僕の作ったジャズ・ヒストリー 9 … 初期のジャズ 2 1924年

さて今回は1924年、1925年を振り返ってみたいと思います。前回は1923年、堰を切ったように黒人のジャズのレコーディングが行われ始めます。その後のジャズに大きな影響を与えた重要なミュージシャンがレコーディングを開始しました。そのおかげで我々はこの時代の音楽を確認したり楽しむことができるわけです。

カンサス・シティの特殊性

アメリカの地図

ガンサー・シュラー氏が挙げた1923年からレコーディングを始めた重要人物の中で、取り上げることが出来なかったのはシドニー・ベシエとベニー・モーテン楽団です。両者とも音源をご紹介する時に詳しく触れたいと思いますが、ベシエはニュー・オリンズ生まれのジャズ・マンでシカゴ経由でニュー・ヨークに移り、この時にはニュー・ヨークで活動していました。一方ベニー・モーテン楽団(写真右は1920年代のモーテン楽団、バス・ドラムに「カンサス・シティ(Kansas City)」の文字が見えるように、正式名称を「ベニー・モーテンズ・カンサス・シティ・オーケストラ(Bennie Moten's Kansas City Orchestra)」といい、その通りカンサス・シティを中心に活躍していました。
リーダーのモーテンは1935年不慮の死を遂げ、バンドはカウント・ベイシーに受け継がれます。ベイシーの率いた楽団は、猛烈にスイングするカンサス・シティ・ジャズとして有名になりますが、その萌芽はこのモーテン楽団に求められると言われる重要なバンドです。しかしそのようなバンドがなぜカンサス・シティという小さな田舎町で生まれ活躍していたのでしょうか?それにはこの町の特殊性が関係しています。ニュー・ヨーク、シカゴに次ぐジャズの町と言われた「カンサス・シティ」という町を少し詳しく見てみましょう。
各主要都市の比較
1位2位3位17位19位
1920年
ニュー・ヨーク 5,620,048人シカゴ 2,701,706人フィラデルフィア 1,823,779人ニュー・オリンズ 387,219人カンザス・シティ 324,410人
1位2位3位16位19位
1930年
ニュー・ヨーク 6,930,446人シカゴ 3,376,438人フィラデルフィア 1,950,961人ニュー・オリンズ 458,762人カンザス・シティ 399,746人
データはアメリカ合衆国国勢調査。わが国では国勢調査は5年周期で行われますが、アメリカでは10年に一度、0の付く年に行われます。

1920年代のベニー・モーテン楽団

カンサス・シティは元々はフランス人によって入植された土地でした。一時スペイン領になった時もありますが、1803年ナポレオンによるルイジアナ売却により、アメリカに編入されました。市域はカンサス川がミズーリ川に合流する地点を中心に広がっていて、ミズーリ州側とカンザス州側の2つに分かれています。市名からカンザス州側がメインとなる都市と思われがちですが、実際には人口が多いのも、超高層ビルが立ち並ぶダウンタウンが発展しているのもミズーリ州側です。そのため単に「カンザス・シティ」と言った場合、ほとんどはミズーリ州側を指します。また市は略してKCと呼ばれることがありますが、KCと略した場合カンザス・シティ都市圏を指すことも少なくありません。
南北戦争時代は、ミズーリ州がフランス植民地時代からの奴隷州であったのに対し、1861年に州に昇格したカンザス州は住民投票によって自由州となることを選びました。この地域に住んでいた、奴隷制に反対する住民が多数カンザス州側に移り住んだのです。この2州は初めは投票箱で、次いで血を流して戦うことになりました。この事件は「流血のカンサス」と呼ばれます。詳しくは拙HP「そもそも・モール そもそもアメリカ6」をご覧ください。
しかし南北戦争後は、鉄道も通り非常に発展していくこととなります。そこに登場するのがトム・ペンダーガスト(Tom Pendergast:1872〜1945)というアイルランド出身の男です。油井正一氏はその著『ジャズの歴史』において、次のように述べています。
「カンサス・シティは、禁酒法時代にジャズが素晴らしい発展を遂げた町であります」とし、さらに「カンサス・シティの繁栄については、トム・ペンダーガスト(Tom Pendergast:1872〜1945)というカポネに劣らぬ顔役の向上を除いて明らかにすることができないのであります」と述べています。

トム・ペンダーガスト

ペンダーガスト(写真左)は、「ビヤ樽のように太った、百万人の知己を持つと言われたアイルランド人で、彼は20年に渡ってミズーリ州の政治の黒幕となり、役人や政治家を手なずけ、1920年代中頃にはカンサス・シティのみならずミズーリ州全体の支配権をがっちり握ってしまったのであります。」そして彼の醸造場は、カンサス・シティに散在する数百軒のスピークイージー(居酒屋)に、ウィスキーやビールを提供し、彼のところから酒を仕入れなければ、スピークイージーを経営することはできなかったのであります。」(いずれも『ジャズの歴史』)酒だけではありません。彼のセメントを使うという条件をのまなければ建設会社も公共工事を請け負うことができませんでした。
当時のアメリカにはヴォルステッド法(禁酒法)が存在していましたが、ペンダーガストはその禁酒法を有名無実化させ、市内のナイトクラブの違法営業を庇護したのです。彼の酒を仕入れ、寺銭を支払っている限り、ナイト・クラブや賭博場の安全と営業を保証したのです。全米中には酒の販売を自粛して、さびれた盛り場がある一方このカンサス・シティは、盛り場が大いに盛り上がりイケイケ状態だったのです。ナイトクラブや賭博場がもうかればもうかるほどペンダーガストも儲かる仕組みですからそうなるのは当然です。この町の隆盛は全米に鳴り響き、ここに行けば仕事があるとミュージシャンたちが集まってきたと言います。特に1929年の大恐慌の直後でもこの地だけは不景気知らずの大繁栄を遂げていたと言います。
この地で最初に有名になったジャズ・バンドは、クーン・サンダース・オリジナル・ナイトホーク・オーケストラという白人バンドだったそうですが、次第に黒人バンドによるワイルドなサウンドが好まれるようになり、有力ないくつかの黒人バンドがライヴァルとしてしのぎを削っていたと言います。その代表がモーテン楽団であり、ジョージ・E・リー楽団、ジェシー・ストーンのバンドなどが有名でした。
因みに村井康司氏『あなたの聴き方を変えるジャズ史』によると、そもそもはペンダーガストの部下で、彼に推されて1934年の上院議員に当選し後第33代大統領に就任したのが、ハリー・トルーマンだそうです。
しかしそれだけ権勢を誇ったペンダーガストもついに1939年に脱税で有罪になり、懲役刑に処されます。

ヴォルステッド法(禁酒法)ということ

「天下の悪法」とも「人類史上初の高貴なる実験」ともいわれるヴォルステッド法(禁酒法)について考えてみましょう。
19世紀の半ばからアメリカでの知名度が高まったウイスキーは、南北戦争を挟んで、ケンタッキー州、テネシー州、イリノイ州などを中心に蒸留所が多数開設され、産業としての発展を遂げましていました。しかしアメリカ人全員がウイスキー産業の発展をよろこんでいたわけではありません。イングランドから北アメリカにいち早く入植し、禁欲や勤勉を尊ぶピューリタン(清教徒)達は、アメリカ独立戦争以前からアルコールに対する根強い反発があったのです。さらに、バーボン・ウイスキーをはじめとするアルコール飲料が広がりを見せるにしたがい、「飲酒のせいで健康被害や治安悪化・暴力事件が増えている」という批判が増加していました。

ウィスキー

そこへアルコールの過剰摂取が家庭生活にも支障を来すと訴える婦人活動や、第1次世界大戦下での節約志向、ビール業界を支配していたドイツ系移民への反発なども相まって、禁酒運動は各地で高まりを見せていきます。禁酒運動の一部は過激化し、キャリー・ネイションという女性活動家は自ら手斧で酒場を破壊してまわったエピソードはとくに有名です。結果として、アメリカでは20世紀初頭までに18の州で禁酒法が実施され、1917年にはアメリカ合衆国憲法修正第18条(全国禁酒法)が上下院を通過します。全国禁酒法の施行には、全48州(当時)のうち4分の3となる36州の批准が必要でした。
当初は多くの人々が「批准する州が4分の3を超えることはないだろう」と高をくくっていたようですが、推進派は禁酒法を「人類史上初の高貴なる実験」と称え、これに賛同する人々が続出し、結局36州が批准して成立してしまうのです。そして1919年1月から1年間の猶予期間を経て、1920年1月17日から全国禁酒法が施行されることになります。自由主義国が禁酒を全面的に実施するのは、人類史上初めてのことでした。ただ、法が禁じたのはお酒の製造・販売・移動のみ。飲酒そのものは禁じられていませんでした。さらに実施まで1年の猶予期間があったおかげで、人々はお酒を大量に買いだめすることができ、国内のお酒の消費量はかえって激増します。
密造や密売、密輸も横行します。これに目をつけ、密造酒をもぐり酒場に運ぶ中間業者、つまりギャングが暗躍するようになります。ギャングたちは密造や密売により巨大な利を得、縄張りを拡大していきました。この時期に頭角を現し裏社会のドンとなったのがあのアル・カポネであり、表立って酒を販売するナイトクラブ、賭博場を盛り立てたのがトム・ペンダーガストだったのです。
全国禁酒法に終止符が打たれたのは1933年です。同年禁酒法廃止を訴えて選挙戦にのぞんだフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任します。その公約通り12月に全国禁酒法は廃止となり、14年近く続いた禁酒法時代はようやく終わりを迎えたのです。写真右は禁酒法廃止から即座に蒸留所を再開し、1934年に自社バーボンを販売し現在シェアNo.1を誇る「ジム・ビーム」です。
このようにアメリカ合衆国全体での禁酒法は廃止されましたが、酒類の製造や販売を規制する州は今なお存在します。州のなかでアルコール飲料の販売を禁止している郡を「ドライ・カウンティ」、酒類の規制がない郡は「ウェット・カウンティ」と呼ばれます。そして現在も数百のドライ・カウンティが存在しています。
僕が考えるのは、何故この禁酒法が「天下の悪法」と呼ばれるのかということです。少し調べただけですが現状何故そう呼ばれることになったのかは分かりません。そこでこれは僕が推察するところなのですが、それは「酒を飲みたい」という人間としての基本的な欲求を規制しようとする法律だったから「悪法」と呼ばれたのではないかということです。
「酒を飲む」という行為は、有史以前から存在したと認められる行為です。一説では、ホモ・サピエンス以前の類人猿の時代から認められるとも言われます。そんな人間の本性そのものにかかわる行為を規制するなどできようはずもなく、必ず隠れて或いは摘発されない方法で「酒を飲む」人間、「酒を辞められない」人間は存在する、そこに付け込んで大発展を遂げたのがギャング達だったと言うこともできると思われるのです。
因みに僕も弱いですがお酒は大好きです。現代の日本で「禁酒法」が施行されたら、何とか抜け道を考えるだろうと思います。

当時のレコード会社について

ヴィクター ニッパー君

何といっても当時1920年ごろのレコード会社と言えば、何といってもヴィクター(Victor)とコロンビアが2大レーベルとして他を圧倒しています。
ヴィクター(Victor)
ヴィクターについては拙HP「僕の作ったジャズ・ヒストリー…原初のジャズ1」で触れました。
ヴィクターで有名なのは何といっても左の「His master's voice」ですね。最近はあまり見かけませんが、犬の名前は「ニッパー」。このマークの原画は、1889年にイギリスの画家フランシス・バラウドによって画かれました。フランシスの兄マーク・H・バラウドは「ニッパー」と呼ぶ非常に賢いフォックス・テリアをかわいがっていました。しかし彼が世を去ったため、彼の息子とともにニッパーをひきとりフランシスが育てました。
たまたま家にあった蓄音器で、かつて吹き込まれていた兄の声を聞かせたところ、ニッパーはラッパの前で怪訝そうに耳を傾けて、なつかしい主人の声に聞き入っているようでした。そのニッパーの姿に心を打たれたフランシスは早速筆をとって一枚の絵を描き上げました。その時の蓄音器は録音・再生ができるシリンダー式でしたが、その後円盤式に画き変えられました。そして、「His Master's Voice」とタイトルをつけたのです。
亡き主人の声を懐かしそうに聞いているニッパーの可憐な姿は、円盤式蓄音器の発明者ベルリナーを感動させ、彼はこの名画をそのまま商標として1900年に登録しました。それ以来この由緒あるマークは最高の技術と品質の象徴として使用されているという由緒あるものです。

ヴィクトーラ 1919

このヴィクター・トーキング・マシン(Victor talking machine Company)が1906年に開発した蓄音機「ヴィクトローラ(Victrola)」は大ヒット商品となります。写真は「ヴィクトローラ(Victrola)1919」という名称なので1919年タイプと思われますが、見た目は高級家具という感じですね。
コロンビア(Columbia)
一方コロンビアは、当初「コロンビア蓄音機会社(The Columbia Phonograph Company)」として、エドワードD.イーストン(1856〜1915)と投資家グループによって1889年1月15日に設立されました。その名前の由来は、本社があったコロンビア特別区に由来しています。「コロンビア特別区」とは、よく聞く名称「ワシントンD.C.」の「D.C.」の部分です。「D.C.」は”District of Columbia”の略で、訳せば「コロンビア特別区」、どの州にも属さない唯一の連邦直轄地区です。
イーストンはニュージャージー出身で、ワシントンDC、メリーランド、デラウェアなどの地区でエジソン蓄音機と蓄音機シリンダーの販売等の事業を行っていましたが、当時の慣例として、独自の商用シリンダー録音も数多く作成・販売していたようです。しかしシリンダー蓄音機事業を展開していたエジソンとの間に亀裂が生じ、その関係は1894年に途切れてしまいます。そのためその後は自社製のレコードと蓄音機のみを販売していました。さらに1901年には、シリンダー・システムに加えて、エミール・ベルリナーによって発明された円盤式の蓄音機の販売を開始するのです。このためコロンビアは、エジソン・フォノグラフ・カンパニーのシリンダーとビクター・トーキング・マシン・カンパニーのディスク・レコードの両方と競争しなければならなくなります。

「グラフォノーラ」の広告

コロンビアは、1903年以降自社製品の価値を高めるために、マルセラ・センブリッヒ、リリアン・ノルディカ、アントニオ・スコッティ、エドゥアール・デ・レスケなど、ニューヨークのメトロポリタン・オペラのスター達と契約してレコーディングを行います。また1907年当時人気のあった競合会社ビクター・トーキング・マシンの「ヴィクトローラ」(Victrola)の競合機として、蓄音機「グラフォノーラ」(Grafonola)を開発、販売を開始します。また1908年には「両面」ディスクと呼ばれるものの大量生産に成功します。これを受け1912年7月コロンビアはシリンダー方式を止め、ディスク・レコードに専念することを決定、シリンダー蓄音機の製造を停止しました。
その後コロンビアはレコードを作成する会社と蓄音機を製造する会社に分かれます。1925年2月25日には、ウェスタン・エレクトリックから技術供与を受け電気式レコーディングを開始しますが、この技術は1925年代のルイ・アームストロングの録音でその威力を発揮することになります。さらに1927年放送局CBS(Columbia Broadcasting System)を設立しますが、1938年子会社のCBSによって買収されてしまいます。

ジャズのレコードで当時よく見かけるレーベルとしては、他に「オーケー」、「ジネット」、「パラマウント」などがあります。「オーケー」については拙HP「僕の作ったジャズ・ヒストリー…原初のジャズ2」の「初めての黒人女性ブルース、メイミー・スミス『クレイジー・ブルース』の項で詳しく触れました。

パラマウント・レコード・ラベル

パラマウント・レコード(Paramount records)
「パラマウント・レコード」の母体は、1889年ウィスコンシン州ポートワシントンに設立された家具メーカー、「ウィスコンシン・チェア・カンパニー(Wisconsin Chair Company)」です。この会社はポートワシントンの地域経済を支えるような大きな工場を運営していました。そして1915年その木材加工の技術を生かし、蓄音機のキャビネットの製造を開始したのです。そしてこの分野の事業を別会社化し、「ユナイテド・フォノグラフ・コーポレイション(United Phonograph Corporation 以下UPCと略)」という子会社を設立します。
UPCは、ユナイテッド、パラマウント、ピューリタン、ビスタ、コロニアルといったいくつかの異なるブランドのキャビネットを製造します。そして蓄音機の販売を支援するためにパラマウント・レコード(Paramount records)を設立するのです。さらにUPCはニューヨークに録音研究所をも作ります。
しかし1920年代初め多くのメーカーの参入によって蓄音機市場は飽和状態となり、さらに1920年から始まったラジオ放送によって市場は不振に陥り、UPCは事業の撤退を決断せざるをえ案くなります。
「パラマウント・レコード」のみは何とか1920年代後半まで続きましたが、1929年に起こる大恐慌によって、「ウィスコンシン・チェア・カンパニー」は蓄音機、レコードという音楽関係事業から全て撤退を余儀なくされるのです。
因みにウィスコンシン・チェア・カンパニーは、大恐慌中に行った事業のほとんどで失敗し、大量生産を辞め高級市場向けの工芸品を生産することで1950年代中盤まで生き残ります。「パラマウント・レコード」の親会社は家具メーカーということで、「パラマウント・ベッド」と関係がありそうですが、「パラマウント・ベッド」は完全に日本人が日本で設立したメーカーで全く関係はありません。

ジネット・レコード・ラベル

ジネット・レコード(Gennett records)
ジネット・レコードは、1917年インディアナ州リッチモンドで「スター・ピアノ・カンパニー(Starr Piano Company)」によって設立されました。「スター・ピアノ・カンパニー」はその名の通りピアノ・メーカーで1872年にジェイムズ・スター(James Starr)によって設立されています。19世紀末アメリカではピアノが非常に人気が高く、100社以上のメーカーがピアノを製造していたと言います。当初はスター・レコード(Starr Records)レーベルを使用していましたが、同社のマネージャーに就任したハリー、フレッド、クラレンス・ジネット(Harry、Fred and Clarence Gennett)に因んでレーベル名を変更したようです。
最初のレコーディング・スタジオはニュー・ヨークに作られたようですが、その後1921年にリッチモンドのピアノ工場の敷地内に2番目のスタジオを建設します。1923年にジェリー・ロール・モートンなどが行ったのは2番目のスタジオということになります。
ジネットは初期のジャズだけではなくブルースやゴスペル、ヒルビリーやカントリー・ミュージックなど幅広くレコーディングを行いますが、こちらも1929年に起こる大恐慌で大打撃を受けます。そして1935年親会社の「スター・ピアノ・カンパニー」は、ジネットを新興のデッカ・レコード(Decca records)に売却します。
現代の日本(2020年代)では、外資系の企業、中公販売を除きほとんどレコード店、CDショップは見かけなくなりましたが、僕がジャズを聴き始めた50年前は「レコード屋」さんというものが独立して存在し、レコードはそこで買うものでした。しかしジャズそしてレコード黎明期の20世紀初頭のアメリカでもレコードを専門的に扱う店があるわけではなく、ブライアン・プリーストリー著『ジャズ・レコード・全歴史』によれば、レコードは主に雑貨店や家具店で売られていたそうです。家具店というのが意外ですが、それは当時蓄音機は家具とみなされていて、レコードは蓄音機のオマケと考えられていたからだそうです。
1918年までレコードの生産はヴィクターとコロンビアの独占状態だったと言います。この2社はレコードの生産販売もしていましたが、これまで見てきたように蓄音機の製造・販売も行っていました。というかどちらかと言えば、蓄音機の販売が主で、レコードは従だったわけです。当時の蓄音機の値段は大体50ドル前後だったようです。この大手2社は、蓄音機を売っている自分たちだけが、蓄音機で再生するレコードの供給者であるべきだと思っていたと言います。しかし1918年ジネット社がヴィクター、コロンビアに対して独占禁止法の裁判を起こし、これに勝利します。その結果上記パラマウント、オーケーなど沢山のマイナー・レーベルが誕生してくることになるのです。

1924年

この年も重要な年です。まずジャズの前に一般的なポピュラー・ミュージックの話題をさらっておきましょう。

ガーシュウィン・プレイズ・ラプソディ・イン・ブルー

「ラプソディ・イン・ブルー」の初演

先ずはジョージ・ガーシュイン(George Gershwin:1896〜1937)が代表作「ラプソディ・イン・ブルー(Rhapsody in blue)」を作曲、ポール・ホワイトマンによって同年2月12日ニュー・ヨークのエオリアン・ホールにて初演されました。
このことについては次のようなエピソードが伝えられています。
「1924年1月3日、仕事で多忙だったジョージ・ガーシュウィンが兄のアイラとビリヤード場に息抜きに行った際、新聞で『ホワイトマンがガーシュウィンに曲を発注した』という記事を見つけた。ホワイトマンから作曲を依頼された覚えのないジョージは翌日抗議のためホワイトマンに電話をかける。しかし実はこの記事はホワイトマンがガーシュウィンを呼びつけるために作った偽記事だったらしく、『新聞記事になってしまったから作ってくれ』とホワイトマンに押し切られたというのです。本当でしょうか?何故ホワイトマンは直接ガーシュインに依頼しなかったのでしょうか?
かなり「ダウト」っぽい話ですが、ともかくガーシュウィンは、この曲を約2週間で一気に書き上げます。しかし当時のガーシュウィンはまだオーケストレーションに精通しているとはいえなかった上に、作曲の期間が限定されているという事情も加わり、ホワイトマン楽団のピアニスト兼専属の編曲者を務めていたファルディ・グローフェ(Ferde Grofe:1892〜1972)がオーケストレーションを行ないました。
つまりガーシュウィンが2台のピアノを想定しながら作曲し、それを即座にグローフェがオーケストラ用に編曲していき、結局はガーシュウィン自身が弾くピアノと小編成のジャズバンド向けの版が完成されたのです。
実はこの曲は色々なヴァージョンがあり、どれが正式なものかよく分かりませんが、Wikipediaによると1926年にグローフェが再編曲したオーケストラ版と、ガーシュウィンの死後の1942年にフランク・キャンベル=ワトソンがグローフェ編曲版に加筆修正を加えた版がよく知られているそうで、その後は主に1942年版が演奏されているそうです。 左の僕の持っているレコードはガーシュイン自身によるピアノ・デュオなのですが、いつ頃の録音で、デュオの相手が誰なのか等のデータは全く記載されていません。
ピアノ独奏が入るため、一種のピアノ協奏曲風な雰囲気もあり、ヨーロッパのクラシック音楽とアメリカのジャズを融合させたアメリカ的な芸術音楽の代表とみなされ、高い評価を受けています。実際この曲が流れると「あぁ、アメリカだなぁ」と僕などは感じてしまいます。
この2月12日のコンサートはそもそもホワイトマンが会場を借り切り、「第1回アメリかのジャズ・コンサート」と銘打って行われました。会場のエオリアン・ホールはクラシックの殿堂であり、この10日前にはクーセヴィッキーが指揮するボストン交響楽団がストラヴィンスキーの『春の祭典』を初演し、4日前にはストコフスキー指揮のフィラデルフィア交響楽団が、やはりストラヴィンスキーの『吹奏楽器のための交響曲』を初演しています。ロシア生まれの最新鋭の作曲家の生み出したこれらの不思議な音楽に対し、ニュー・ヨークの楽壇は新しい音楽に対する議論で沸き立っていたそうです。そこへ「アメリカにはジャズがあるじゃないか」とばかりに、「ラプソディ・イン・ブルー」が初演されたのです。ロシア生まれのクラシック界の前衛芸術に対抗する音楽がアメリカでも生まれつつあることに、批評家、音楽家はいたく感動し、喜んだと伝えられています。ここにガーシュインとホワイトマンの名声は完成されたと言えるでしょう。

ポール・ホワイトマン

ポール・ホワイトマン

2020年を過ぎた今日ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman:1890〜1967)のレコードやCD等は全く見かけませんが、実は僕がジャズを聴き始めた50年までもほとんど見かけることはありませんでした。名前はレコード表や本などによく登場するのですが、大体の記述が「彼は偽物であり聴く必要なし」的な扱いだったように思います。彼の詳しい経歴はポール・ホワイトマン・プロフィールに譲るとして、彼の日本における評価の低さは1930年ミュージカル映画「キング・オブ・ジャズ(The king of jazz)」に主演してから、自らか他の人々からかは分かりませんが「キング・オブ・ジャズ」と呼ばれたことに起因するのではないでしょうか?彼の音楽は確かにジャズのド真ん中というわけではないのは確かで、それにも係わらず「キング・オブ・ジャズ」とは片腹痛いは!ということなのでしょう。
ホワイトマンの評価が難しいというのは、何も日本に限ったことではないらしく、かのガンサー・シュラー氏も1ページを割いて彼の存在について論じている。シュラー氏の要旨は、 「ホワイトマンについては依然として彼を認めない者認める者の間に論争が尽きない。純粋に音楽という点から見ると、彼のバンドは達人的な演奏者で溢れ、優秀な編曲者たちが揃っていた。達人たちの技量を極限までに発揮させる要求の多い譜面が演奏された。彼らの最良の演奏には独特で個性的な響きが存在している。彼らはダンスのためだけではなく。明らかに聴くための音楽も作り出そうとしていた。ただその発想がジャズ的ではなかっただけである。」
もう一人ブライアン・プリーストリー氏は、「今日でもO.D.J.B.やN.O.R.K.のレパートリーを演奏するミュージシャン入るが、ホワイトマン楽団の派手な仰々しさを再現しようとする人はいない。このことがホワイトマンという人物のすべてを物語っている。しかし当時は一般の大衆、多くの白人ミュージシャンは彼を信じ、黒人ミュージシャンの中にも彼を尊敬するものが多かった。それは一糸乱れぬ正確な演奏とその音楽性に惹かれたのである」と述べています。
ポール・ホワイトマンは大変な金満家で、気に入ったミュージシャンを引き抜くとき小切手帳を渡し「欲しいだけ金額を書き込みな」と言ったといいます。こういう太っ腹なバンドのリーダーというのは必要で、ビックス・バイダーベックやフランク・トランバウアーなど一流のミュージシャンを経済的な面で支えたことは重要なことだと思います。因みに僕が持っているホワイトマンのレコードは1927〜35年に録音された8曲のみです。いずれにしろ彼の代表作だけでもCDの発売されることを望みます。

フレッド・ウォーリングズ・ペンシルヴァニアンズ

僕の持っているこの時代のポップスのレコードは「フレッド・ウォーリングズ・ペンシルヴァニアンズ」(Fred Waring's Pennsylvanians)のレコードです。 このバンドは1923年後半から1932年まででヴィクターで最も売れたアーティストと言われ、1924年度のトップ10アーティストの3位にランクされています。因みに1位はポール・ホワイトマン、2位はアイシャム・ジョーンズでした。詳しくは「フレッド・ウォーリングズ・ペンシルヴァニアンズ 1924年」をご覧ください。こういったポップス・バンドの色合いなども取り入れながら、ジャズは<スイング・ジャズ>へと向かっていったのだと思います。

1924年のジャズ

1924年のルイ

いよいよ本題1924年のジャズです。かつてマイルス・デイヴィスは「ジャズの歴史?それは簡単だ。4つの言葉で全て言える。[Louis] [Armstrong]そして[Charlie][Parker]だ」と述べています。ジャズ史最大のイノヴェイター、ルイ・アームストロングは1923年ジョー・キング・オリヴァーのバンドでデビューし、この年オリヴァーのバンドを辞し、ニュー・ヨーク進出を行います。イノヴェイションの開始です。つまりここからしばらくはルイの動きを追い、その変革についてみていくことがジャズの歴史を振り返ることの中心となるでしょう。
しかしその前に、この年で取り上げるべき重要な録音は、ルイ・アームストロングを筆頭にベッシー・スミス、ジェリー・ロール・モートン、キング・オリヴァー。そして初登場となるフレディ・ケパード、デューク・エリントン、さらにはビックス・バイダーベックと重要人物目白押しです。誰から取り上げましょうか?色々考えて先ずはレディ・ファースト、ベッシーから登場していただくことにしましょう。

ベッシー・スミス 1924年

ベッシー・スミスはこの年も27曲という数多くのレコーディングを行っています。CD解説によるとベッシーは昨年の「ダウン・ハーテッド・ブルース」の大ヒットによって、1面辺りの吹込み料が125ドルから200ドルに大きくアップします。当時パラマウントに吹込みを行っていたアルバータ・ハンターは「自分は35ドルしかもらえなかった」と言っているそうです。ベッシーのギャラが高額さが分かります。
ベッシーの録音は初めはジミー・ジョーンズ(P)など前年度と同じメンバーで行われますが、注目は4月の録音でそこにはヴァイオリン奏者、ロバート・ロビンズが加わっています。僕などはヴァイオリンが加わると都会的で洗練されたイメージがあるのですが、ガンサー・シュラー氏によれば、それは全く逆で埃にまみれた土臭い香りがし、ベッシーにはなじみの深いものだったろうと述べています。ヴァイオリンという楽器がアメリカのカントリーでどのように使用されてきたのか実に興味深い話です。
ベッシーの録音はさらにヘンダーソン・バンドとの接点を広めていきます。ヘンダーソン、レッドマンに加え、トロンボーンのチャーリー・グリーン、トランペットのジョー・スミスも参加しています。粟村氏はベッシーとの録音はまさに不滅の名作であると述べています。詳しくは「ベッシー・スミス1924年」をご覧ください。

ジェリー・ロール・モートン

ジェリー・ロール・モートン 1924年

この年の具体的な活動はよく分かりませんが、レコーディングに関してみると4月に行われた2つのセッションがこの年最初の活動ということになります。ただそれはモートンの数ある録音の中でも異色のものと言えるものでした。パラマウント・レコード(Paramount Records)に吹き込んだ計4面分で、ジャンルとしては「ジャグ」(Jug)に当たるものです。
ジャグ・バンドは最近はあまり見かけなくなりましたが、僕が若いころ、具体的には45年くらい前にはフォーク・フェスのような催しがあると必ずと言っていいほど一組くらいジャグ・バンドが登場したものでした。ジャグ(ビン)、ウォッシュボード(洗濯板)、ウォッシュタブ・ベース(洗濯桶とモップから作ったベース)、スプーンという身の回りのものを楽器として用い、日本の場合大概ワーク・シャツを着て、ブルージーンのオーヴァーオールを履いていました。それはともかく本国アメリカにおいてはマウンテン・ミュージックの一種とは思うのですが、「僕の作ったジャズ・ヒストリー8初期のジャズ1」で触れたヒルビリーなどカントリー・ミュージックとの関連がよく分かりませんが、『アメリカ音楽史』の著者大和田氏も「ジャグ・ミュージック」については触れていません。調べた限りを以下記します。
ジャグ・ミュージックは1900年頃にケンタッキー州で生まれたといわれています。そして1924年9月ルイヴィル出身のシンガー、サラ・マーティンによるレコーディングが初のジャグ・バンドのレコーディングと言う記述と1924年クリフォード・ヘイズ率いる「ディキシー・ジャグ・ブロアーズ」が最初のジャグ・レコーディングという2種類の記述があります。このモートンのレコードがジャグ・ミュージックとすれば、サラ・マーティンやクリフォード・ヘイズよりも早い時期にレコーディングされた最初のジャグ・ミュージックになると思われます。しかし「ジャグ・ミュージック」と「ジャズ」との関連はアメリカでは珍しくないようで、後にはジョニー・ドッズなどもジャグ・バンドの録音に参加しています。モートンが自ら進んでジャグ・ミュージックに取り組んだのか求められたのかは分かりませんが、この時以降ジャグとの共演はないようです。詳しくは「ジャグ・バンド 1924年」をご覧ください。
また6月にはジネットに10面分のピアノ・ソロを録音します。この録音はラグタイム風あり、ブギー・ウギー調ありでヴァリエーション豊かなピアノ演奏を行っています。
そして9月にはガンサー・シュラー氏が「以上にひどい」と形容したバンドの録音があります。これは確かに酷い演奏です。12月にキング・オリヴァーとの歴史的になるはずの録音を行いますが、結果は期待に反するものでした。詳しくは「ジェリー・ロール・モートン1924年」をご覧ください。

ジョー・キング・オリヴァー

ルイ・アームストロングの師匠格であるオリヴァーにとってこの年は、受難の年だったようです。ルイが退団した正確な日時は分かりませんが愛弟子が去り、ピアニストのリルも退団し、同じくニュー・オリンズからシカゴに来ていたクラリネットの名手、ジョニー・ドッズも退団します。ルイに代わってニュー・オリンズからトミー・ラドニアを呼び寄せますが、彼もすぐに退団してしまいます。そして活動の拠点ジャズ・クラブの「リンカーン・ガーデン」が焼失してしまうのです。こうして“Creole jazz band”は解散に追い込まれてしまうのです。
こういった事情からこの年彼のバンドによる録音はなく、コルネット奏者として参加した2セッションが記録されるのみです。一つは夫婦漫才ならぬ夫婦ヴォードヴィル・コンビの歌伴ですが、もう一つはジャズ史上の巨人ジェリー・ロール・モートンとのデュオという注目のセッションです。1924年のオリヴァーの録音については「ジョー・キング・オリヴァー1924年」をご覧ください。

フレディ・ケパード

フレディ・ケパード

ケパードはニュー・オリンズ生まれのクレオールで、ニュー・オリンズでは名門「オリンピア・オーケストラ」というブラス・バンドのリーダーを務めていました。彼が当時ロスアンゼルスにいたビル・ジョンソン(Bill Johnson:1872〜1972)の招聘に応じ、ジョンソンの「ジ・オリジナル・クレオール・オーケストラ(The Original Creole Orchestra)」に参加します。そのケパードが辞した後に「オリンピア・オーケストラ」のリーダーとなり、ビル・ジョンソンの「ジ・オリジナル・クレオール・オーケストラ」でもケパードの辞した後に入ったのがキング・オリヴァーでした。要はオリヴァーはケパードの後、後を付いて行ったことになります。2代目ジャズ王がケパード、3代目がオリヴァーと言われるゆえんでもあります。そういう意味でケパードから紹介できれば良かったのですが、持っているレコードの都合で後になりました。
さてケパードのレコードはリーダー・アルバムではなくドク・クックのバンドに参加してのものです。このバンドにはジミー・ヌーンも在団していましたので、ジミー・ヌーンと被ります。そしてどうしてもオリヴァーと比較してしまいます。詳しくは「フレディ・ケパード 1924年」をご覧いただきたいですが、この年の録音に限って比較を一言で言いますとオリヴァーの頼りなさに比べれば、ケパードはミュート・プレイの巧みさ意外特に感心するところはありませんがバンド内においてしっかりと存在感を出しています。

フレッチャー・ヘンダーソンとルイ・アームストロング

ドイツのジャズ評論家ヨアヒム・ベーレント氏はその著『ジャズ』において「ルイ・アームストロングは1924年フレッチャー・ヘンダーソンのビッグ・バンドに加わり、それまでコマーシャルで平凡だったバンドに大きな刺激を与えた。1924年こそ本当のビッグ・バンド・ジャズが生まれた年であるとさえ言える」と述べ、ガンサー・シュラー氏はその著『初期のジャズ』において、「そもそもルイの加入する前のヘンダーソン楽団とルイの加入してからのヘンダーソン楽団は天と地ほどの違いがある」と書いています。
ルイ・アームストロングが、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に呼ばれてニュー・ヨークに進出し初レコーディングを行うのは10月7日です。実はヘンダーソン楽団はこの年ルイ加入前に相当数のレコーディングを行っています。その中で僕が持っているのは1曲だけですが、まずそちらを聴いてみましょう。

1924年ルイ加入前のヘンダーソン楽団

ヘンダーソンは実は別のトランペット奏者ジョー・スミスの方が気に入っていて、サッチモは2番目の選択肢でした。ジョー・スミスはそれまで何回かヘンダーソン・バンドの録音に参加していましたが、常任メンバーとしての入団を断られたのだそうです。しかし楽団員たちはルイ・アームストロングの方を希望し、ヘンダーソンにルイの加入を要請していました。つまりスミスの固辞と団員の養成で、ルイのヘンダーソン楽団入りが決定したのです。
ではヘンダーソン自身はルイを全く買っていなかったかというとそうではなく、ヘンダーソン自身エセル・ウォーターズの公演に同行した際に、ニュー・オリンズで若きルイ・アームストロングの演奏を聴いた1921年の日のことを覚えていました。そして当時のアームストロングに感銘し、ニューヨークに連れてこようとしたという伝説も残っているといいます。つまりヘンダーソンにとっては、ジョーかルイかの2者択一ならジョーということだったのでしょう。
ヘンダーソンにそこまで気に入られていたジョー・スミスとはどんなプレイヤーだったのでしょう。評論家粟村政昭氏は、「ビックス(・ベイダーベック)のエッセンスをそのまま黒人流に消化したようなデリケートでソウルフルな彼のプレイは、スイング時代の初期に咲いた白い一輪の日陰の花であった」と珍しくベタ褒めしています。ジョー・スミスは、ヘンダーソンがプロデュースしていたベッシー・スミスなどの録音ではヘンダーソンたちと共演しています(「ベッシー・スミス 1924年」)。さらに1925年以降はヘンダーソン楽団に入団し、ルイが去った後もヘンダーソン楽団でプレイしますが、35歳という若さで肺結核で亡くなります。

ルイ・アームストロング

1924年ルイ加入前のヘンダーソン楽団

写真左はルイの加入したヘンダーソン楽団。左から3人目がルイ。この年ルイは10月7日ヘンダーソン楽団に加わっての録音まで吹込みはありません。ルイの吹込みについては、ヘンダーソン楽団肉わった吹込み6曲について取り上げていますが(ヘンダーソンと被る)、他に10曲以上の吹込みがあり、また他にマ・レイニーなどのブルース・シンガーの伴奏そしてクラレンス・ウィリアムズが主宰するブルー・ファイヴやザ・レッド・オニオン・ジャズ・ベイビーズに加わったものなど多数存在します。その内12月22日ザ・レッド・オニオン・ジャズ・ベイビーズに加わってジョセフィン・ビーティ(アルバータ・ハンターの変名)とクラレンス・トッドのバックを務めた吹込みは重要です。何故重要かと言いますと、元々クラレンス・ウィリアムズのブルー・ファイヴで初録音を行い一時バンドを離れていたシドニー・ベシエがこの録音には復帰して、ルイと火花を散らすインター・プレイを演じているのです。ここでの2人のプレイは、コルネットがリードを取ればクラリネットがオブリ―ガードを付け、クラリネットがソロを取ればコルネットがオブリガードを付けるといったニュー・オリンズ伝統の相互補完の精神を吹き飛ばす、双方主役は譲らないぞといった凄まじいプレイを展開するのです。これらルイ・アームストロングの録音詳細については、「ルイ・アームストロング 1924年」をご覧ください。

キング・オリヴァー、フレディ・ケパードそしてルイ・アームストロング

ニュー・オリンズのブラス・バンドを起源とするジャズのこの時代のヒーローはやはりトランペットというかコルネット奏者たちでした。さらにその中でも2代目ジャズ王のケパード、オリヴァーなどは傑出した存在だったのでしょう。そして革命児ルイが登場してくることになります。
3人のプレイを聴き比べると、あくまで1924年の録音ですが、ハッキリ言ってオリヴァーには頼りなさしか感じられません。ケパードについても存在感は示してますが、”King of Jazz”にふさわしいかというとそれほどでもないのでは…というのが正直な感想です。そしてすごい、将来命を懸けるものも現れるほどのジャズにおけるアドリブの最初の姿を提示していることが解ります。しかしルイのソロイストとしての才能の開花は1924年ヘンダーソン楽団時代に始まったと言われます。ここからルイの時代が本格的に幕明けることになるのです。

ビックス・バイダーベック登場

ビックス・バイダーベック

ここにもう一人コルネットの巨人が登場します。ビックス・バイダーベックです。ビックスについて語られるお決まりの形容句は、「サッチモに支配されていたジャズ・トランペットの世界に初めてサッチモ以外の吹き方があることを示した偉大なトランぺッター」ということですが、この形容句は疑問符が付きます。というのはビックスはこれから見るように1924年にはレコード・デビューしていますが、ルイはその才能を開花させつつある時代であり、まだジャズ・トランペットの世界を支配しているとは言えない状況だったと思うからです。
ビックス・バイダーベックというのは、日本で少し前に使われた表現でいえば、当時ジャズ界の「新人類」だったのではないでしょうか?彼はO.D.J.B.のコルネット奏者ニック・ラロッカに憧れてコルネットを始めますが、ラロッカでさえニュー・オリンズの黒人たちのパレードやクラブなど黒人の演奏を聴いた学んだのですが、ビックスの基礎は兄が買った蓄音機ヴィクトローラに合わせて吹くことで学んでいったと言われます。
彼は修業時代エメット・ハーディ(Emmett Hardy:1903〜1925)という白人コルネット奏者に手ほどきを受けたというのです。このハーディとの逸話は油井正一氏が『ジャズの歴史』に美しく悲しい物語として詳しく書かれています。ただこのハーディという人物は、ルイ・アームストロングを吹き負かした名手としても語られますが、録音を残しておらずシュラー氏流に言えば「証拠がない」ということになるでしょうし、プリーストリー氏流に言えば「ジャズ・レコードの歴史とジャズの歴史は異なる」ということになるのでしょう。吹き負かされたと言われたルイ・アームストロングは「ハーディという人物は全く知りません。私がその頃共演した唯一の白人はビックスです。1924年のことでした」と述べているそうです。ルイがエメットと競演したかどうかはともかく、1924年ビックスと共演したというのは凄い証言です。
それとこのビックスという人間に興味を持つのは、油井氏の次の解説です。「ビックスはシカゴでアームストロングにしびれ、キング・オリヴァーに感動し、ベッシー・スミスのブルースにはほとんど狂的な反応を示した。彼は1週間分の小遣いを全部ベッシーにチップとして渡した」というのです。これはいつのことなのか書いていませんが、ビックスがシカゴのサウス・サイドに毎週末現れるようになるのは、1921年9月にレイクフォレストの士官学校に入学して以後のことである。彼は黒人たちの音楽に熱狂的に傾倒しますが、フレーズや音色ヴィブラートなどは一切真似ませんでした。恐るべきオリジナリティーです。彼が作り出した「白人のジャズ」は、後に多くのフォロワーを生むことになります。その彼は1924年21歳で、ウォルヴァリン・オーケストラのスター・プレイヤーとして初吹込みを行います。「ビックス・バイダーベック 1924年」をご覧ください。

デューク・エリントン登場

デューク・エリントン

またまた超大物の登場である。あの口の悪いマイルス・ディヴィスに、「我々は、日に3度はデュークに跪かなければならない」と言わしめたほどのジャズ界の重鎮である。
『デューク・エリントン』の著者柴田浩一氏は冒頭で、「エリントンは、音楽家として、人間として成功を収めた人生だったが、その元は彼の生い立ちにあるといっていい。一方の巨人ルイ・アームストロングは一般的な不遇な少年期を過ごしたのに対し、エリントンは裕福な家庭で両親に愛され自分が思うがままの環境の中で育った少年だった」と述べています。
デュークは6歳のころからピアノ教師について本格的にピアノを習い始めますが、当時は遊び盛りの少年で野球などのスポーツに夢中でピアノのレッスンは苦痛だったといいます。後に猛烈にピアノを弾きたくなり練習を再開しますが、この時点では特別な才能を見出すことはできなかったといいます。
またデュークは1914年ハイスクール時代絵を描くことが好きになり、先生が認めるほどの才能を発揮することになります。そしてポスター・デザインのコンクールに入賞するほどの画才の持ち主でしたが、音楽に対する興味はそれを上回り、結局学校を中退して音楽の世界に入ることになります。
エリントンはいくつかのバンドで演奏した後、1918年「ザ・デューク・セレネーダーズ」というバンドを結成します。そして翌1919年ニュー・ヨークから仕事に来ていたドラマーのソニー・グリアーを加え、1921年にはエルマー・スノウデンが加わり実質的なリーダーとなり、バンド名を「ザ・ワシントニアンズ」と改称します。ワシントンでの仕事は順調でしたが、もっと刺激が欲しくなり、オットー・ハードウィック、アーサー・ウェツェルと共にニュー・ヨークに出ますが、これは大失敗でバンドは解散、食うや食わずのほうほうの体で舞い戻ります。そこで知り合ったファッツ・ウォーラーからの申し出を受け再度ニューヨークに出るのです。ニューヨークに出て順調に仕事が見つかったわけではなく窮地に陥ったこともありましたが周囲の人々に助けられ、少しずつクラブやキャバレーなどでの仕事が入るようになっていきます。
そして1924年11月デュークの初録音が行われますが、それはバンドではなくそのピアノの腕を買われたものでした。当時人気のあった女性ブルース・シンガー、アルバータ・ハンターの伴奏です。ハンターはこの録音では、アルバータ・プライムという名前で録音を行っています。ハンターはこの年クラレンス・ウィリアムズが主宰するザ・レッド・オニオン・ジャズ・ベイビーズをバックにレコーディングも行っていますが、そこにはルイ・アームストロングが加わっていました。この年ハンターは、デュークとルイをバックに従えた録音を行ったことになります。
そしてついにバンド、当時はザ・ワシントニアンズの録音も同じ11月に行われ、巨艦エリントン号が長い、長い航海に船出していくことになります。詳しくは「デューク・エリントン 1924年」をご覧ください。

いよいよジャズらしくなってきました。

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