルーノート」 それから何週間か経ち、今度はアイク・ケベックがアルフレッド・ライオンと夫人のロレイン・ライオンを連れてやって来た。ケベックはその前に何度もモンクの家にやって来ていた。ライオン夫婦はゴットリーブの記事を読むまではあまり乗り気ではなかったという。やって来た3人はピアノの置いてあるモンクの寝室に招かれた。モンクは3人をベッドに腰掛けさせ、ピアノを弾いた。3人はほとんど言葉は交わさなかったが、ライオン夫妻が帰る頃には、レコーディング契約は決まっていたという。
以上はモンクの評伝に記載されているモンクとブルーノートの出会いであるが、小川隆夫著「はじめてのブルーノート」によると、話が少し異なる。先ずケベックがモンクをアルフレッド・ライオンに紹介したのは1947年の初頭のことで、同時期にバド・パウエルも紹介している。どちらもビ・バップを代表するアーティストだが、当時は無名に近かった。パウエルはルーストに1月にはピアノ・トリオで名作を吹き込んでいて、実績もあり一般的だが、モンクは全くの異端児だった。しかしライオンはモンクの方を最初に録音することに決める。「ブルーノートが新時代を迎えるなら、ミュージシャンにも新しい時代を感じさせる人材が必要」と考え、それまでリーダー録音の無いモンクに魅力を感じたという。ブルーノートがバド・パウエルを録音するのは、1949年になってからである。

「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.1」CD・ジャケット

<Date&Place> … 1947年10月15日 ニューヨークにて録音

<Personnel> … セロニアス・モンク・セクステット(Thelonious Monk sextet)

Band leader & Pianoセロニアス・モンクThelonious Monk
Trumpetアイドリース・シュリーマンIdrees Suliman
Alto Saxダニー・ケベック・ウエストDanny Quebec West
Tenor Saxビリー・スミスBilly Smith
Bassジーン・ラミーGene Ramey
Drumsアート・ブレイキーArt Blakey

モンクは初めての録音をセクステットにすることにし、ミントンズやそのほかで知っているメンバーを選んだ。アイドリース・シュリーマン、ジーン・ラミー、アート・ブレイキーは既に拙HPで登場済み。ホーンの2人はレコーディング・スタジオに一度足を踏み入れたことのない若者。アルトのウエストはアイク・ケベックの従弟で、テナーのビリー・スミスは「ブルックリンの若者」とだけ書いてある。ものすごく一般的過ぎる名前なので、後にディヴ・ブルーベックのグループに参加する人物と同一かどうかは分からない。ただスミスは当時ニューヨークのジュリアード音楽院に通っていた時期なので、ニューヨークに、ブルックリンにいた可能性はある。バンドのリハーサルは、モンクの家というひどく狭いところだった。

<Contents> … 「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.1」(Bluenote 1510)&「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.2」(Bluenote 1511)

Vol.1 CD-12.ハンフHumph
Vol.2 CD-6.イヴォンスEvonce
Vol.2 CD-5.サバーバン・アイズSuburban eyes
Vol.1 CD-7.セロニアスThelonious

ロビン・ケリー著「セロニアス・モンク/独創のジャズ物語」によれば、10月15日スタジオに集合した時誰一人として演奏するナンバーをマスターしていなかったという。

「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.1」CD

このセクステットによる演奏は、どの曲もモンクらしさ満載であり、モンク臭がプンプン匂ってくる実に迫力があるもの。「ライオン夫妻とウルフはその出来栄えに興奮した」と書かれているが、本当にそうだったのだろうと思う。ここで演られているパフォーマンスは間違いなくこれまでどこでも演られたことのないパフォーマンスだと思う。ジャズはジャズだが、スイングでは毛頭ない、と言ってビ・バップでもない。正にモンクス・ミュージックとしか言いようのないものだと思う。

「ハンフ」 … モンクの作で、一度しか録音しなかった数少ない曲の一つ。「アイ・ガット・リズム」と似ているが、異なる点は普通のコード・チェンジを下降する半音階コード進行に置き換えている点だという。風変りなテーマに続いて、As、Tp、Tsそしてモンクとソロが廻る。モンクのソロは「ミントンズ」以来ずっと演奏し、それ以降も使い続けているストック・フレーズが満載だという。基準に達するレベルになるまで3テイクを要したという。
「イヴォンス」 … これも一風変わったメロディのテーマである。これもソロはAs、Tp、Ts、モンクから合奏となる。
「サバーバン・アイズ」 … PとDsの短いイントロから、変わったメロディ・ラインのテーマとなる。最初のソロはAs続いてTp、モンク、Bとつないでテーマに戻る。
「セロニアス」 … 唯一ワン・テイクで済んだ曲だという。ソロはモンクだけが取るが、これぞ正しくモンク節という感じのソロである。いわゆる普通のバップ・ナンバーではない。

ライオン夫妻とウルフは、余りに興奮したために9日後にもう一度モンクの演奏を録音することにするのであるが、これは尋常のことではない。通常ブルーノートのようなマイナー・レーベルはまず数曲録音し、SP盤を発売して売れ行きが良ければ、それを資金に次の吹込みをするのが一般的である。それがレコードが出る前に、3回も吹込みを行い、14曲を完成させるのである。

「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.2」CD・ジャケット

<Date&Place> … 1947年10月24日 ニューヨークにて録音

<Personnel> … セロニアス・モンク・トリオ(Thelonious Monk trio)

Band leader & Pianoセロニアス・モンクThelonious Monk
Bassジーン・ラミーGene Ramey
Drumsアート・ブレイキーArt Blakey

<Contents> … 「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.1」(Bluenote 1510)&「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.2」(Bluenote 1511)

Vol.2 CD-9.ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イットNice work if you can get it
Vol.1 CD-3.ルビー・マイ・ディアRuby my dear
Vol.1 CD-10.ウェル・ユー・ニー・ドントWell you needn't
Vol.1 CD-5.4月のパリApril in Paris
Vol.1 CD-2.オフ・マイナーOff minor
Vol.1 CD-11.イントロスペクションIntrospection
「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.2」CD

6曲中4曲がモンクのオリジナル。カヴァー曲は最初の「ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット」と「4月のパリ」。
「ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット」 … ガーシュイン作の有名なナンバー。モンクはこの曲を好み長年演奏し続けた。1941年ジェリー・ニューマンが録音した"Harlem Odyssey"でも演奏していた。多分モンクはこういう愛奏曲を心から楽しんで演奏していただろうことが伝わってくる。
「ルビー・マイ・ディア」 … 有名なオリジナル曲。この後何度も録音している。多分モンクにとってとても大事な曲なのだろう。
「ウェル・ユー・ニー・ドント」 … これも有名なオリジナル曲。弾き慣れた曲をスインギーなリズムに乗って楽しそうに演奏している。
「4月のパリ」 … ヴァーノン・デュークの作で、後にカウント・ベイシー楽団の演奏が有名になる。
「オフ・マイナー」 … かなり前に作った曲で、「ワット・ナウ」いうタイトルだったという。バド・パウエルがこの年の1月にトリオで吹き込んでいる。「バド・パウエル 1947年」を参照。モンクの演奏はどこか楽し気に弾いている感じがする。
「イントロスペクション」 … ロビン・ケリーはこのセッション中最も想像力に富む挑戦的なナンバーだという。満足する仕上がりまで、4テイク録ったという。この曲は一連の47年の吹込みがLP化される時初めて世に出た。多分時代的に難しすぎるというのが原因ではないかという。

ここまで10面分を録音しているが、まだ1曲もレコードとして発売はされていないどころか発売する準備もなされていない状態であった。しかしライオンはまたもやレコーディングを行うのである。ライオンは後に「モンクが余りに素晴らしいので、彼の持っているすべてを吐き出させたいと考えたのだ」と語っている。

「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.1」CD・ジャケット

<Date&Place> … 1947年11月21日 ニューヨークにて録音

<Personnel> … セロニアス・モンク・クインテット(Thelonious Monk quintet)

Band leader & Pianoセロニアス・モンクThelonious Monk
Trumpetジョージ・テイトGeorge Taitt
Alto Saxサヒブ・シハブSahib Shihab
Bassロバート・ペイジRobert Paige
Drumsアート・ブレイキーArt Blakey

前回のトリオの後には、クインテットで録音しようとモンクは決めていたという。続けて参加したのはブレイキーだけである。サヒブ・シハブは拙HPでも以前登場しているが、ジョージ・テイトとロバート・ペイジは全く無名のミュージシャン。ただモンクとは仕事をした経験があり、モンクの音楽をよく知っていたという。

<Contents> … 「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.1」(Bluenote 1510)&「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.2」(Bluenote 1511)

「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.2」CD・ジャケット
Vol.1 CD-6.イン・ウォークド・バドIn walked Bud
Vol.2 CD-10.モンクス・ムードMonk's mood
Vol.2 CD-11.フー・ノウズWho knows
Vol.1 CD-1.ラウンド・ミッドナイト'Round midnight
「イン・ウォークド・バド」」 … バド・パウエルがモンクに捧げた曲。4回目でやっとOKテイクにたどり着いたという。モンクの短いイントロからテーマ合奏となり、ソロはモンク、テイト(Tp)、シハブ(As)からテーマ合奏に戻る。
「モンクス・ムード」
モンク作のバラード。ゆったりとしたテンポでテーマが奏され、ほんの短いモンクのソロが入るのみである。 「フー・ノウズ」
モンク特有の下降する半音階コード進行に載って速いスピードで演奏される。使えるテイクにたどり着くまで7テイク録ったという。サヒブ・シハブはこんな難しい曲に取り組んだことは無いという。Tpのテイトは結局最後までまともに吹けなかったという。 「ラウンド・ミッドナイト」
ご存じ非常に有名なモンクのオリジナル。モンク自身がレコーディングするのは初めてであった。実は非常な難曲だという。ソロはモンク。

6週間3回のセッションでリリース可能な音源は揃い、モンクは自分のプレイがレコード店やラジオから聞こえてくるのを心待ちにしていたというが、実際に発売にこぎつけたのは翌年1月であった。

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