セロニアス・モンク 1941年

Thelonious Monk 1941

1917年生まれのセロニアス・モンクはこの年23〜24歳に当たる。これまでの軌跡については本篇の「ミュージシャンの自伝・評伝が語る」シリーズを見ていただきたいが、特に1940年のモンクについては、「特段記すべき事項無し。1940年モンクには仕事がなかった。」と記載した。しかし1941年モンクは「ミントンズ・プレイハウス」のハウス・ピアニストとして雇われるのである。ではまずその「ミントンズ・プレイハウス」について触れておこう。

<ミントンズ・プレイハウスについて>

ミントンズの前で−モンク〜ハワード・マギー〜ロイ・エルドリッジ〜テディ・ヒル(左から右) ニューヨークのパークアヴェニューを北に突き切るとそこが有名な110丁目、さらにそのまま上がった118丁目を左に曲がった左側に「ホテル・セシル」があった。ホテルの玄関を入ると右がロビー、左がバーになっていて、「ミントンズ・プレイハウス」はそのロビーの行き止まったところにあったという。同店は60年代に衰退し1974年閉店した。30年以上シャッターが閉じられたままだったが、2006年5月29日「ミントンズ・プレイハウス・アップタウン・ラウンジ」の名前で装いも新たに再開したが、2010年に再び閉鎖されたという。2015年4月現在も閉鎖中のようだ。
「ミントンズ・プレイハウス」もオーナーはヘンリー・ミントンといい、現在ネット調べても、「ミントンズ・プレイハウス」を開設した人くらいの情報しか見当たらないが、かつては黒人として初めて「アメリカン・ミュージシャンズ・ユニオン・ニューヨーク支部」(Local 802)の代表に選ばれた人物で、サキソフォン奏者だったという。彼は1938年、前記ホテル・セシルの一部であったみすぼらしいダイニング・ルームを手に入れ、1940年秋(10月と言われる)に古い友人たちのための一種の溜り場のようなクラブに改装した。クラブの名はオーナーの名を取り、「ミントンズ・プレイハウス」と呼ばれ、テナー・サックス奏者のハッピー・コールドウエルをリーダーとする小バンドが、ハウス・バンドとして穏やかな音楽を提供していたという。ロス・ラッセル著『バードは生きている』によると、この場所はホテルの食堂として機能していたが、音楽に関してはまったく無方針だったという。店は寂れる一方で、とうとうミントンは新しいマネージャーを雇わなくてはならなくなったのだという。そして白羽の矢を立てたのが生真面目な顔をした信頼のおける人物テディ・ヒルだったという。という経緯でテディ・ヒルがマネージャーとなり、かつてのサイドマンであったケニー・クラークをハウス・バンドのリーダーに据えたころから、クラブの体質はガラッと変わり始めたという。
キー・マンの一人はテディ・ヒルである。ディジー・ガレスピーが初レコーディング及び初ソロ・レコーディングを行ったのは、このテディ・ヒルのバンドにおいてであった。ヒルは前にも触れたように30年代後半、ロイ・エルドリッジ、チュー・ベリー、フランキー・ニュートン、ディジー・ガレスピー、ディッキー・ウエルズと云った腕利きを傘下に収めた一流バンドのリーダーであったが、1940年ワールド・フェアへの出演料を巡ってブッキング・オフィスとトラブルを起こし、やむなくバンドを解散せざるを得なくなり、ミントンズに身を寄せたのだという。ロス・ラッセル著『バードは生きている』によるとテディ・ヒルという人物は結局何をしても大した成功を収めるには至らなかったが、芸能界には顔が広く知恵も働く人物だったという。ヒルはミントンに向かってこういった。「お抱えバンドを入れて、ジャム・セッション歓迎ってことにしたらいいじゃありませんか。それから月曜の夜、アポロのステージ・ショウに出ている芸人たちに食事をおごるんですよ。劇場の掲示板に張り紙して、出演者は皆招待するんです」と。月曜の夜と言えば芸能界の日曜日だ。芸能人はヒマなのだった。
このヒルの提案するミントンズの「セレブリティ・ナイト」は間もなく全米の芸能人に知れ渡った。そしてミントンズのビュッフェ・スタイルの食事には黒人芸能人たちが子供のころ親しみ、巡業に出たら滅多に味わうことが出来なくなるあらゆる種類の食事が取り揃えられた。本物のクレオール料理などであった。つまりソウル・フードの専門店を開いたようなものだったという。40年代初頭、この店は月曜の夜に訪れるべき場所に変わっていた。そしてラッセルはこういう。「ヒルは、かつて一緒に仕事をしたオリヴァーやサッチモらが演奏する20年代のジャズはもう古くなり、スイングもすでに袋小路に入り込んでいるということを知っていた。また新しい考え方、新しい声、そして自分の楽器を知り尽くし、そこから自在な音を引き出してくる若い世代が台頭しつつあることもしっていた。そしてそのような新しいプレイヤーたちを有名なスターたちと同時にミントンズに集めたいと考えた」と。もしそうなら、ヒルはジャズの真っただ中にいながら、後から歴史を振り返るように的確にジャズに何が起こりつつあるかを捉えていたことになる。物凄い冷静さ、洞察力である。
ケニー・クラーク ホンマかいな?とも思うが、実際にヒルが打った手を見ると彼の状況分析力、企画力、実践力がズバ抜けていると思わざるを得ない。彼はカンサス・シティのクラブ経営に倣い、店にリズム・セクションと管1本だけを抱え、ジャム・セッションの場として開放したのである。
そしてそのリズム・セクションと管1本というハウス・バンドのリーダーには、なんと1年足らず前に「テンポを崩し過ぎる」という理由で自己のバンドをクビにしたドラムのケニー・クラークを呼んだのであった。ヒルがクラークを呼んだ真意は測りがたいと粟村氏も書くが、一番ビックリしたのは、当のクラーク自身だったようだ。クラークは後にこう語っている。「連絡を受けて、私は少々驚いた。しばらくヒルと話し合って、私は彼の狙いを理解した」と。
クラーク以外のメンバーは、ピアノにセロニアス・モンク、ベースにニック・フェントン、管1本はトランペットのジョー・ガイであった。粟村氏によれば当時フェントンはレスター・ヤングのコンボのレギュラー・メンバーであった可能性が高く、毎夜10時のファースト・ステージに欠かさず顔を連ねていたかどうかは疑問であり、モンクも9時に顔を出して10時にはいなくなるというマイペース人間だったこともあり、ケニー・クラーク・カルテットはハウス・バンドと言いながら、実際には流動性のある編成であったのだろうとしている。
マネージャーとしてのヒルは、クラブで演奏される音楽の内容については一切口出ししなかった。これがミントンズにおけるアフター・アワーのジャム・セッションの隆盛を招き、引いてはビ・バップの発生につながる実験的な場を、数多の新人たちに提供することになったのであったと、粟村氏は書いている。
ただ粟村氏の記述とロス・ラッセル『バードは生きている』の記述は若干ニュアンスが異なる。
粟村氏によれば一連のジャム・セッションには新旧取り混ぜて様々なタイプのミュージシャンが参加した。その中には当時すでに確たる名声を維持しているプレイヤーもいたとしてドン・バイアス、アール・ハインズ、レスター・ヤング、チャーリー・クリスチャンたちがおり、キング・オブ・スイングのベニー・グッドマンも時折姿を見せ絶大な敬意を持って迎えられたと書いてある。そして少し遅れてガレスピー、バード、バド・パウエル、タッド・ダメロン、オスカー・ペティフォードらも姿を現すようになったと書いている。そして次第にここでのジャム・セッションは従来のスイング・ジャズの表現に飽き足らぬ人々にとって、またとない実験と研鑽の場に変容していったという。
ミントンズの前で−モンク〜ハワード・マギー〜ロイ・エルドリッジ〜テディ・ヒル(左から右) 対してラッセルは「ミントンズはジャズの他流試合の一騎打ちの場として出発し、ついには泥まみれの戦場と化していった」と書いてある。41年春のセッションでは旧世代の一流オーケストラで無敵を誇った、サキソフォンではコールマン・ホーキンス、ベン・ウエブスターの他ジョニー・ホッジス、ベニー・カーター、ウィリー・スミスの三大アルト、トランペットではクーティー・ウィリアムス、ハリー・ジェイムス、ロイ・エルドリッジなどピアノではテディ・ウィルソン、ジェス・ステイシーが参戦した。そして一流バンドのリーダーたちデューク・エリントン、アンディ・カーク、カウント・ベイシー、アーティー・ショウらも腕を競い合ったと書いている。クラリネットのショウが参加したのも意外だが、僕が最も意外なのはエリントンである。いったいどんな感じだったのであろうか?またそこではBGも単なるプレイヤーとして勝負をしなくてはならない存在で敬意を払われたとは書いていない。
もちろん実際はどうであったかなど僕に知る由もないが、友好的な温和なセッションが行われた晩もあれば、負ければ楽器をしまい尻尾を巻いて帰らなくてはない戦場と化した晩もあったのだろう。
しかしともかくこのような熱い坩堝の中で1941年〜44年にかけてスイングは新しいジャズのスタイル、ビ・バップへと変わっていったのであるとラッセル氏は書いている。
このミントンズがどんな雰囲気でどんなふうだったかは、実際にミントンズにデビューした人間に聴いてみるのが良いだろう。誰かって?マイルス・ディヴィスである。彼は自叙伝の中でかなり詳しくミントンズについて触れている。と云ってもマイルスがニューヨークに出てきたのは1944年9月のことだからミントンズも黎明期ではなく大分ミントンズ・スタイルが定着していたのだろうが。
マイルスは言う。「ミントンズもホテル・セシルもどちらも特徴のある一流の場所だった。ここに来ていたのはハーレム黒人社会の中心人物たちだった。みんなヒップでカッコ良かった。俺に言わせればミントンズこそあの時代のミュージシャンの夢だった。今頃は「ザ・ストリート」(52丁目)が夢だったなんて言う奴がいるが、それは間違いだ。ミントンズで本気で腕試しをしてそれから52丁目に行ったものなんだ。ミントンズの試練に比べたら、52丁目の演奏なんて軽いものだった。ミュージシャン仲間で評判をとるにはミントンズに行かなきゃならなかった。たくさんの若いミュージシャンがあそこで多くを学び、育って行った」と。続けて「ミントンズではダメな連中が入ってこないようにみんなすごい演奏をしていた。並みの演奏しかできないやつは皆に無視されたり、ブーイングを浴び恥をかくだけだった。それだけで済まないこともあった。ダメなやつは、本当に蹴飛ばされたりもした。あそこでは凄い演奏をするか、静かに聴くかのどちらかで、中間はあり得なかった」
ところでここミントンズで、モンクは初めてその演奏を録音されるのである。といってもモンクを狙って録音がなされたわけではない。ジェリー・ニューマンという当時コロンビア大学に通う学生が夜ごと行われる演奏を非正規に録音していた中にモンクが加わった演奏もあったということである。このジェリー・ニューマンが行った録音の中で、最も有名なものはジャム・セッションにおけるチャーリー・クリスチャンの演奏であろうが、そこにもモンクは加わっている。ジェリー・ニューマンと彼が行った録音について詳しくは、ジェリー・ニューマン(Jerry Newman)を参照ください。
1941年ジェリー・ニューマンが記録したモンクの演奏は、ニューマン自身が残したメモにより、日付の分かっているものと分からないものがある。まずは最も有名なチャーリー・クリスチャンが参加したものから始めよう。

「チャーリー・クリスチャン/アット・ミントンズ」レコード・ジャケット 粟村政昭氏はその著『モダン・ジャズの歴史』の中でこう語っている。
「ビ・バップは、ミントンズ・プレイハウスを中心とするアフター・アワーのジャム・セッションの中から生まれた」。そしてその「ミントンズ・プレイハウス(以下ミントンズと略)におけるアフター・アワーのジャム・セッション」をヴィヴィットに捉えた数少ない音源の記録が収録されているのである。
また粟村氏はその著『ジャズ・レコード・ブック』の中でこうも語っている。
ジャズ史上最大のギタリスト、チャーリー・クリスチャンの偉大さについては余りにもしばしば語られているが、もしもジェリー・ニューマン(Jerry Newman)氏によって録音された「ミントン・ハウスのクリスチャン」(本盤)という貴重なLPが世に出なかったとしたら、今日彼の評価はどうなっていただろうか。彼がジャズ・ギター史上の巨人であったことを否定する人はいなくても、モダン・ジャズのパイオニアとしての彼の名は伝説の中にのみ留まることになったに違いない。あくまでもシンプルなプレイに終始しながら、疑うことなくモダンの香りを一杯にたたえたこれら一連の演奏を聴くとき、ギターという楽器を初めてソロ楽器として全面的に採り上げたばかりでなく、一歩進んでジャズ界全体をリードするに至ったクリスチャンの偉業に改めて敬意を表さずにはいられない。
しかもこれらの演奏を通じて、ある意味でソロの内容以上に注目されて良いと思えるのは、クリスチャン〜モンク〜フェントン〜クラークの4人からなるリズム・セクションが、ユニットとして演じて見せた新しいリズム・セクションの在り方である。ベースがステディな4ビートをキープすることによって、ドラムは従来の四分の4拍子の足かせを解かれ、一方ギターは完全な自由の下に、ソロとリズムの両面に渡って最も理想的な形で演奏全体をリードしているという点であった。このミントンズにおけるジェリー・ニューマン氏の録音は、クリスチャンの最もモダンな演奏を記録すると同時に、今一人の巨人ケニー・クラークの極めて興味深い初期のドラミングをも紹介している。1914年生まれのクラークは、この録音が行われた当時、クリスチャンに2歳先立つ青年であったが、クリスチャンの場合とは対照的にこの時のプレイが、モダン・ドラマーとしての彼を評価するべきおそらくは最初の作品となった。
一方、クラークとともに夜毎ミントンズのステージに上がっていたモンクは、この当時より彼自身の手になる新しいコードの創作に専念しており、数年後にバッパーたちが盛んにやったような、既成のコードに新しいメロディーをつけるという仕事には、全くと言っていいほど関心がなかった。従って、従来のハーモニーに依存しないという一点において、彼はまさしく重要な方向を指し示していたにもかかわらず、バップがジャズの新しい語り口として完成された時、本質的にバッパーとは言えなかったモンクは、いともあっさりと時流の外に取り残されてしまった。50年代の後半に至ってようやくモンクは彼の業績に対する時ならぬ再認識ブームを享受することができたが、40年代の初めに特異であった彼の音楽概念が、40年代の後期においても依然として特異であったというところに、商業ベースから眺めた場合の、長い年月にわたる彼の不運があったものと言える。
もう一人ジョー・ガイは、かつてテディ・ヒルのバンドにおいて、ガレスピーと席を並べたこともある有能なトランぺッターで、モンクやクラークと共にミントンズのハウス・バンドの一員として、アフター・アワーのセッションには常に加わることのできる有利な立場にあった。しかも今でこそガイは、モダン初期に活躍した一寸腕の立つトランぺッターで、スタイルとしてはロイ・エルドリッジの亜流くらいの評価しか受けていないが、クリスチャンの在世当時には、トランぺッターとしての総合点において、明らかにガレスピーを抑える存在であった。なぜならその頃のガレスピーは、新しいハーモニーの習得に熱中するあまり、楽器を十分に鳴らすという能力については難点があり、しかもスタイル的にもジョー・ガイ同様未だロイ・エルドリッジの殻を背中にくっつけたようなフレージングで吹いていたからである。
しかしジョー・ガイはいち早く新しいジャズの息吹に触れはしたものの、結局はそれ以上の域には進むことが無く、いつしかビリー・ホリデイの夫君であったという事実によってのみ記憶されるような、ささやかな存在となってジャズ界から消えていった。
因みにベースのニック・フェントンについては油井正一氏によるレコード解説、粟村氏の著作などにおいても全く言及されていない。

「チャーリー・クリスチャン/アット・ミントンズ」A面

<Date&Place> … 1941年5月 ニューヨーク・「ミントンズ・プレイハウス」にてジェリー・ニューマンが録音

<Personnel> … ジャム・セッション(Jam session)

Trumpetジョー・ガイJoe Guy
Pianoセロニアス・モンクThelonious Monk
Guitarチャーリー・クリスチャンCharlie Christian
Bassニック・フェントンNick Fenton
Drumsケニー・クラークKenny Clarke
レコード解説の油井正一氏はA面の面子は上記であると書いておられるが、Web上では3曲とも面子、演奏日ともに異なるという。この辺りのデータは新資料の発見などで新しいものが正解のことがある。ともかく僕には判定できないので、油井正一氏のものを記載しておく。

<Contents> … 「チャーリー・クリスチャン・アット・ミントンズ」(Columbia SL-5001-EV)

A面1.スイング・トゥ・バップSwing to bop
A面2.サヴォイでストンプStompin' at the Savoy
A面3.アップ・オン・テディーズ・ヒルUp on the Teddy's hill
「スイング・トゥ・バップ」
LP中最も価値が高い演奏。録音は演奏の途中で始まり、途中で終わるのはディスク・レコーダーの機能の限界を示すものだが、音は良くないがSP盤の3分前後を前提とした演奏ではなく、9分近い演奏(途中であるが)を捉えている点で極めて貴重といえる。
もともと"Swing to bap"という曲があるわけではなく、後からニューマン氏が付けたと思われる。しかしニューマン氏に敬意を表してかカウント・ベイシー作の"Topsy"のコード進行に基づいていると書かれていることから、油井氏ははっきり“Topsy”そのものであると述べている。
まずクリスチャンのギター・ソロは非常に有名で貴重なものだが、それについてクリスチャンの項に譲るとして、肝心のモンクである。油井正一氏はモンクのソロをテディ・ウィルソンやクライド・ハート的だと評しているが、確かに後年の独特の<間>を活かしたプレイや不協和音オンパレードの演奏ではなく、普通のスイング時代のピアノ・ソロという感じである。バッキングも同様である。
「サヴォイでストンプ」
チック・ウエッブ、ベニー・グッドマンなどスイング時代のビッグ・バンドが得意としたスタンダードなジャンプ・ナンバー。ガイがメロディーを吹きクリスチャンがバックを受け持つ。続いてガイ、モンクのソロになるが、こちらも後年のモンクを予感させるものではない。やはりモダンなクリスチャンのソロが際立っている。クリスチャンの後もう一度Tpのソロになり、再びクリスチャンのソロの後Tpがリードする合奏で終わる。
A面3.「アップ・オン・テディーズ・ヒル」(Up on the Teddy's hill)
ミントンズのマネージャー、テディ・ヒル氏に因んだ曲名だが、油井氏によればこれも後からジェリー・ニューマンが勝手につけたものではないかと書いている。ハウス・バンドの4人にテナー・サックスともう一人のトランペットがアンサンブルに参加している。
クリスチャンのソロでスタートする。クリスチャンに続くTsソロは、油井氏はドン・バイアスだと思うが、ジョージ・ホーファー氏はカーミット・スコットだと言っているそうである。続いてアンサンブルをバックにしたTpソロから全員による合奏となり、急なフェイド・アウトで終了する。客席がエキサイトしている様子が伝わってくる。肝心のモンクはソロがないどころかバッキングでも音がほとんど聴こえない。

「チャーリー・クリスチャン/アット・ミントンズ」B面

<Date&Place> … 1941年5月6日 ニューヨーク・「クラーク・モンローズ・アップタウン・ハウス」にてジェリー・ニューマンが録音

<Personnel> … ジャム・セッション(Jam session)

Trumpetジョー・ガイJoe Guyホット・リップス・ペイジHot Lips Page
Tenor saxカーミット・スコットKermitt Scottドン・バイアスDon Byas
B-4. Pianoセロニアス・モンクThelonious Monk
Guitarチャーリー・クリスチャンCharlie Christian
B-4.Bass不明Unknown
B-4.Drums不明Unknown

<Contents> … 「チャーリー・クリスチャン・アット・ミントンズ」(Columbia SL-5001-EV)

B面4.ガイズ・ゴット・トゥ・ゴーGuy's got to go
B面5.リップス・フリップスLips flips

まず録音場所はミントンズではなくモンローズ・アップタウン・ハウスで行われたもの。このセッションの日付、パーソネルはレコードには記載がないが、Webには載っている。B-4.とB-5.ではメンバーが若干入れ替わる。ジャム・セッションではよくあることだ。因みにB面5曲目にはモンクは加わっていないので、B-5.「リップス・フリップス」については曲名(後でニューマン氏自身が付けたものだろうが)だけを記載しておく。

「ガイズ・ゴット・トゥ・ゴー」
クリスチャンのソロからスタートする。合奏のリフが入り短いTpソロが入り、唐突に終わる。こちらもモンクはソロがないどころかバッキングでも音がほとんど聴こえない。

僕の持っている他の音源は2つなので、音源ごとにまとめよう。

<Source … "Harlem Odyssey"(Xanadu 112)>

<Date&Place> … 1941年5月4日 ニューヨーク・「ミントンズ・プレイハウス」にてジェリー・ニューマンが録音

「Harlem Odyssey」レコード・ジャケット

<Personnel>

Trumpetジョー・ガイJoe Guy
Pianoセロニアス・モンクThelonious Monk
Bassニック・フェントンNick Fenton
Drumsケニー・クラークKenny Clarke

<Contents>

B面1.リズム・リフRhythm riff
B面2.ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イットNice work if you can get it
「リズム・リフ」
9分を越す録音で、音も意外に良いので貴重である。先ずはピアノ・トリオのイントロから入り、そのままモンクのソロとなる。このソロといい次のベースのソロのバッキングといい後年のモンクの影は感じられない。続くガイのトランペット・ソロとなる。ここでもモンクは大人しいが、単なるコンピングのみではなく、Tpに絡むようなプレイも聴かれる。続いて再びモンクのソロが入り、またブレークでベース・ソロなども入るが、リズム・キープだけで面白みに欠ける。フェントンのベース・ソロは4ビートを刻むだけで面白味が全くない。この時期天才ジミー・ブラントンがブイブイ言わせているんだから、頑張らないと!
「ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット」
『セロニアス・モンク‐独創のジャズ物語』の著者ロビン・ケリー氏によれば、この時期のモンクの最良かつ最長の演奏だという。録音日もケリー氏による。
ガーシュイン作の有名なナンバーで、弾いている様子から頻繁に演奏していたことが分かるという。モンクはこの曲を好み長年演奏し続けた。この曲では後に有名になる、演奏中の唸り声が聴こえる。 ヴォーカルを取っているのはガイか?モンクのソロもふんだんに聴ける。ここでは少しばかりモンクらしいプレイが聴ける。

「Harlem Odyssey」レコードB面

<Personnel>

上記B面1、2曲にTenor saxのアル・シアーズAl Searsが加わる。

<Contents>

B面3.ダウンDown
B面4.アイ・ファウンド・ア・ミリオン・ダラー・ベイビーI found a million dollar baby
「ダウン」
ちょっと変わった雰囲気の曲である。まずソロを取るのはシアーズ、続いてガイがソロを取る。モンクのソロはない。
「アイ・ファウンド・ア・ミリオン・ダラー・ベイビー」
テンポを落としたゆったりとしたナンバー。シアーズのテナーが太くていい音を出している。これもモンクのソロはない。

<Personnel>

Trumpetジョー・ガイJoe Guy
Pianoセロニアス・モンクThelonious Monk
Others不明Unknown

<Contents>

B面5.「ユーアー・ア・ラッキー・ガイ」(You're a lucky guy)

これはガイとモンクしかメンバーが分かっていないが、8分近い長尺のナンバー。前曲プレイと近い感じがするのでテナーはシアーズかとも思うのだが。クラリネットのソロも入るが誰が吹いているのだろうか?長い演奏だが面白みには欠ける。

[Afterhoursinharlem]レコード・ジャケット

<Source … "Hot Lips Page/After hours in Harlem"(Onyx 207)>

<Date&Place> … 1941年 ニューヨーク・「ミントンズ・プレイハウス」にてジェリー・ニューマンが録音

<Personnel>

Trumpetホット・リップス・ペイジHot Lips Page
Pianoセロニアス・モンクThelonious Monk
Others不明Unknown

<Contents>

B面1.「スイート・ジョージア・ブラウン」(Sweet Georgia Brown)
[Afterhoursinharlem]A面 イントロはピアノ・トリオでスタートする。次いでペイジが入りソロを繰り広げる。続いてTsソロとなるが、Tsは2人いて交替で吹いているようにも聴こえる。ここでのモンクも聴く限りでは常識的なプレイに終始しているように感じる。

<Personnel>

Trumpetジョー・ガイJoe Guyホット・リップス・ペイジHot Lips Page
Pianoセロニアス・モンクThelonious Monk
Others不明Unknown

<Contents>

B面3.「トプシー」(Topsy)
Tpソロから始まる。続いてTsが加わり、ブラス、ホーンがバトルのような激しい演奏を繰り広げる。ピアノのソロはなく音自体もあまり聴こえない

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