僕の作ったジャズ・ヒストリー 28 … スイング時代8 ビ・バップの萌芽 1943年

上陸する連合軍

第二次世界大戦

欧州、太平洋と2方面での戦闘が本格化していました。欧州では、北アフリカ戦線での連合軍の勝利が確定的となり、次の作戦目標をどこにするか決定するカサンブランカ会議が、1943年1月に、イギリス首相チャーチルとアメリカのルーズヴェルト大統領の間で行われます。協議の結果、イタリア・シチリア島への上陸作戦(写真右:上陸する連合軍)を行うことで一致します。

ガダルカナルへ上陸するアメリカ軍

翌2月の初めには、日本軍がガダルカナル撤退(写真右:ガダルカナルへ上陸するアメリカ軍)を開始、ドイツ軍はスターリングラードで敗北し後退を開始、戦局転換が明確になってきました。カサブランカ会議で合意された連合軍のシチリア島上陸作戦は1943年7月6日に実行され、それによって間もなく1943年9月8日にイタリアが降伏、枢軸国の一角が崩れることとなります。

アメリカの大衆スポーツ・芸能

ジョー・ディマジオ
[プロ野球]

1943年1月、MLBのコミッショナーは全米野球記者協会のニューヨーク支部大会に出席しました。大戦が激化していく中で、野球を続けるべきか否かという議論が起こっていたからです。また野球選手の兵役免除を主張する意見と戦争に進んで参加すべきという意見が分かれている状況でした。この席でコミッショナーのランディスは「野球選手も市民である」ことを強調し、それをもってこの問題に対する回答とします。日本軍の真珠湾攻撃の直後に、ルーズベルト大統領からは、プロ野球の継続に関して一定の理解を得ていましたので、メジャー・リーグは継続してシーズンを開幕するが、兵役に対しては選手個人の意思に委ねることとしたのです。この決定により、前年まではまだ多くのメジャー・リーガーは試合に参加していましたが、この1943年から1945年の終戦まで、多くのメジャーリーグの選手がグラブとバットを置き、応召して太平洋及びヨーロッパに参戦していったのです。
兵役に就いた有名選手としては、1942年三冠王のテッド・ウィリアムズ 、1941年打点王のジョー・ディマジオ(写真左) 、1942年打点王のジョニー・マイズ 、1941年首位打者のピート・ライザー、1941年盗塁王のダニー・マートー、1942年最多安打のジョニー・ペスキー 、1942年最多安打(首位打者説もある)の イーノス・スローター 、1942年最優秀防御率のテッド・ライオンズなどがいます。
主力選手の入隊により、レベルが下がったと言われますが、レギュラー・シーズンは継続され、ナショナル・リーグは「セントルイス・カージナルス」が、2年連続7度目のリーグ優勝を果たし、アメリカンリーグは「ニューヨーク・ヤンキース」が3年連続13度目のリーグ優勝を果たしました。そして、ワールドシリーズは、ヤンキースがカージナルスを4勝1敗で破り、シリーズ制覇は達成します。

軍服を着たジョー・ルイス
[アメリカン・フットボール]

NFL(National Football League)の状況も野球と同じでした。第二次世界大戦に従軍するため選手たちが大量離脱し、クリーブランド・ラムズはこのシーズンの活動停止を許可され、2チームが合併したチームで参加したチームもありました。結局1943年シーズンはわずか8チームしか出場せず、リーグ史上最も参加チームの少ないシーズンとなりました。シーズンは、NFLチャンピオンシップ・ゲームでシカゴ・ベアーズがワシントン・レッドスキンズを41対21で破って優勝しました。

[ボクシング]

ボクシングも基本的には、他のスポーツと同様で、多くの選手が、入隊し戦場で戦いました。ヘビー級のチャンピョンのジョー・ルイス、ウェルター級チャンピョンのシュガー・レイ・ロビンソンらが陸軍に入隊するなど、スター選手たちも兵役につきます。スター選手たちは、実戦には参加せず、各地でエキジビジョン・マッチを行い、兵士たちを慰問していたようです。写真は軍服を着るジョー・ルイス。

『ミニヴァー夫人』ポスター
<映画>

1942年の作品を対象とするこの年の第15回(1943年3月4日発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのはウィリアム・ワイラー監督の『ミニヴァー夫人』(Mrs.Miniver)でした。日本ではそれほどポピュラーではないと思われますが、アカデミー賞最優秀作品賞、監督賞(ウィリアム・ワイラー)、主演女優賞(グリア・ガースン)、助演女優賞(テレサ・ライト)、脚色賞(アーサー・ウィンペリス、ジョージ・フローシェル、ジェームズ・ヒルトン、クローディン・ウエスト)、撮影賞(白黒部門。ジョーゼフ・ルッテンバーグ)の6部門での受賞を果たした作品です。
この映画は、第二次世界大戦中に連合国側、枢軸国を問わずたくさん作られた、いわゆる「戦意高揚映画」、「プロパガンダ映画」と呼ばれる類の作品です。企画段階ではドイツとの間で開戦していなかったため、製作会社側はドイツ人を悪役のみとすることに難色を示しましたそうですが、1941年12月に日本とアメリカ間で開戦したことに続いて、ドイツがアメリカに宣戦布告したため、急遽ドイツ人を徹底的に悪役として扱うことを認めたという経緯があったそうです。
物語は第二次世界大戦初期のイギリスの田舎町。そこに住むミニヴァー家の人々の日常をミニヴァー夫人(グリア・ガースン)を中心に描いています。この作品のメッセージとしては、ヨーロッパ戦線初期のドイツへの敵愾心と同盟国のイギリスへのアメリカ側の支援が込められています。アメリカ人を主要キャストに置き、丁寧で流れるようなシナリオの巧さとワイラー監督の演出の好調ぶりを裏付けるような作品になっているそうです。残念ながら見ていません。

音楽界を取り巻く環境 … 戦争と第一次吹込みスト

サヴォイ・レコード

1942年でも書きましたが、戦時下であることはジャズを初め音楽界などにもいろいろな影響を及ぼすことになります。まずSP盤レコードの原料であった「シェラック」が不足となり、レコード会社はやむなく操業を短縮せざるを得なくなります。加えてガソリンが配給制となるのです。バンドの移動に不可欠なガソリンが入手するのが難しくなり、汽車においても座席確保が出来なくなります。そして徴兵制により、バンド・マンが次々と兵隊にとられていくようになり、バンド・マン不足の状態になっていくのです。とはいうものの「ぜいたくは敵だ」、「欲しがりません勝つまでは」のような、標語を作り、国民生活にとにかく我慢を強いる、強いなければならないどこかの国とは異なり、2方面で戦争を戦いながら、なるべく平常の生活を維持しようとするアメリカに圧倒的な国力を感じます。
また1942年8月1日から始まった、AFM(アメリカ音楽家連合会)の吹込みストにより、レコードの吹込みが停止していましたが、1943年9月にデッカ・レコードがAFMと和解し、レコーディングを再開します。コモドアなどの小レコード会社もデッカの後に続き、レコーディングを開始していきますが、大手のヴィクター、コロンビアは1944年11月30日まで、和解に踏み切ることはありませんでした。
またこのストライキはその後の音楽界に、微妙な変化を引き起こしていきます。当時、ビッグ・バンドがポピュラー音楽界を支配していました。歌手はそのお飾り的な存在だったのです。しかし歌手はその技量によってですが、ビッグ・バンドの伴奏なしで歌うこともできます。またどうしてもビッグ・バンドが必要というわけでもありません。そんなことから、ストライキの後ビッグバンドは衰退し始め、ボーカリストがポピュラー音楽界の中心になっていくのです。
またストライキにより、大手レコード会社は契約しているミュージシャンとの取引が停止しました。そのため録音・レコード製造機器が使われなくなり、進取の気性に富んだ音楽プロモーター、レコード配給会社、店主らは、例えばサヴォイ(1942年)やアポロ(1943〜1944年)のような小規模な専門レーベルを立ち上げる好機を得ることになりました。大手レーベルと契約の制約があるミュージシャンが偽名でレコーディングすることもありました。こういったビジネスは、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスなどの大都市圏でうまく機能します。これらの地域では市場が集中しており、地元での配給で十分な利益を得ることができるからでした。そのため1940年代半ばのジャズなどの歴史的に重要なレコーディングの多くは、こうした小規模レーベルから生まれることになります。その中には、1944年初頭にアポロで録音されたコールマン・ホーキンスとディジー・ガレスピーをフィーチャーした「ウッディン・ユー」は、ビバップの最初の正式なレコーディングと言われます。こうしたレコーディングはミュージシャンにとっては利益にはなりませんが、ミュージシャンの露出を増やし、時には大手レーベルとの契約に結びつくこともありました。
長期的にみれば、レコード会社はストライキによる損害を受けることはありませんでした。1941年に1億2700万枚のレコードが販売されましたが、ストライキの2年後の1946年にはその数は2億7500万枚に跳ね上がり、1947年にはさらに4億枚に跳ね上がったのです。

ザ・ミルス・ブラザーズ/ペイパー・ドールSP盤
[ポピュラー・ミュージック]

AFMの吹込みストが続いている中、この年のヒット曲というのは、どういう風にヒットしたのでしょう?よく分かりませんが、1943年のヒットチャートを見てみましょう。

順位アーティスト曲名
ザ・ミルス・ブラザーズ(The Mills Brothers)ペイパー・ドール(Paper doll)
アル・デクスターと彼のトゥルーパーズ(Al Dexter & his Troopers)ピストル・パッキン・ママ(Pistol packin' Mama)
ディック・ヘイムス(Dick Haymes)ユール・ネヴァー・ノウ(You'll never know)
ハリー・ジェイムズ(Harry James)昔聴いた歌(I've heard that song before)
ハリー・ジェイムズ(Harry James)クレジー・ドリーム(I had the craziest dream)
トミー・ドーシー&フランク・シナトラ(Tommy Dorsey & Frank Sinatra)ゼアラー・サッチ・シングス(There are such things)
グレン・ミラー(Glenn Miller)ザット・オールド・ブラック・マジック(That old black magic)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)サンデイ・マンデイ・オールウェイズ(Sunday , Monday or always)
ビング・クロスビーとアンドリュース・シスターズ(Bing Crosby & The Andrews Sisters)ピストル・パッキン・ママ(Pistol packin' Mama)
10ベニー・グッドマン(Benny Goodman)恋のチャンスを(Taking a chance on love)
ヘレン・フォレストとハリー・ジェイムズ

1位にランクされたのは、黒人コーラス・グループ、ザ・ミルス・ブラザーズの「ペイパー・ドール」元々は1915年に作られた古い曲のようです。スロウなメロウなイントロからリズミックに展開する曲です。2位にランクされたナンバー「ピストル・パッキン・ママ」は、アル・デクスターのグループとビング・クロスビーのデュエットものがランク・インしています。アル・デクスターは、テキサス出身のウエスタン系のシンガー・ソング・ライターです。自作の「ピストル・パッキン・ママ」の大ヒットで、1971年ナッシュヴィル・ソングライターの殿堂入りを果たしました。ビング・クロスビー盤の方は、アンドリュース・シスターズのコーラスが見事です。
3位のディック・ヘイムスは、アルゼンチン出身の歌手兼俳優です。甘いバリトン・ヴォイスの持ち主で、「ユール・ネヴァー・ノウ」はその特徴を生かしたバラードです。4位、5位にランクされたのは、トランぺッターのハリー・ジェイムズ。両曲ともベニー・グッドマンのバンドを辞めた女性シンガー、ヘレン・フォレストのヴォーカル入りのナンバーです。6位はトミー・ドーシー楽団の人気歌手フランク・シナトラが歌うスロウ・バラード。ザ・パイド・パイパーズのバック・コーラスも効いています。8位のグレン・ミラーは相変わらず人気があるなぁという感じですね。バンドのヴォーカリスト、スキップ・ネルソンのヴォーカル入りで、この曲の録音後、ミラーは志願して兵役につきます。8位のビング・クロスビーは、バック・コーラスにThe Ken Darby Singersを従えて相変わらず甘い歌声を聴かせてくれます。10位の「恋のチャンスを」は、現在でも取り上げられるスタンダード・ナンバーで、ここでの歌手はヘレン・フォレストです。実はこの曲は、1940年に吹き込まれた曲です。こう見ていくと、この年最も売れたのは歌手のヘレン・フォレストということになります。実際フォレストは、1942年、43年ダウンビート誌の最優秀女性ヴォーカリストに選出されています。

それでは本題のジャズの動きを見ていきましょう。

スイング時代

ポール・ウィナーズ録音 … 「メトロノーム・オールスターズ」

この年第二次世界大戦の戦時下のため、「メトロノーム(Metoronome)」誌のポール・ウィナーの選出とその結果に基づいたレコーディングは行われませんでした。

黒人ビッグ・バンド

カーネギー・ホール出演中のエリントン楽団
デューク・エリントン

デューク・エリントンとその楽団も、戦時下、AFM(アメリカ音楽家連合会)のストにより、1942年8月1日から44年11月30日まで正式なレコードの吹込みが停止します。このためエリントン楽団も、メジャー・レーベルへの録音はなくなります。ではこの時期エリントン楽団の録音が全く無いのかというとこれがたくさんあるのです。中でも重要なのは、1943年1月23日、初めて行われたカーネギー・ホールでのコンサートでしょう(写真左)。カーネギー・ホールでのジャズ・コンサートと言えば、先のベニー・グッドマンが1938年1月16日に開催したものが思い出されます。その時クーティー・ウィリアムス、ジョニー・ホッジス、ハリー・カーネイという3人の主力エリントニアンが出演しました。当のエリントンも出演を求められましたが、「いずれ自身のバンドでカーネギー・ホールには登場したい」と言って断っています。「デューク」の気高い矜持が見られますね。そしてついにデュークは5年後の1943年1月23日自身のバンドを引き連れて、カーネギー・ホールのステージに立ったのです。
この時初演した組曲『ブラック・ブラウン・アンド・ベージュ』が、大変な論争を引き起こしました。なおこの時のコンサートの模様は、プレスティッジ・レコードが完全版をLPでリリースしています。その他ラジオ放送の実況録音も数多くCDなどで出ています。詳しくは「デューク・エリントン 1943年」をご覧ください。

カウント・ベイシー他

デュークと異なり、僕はこの年のベイシーの録音は持っていません。ラジオ放送の実況録音などもあまり数が多くないようです。またベイシーだけではなく、ジミー・ランスフォード、アール・ハインズ、アンディ・カーク、ライオネル・ハンプトンの録音も保有していません。
例外としてニューヨークで当時とても人気があったと言われるジェイ・マクシャンのラジオ放送の音源があります。詳しくは「ジェイ・マクシャン 1943年」をご覧ください。

白人ビッグ・バンド

第二次世界大戦とAFMによる吹込みストにより、このコーナーの常連、ベニー・グッドマン、トミー・ドーシー、ボブ・クロスビー、入隊したアーティー・ショウ、グレン・ミラー等のレコードは持っていません。
代わりにこのコーナーの新人、スタン・ケントン、ウッディ・ハーマンの録音がありますのでそちらをご紹介します。

スタン・ケントン

スタン・ケントン(写真右)は、この年新興レーベル「キャピトル・レコーズ」に吹込みを行っています。新興のキャピトルはいち早く、AFMと和解したのでしょう。そしてこの録音には、後のモダン期に大きく開花するアルト・サックス奏者、アート・ペッパーが加わっています。詳しくは「スタン・ケントン 1943年」をご覧ください。

ウッディ・ハーマン

ウッディ・ハーマンは、この年AFMと和解したばかりのデッカに吹込みを行っています。注目は、エリントン楽団を辞めたばかりのベン・ウエブスターが加わっていることやベイシー風、エリントンのナンバーに取り組んでいることでしょう。詳しくは「ウッディ・ハーマン 1943年」をご覧ください。

ビ・バップの動向

アール・ハインズ楽団でのディズとバード

粟村政昭氏はその著『モダン・ジャズの歴史』において、1942年3月2日にチャーリー・クリスチャンが世を去った後、バップ・イディオムに基づく最も初期のレコーディングが行われるまでの間、なお数年間の模索の時を要したと書いています。この間の事情を解明することは、難しいことですが、パーカー、ガレスピーらの進出を見るまでの2、3年間に後継の指導者を欠いたということと、第二次世界大戦のもたらした、業界全体全体への深甚なる影響と判断すべきであろうとしています。つまりは、1942年から2、3年は大戦の影響で余り進歩は無かったということでしょう。これに加えてAFMによる吹込みストの影響でこれらの動きが録音されていないということも言えるでしょう。
左は1943年のハインズ楽団の貴重な写真。左端がディズ、ピアノ横でほほ笑んでいるハインズの後ろにかすかにテナー・サックスを抱えるバードが見える。

ディジー・ガレスピー

この年において重要なのは、アール・ハインズ楽団でチャーリー・パーカーと再開し、お互いに腕を磨きあったというところでしょう。録音自体は、デューク・エリントン楽団にワン・ポイントで参加したものしか保有していません。詳しくは「ディジー・ガレスピー 1943年」をご覧ください。

チャーリー・パーカー

これは1943年2月15日シカゴのホテルで録音された「レッドクロス・ディスク」という録音があるそうですが、あいにく保有していません。1943年終わりから44年初めと推定される「チャールズ・ホワイト・ディスク」を持っていましたので、ここで取り上げました。詳しくは「チャーリー・パーカー 1943年」をご覧ください。

バンク・ジョンソンとバーサ・ゴンサリン

ニュー・オリンズ・ジャズ・リヴァヴァル

バンク・ジョンソン

1942年の録音が発表されるとたちまちそのレコードは評判となり、バンクは一躍時の人として注目を集めることになります。そして特にディキシーランド・ジャズの人気が高かったサンフランシスコに招かれます。ラッセルは、サンフランシスコに出向いていたバンクを追って行き、主にニュー・オリンズ初期のジャズの形を知る手掛かりになるようなインタヴューやバディ・ボールデンの演奏スタイルはどうだったかなどという研究家としての面の強い録音を行った。そしてニュー・オリンズのピアニスト、バーサ・ゴンサリンと録音を行います(写真右)。これらの記録は実に貴重なものと言われています。詳しくは「バンク・ジョンソン 1943年」をご覧ください。

ジョージ・ルイス

1942年のバンク・ジョンソンの発見により、そのバンドにおいてクラリネットを吹いていたジョージ・ルイスも注目を浴びることになります。そしてこの年初めて自分の名前を冠したレコーディングを行うことになるのです。詳しくは「ジョージ・ルイス 1942年」をご覧ください。

エディ・コンドン

西海岸で起こった「ニュー・オリンズ・ジャズ・リヴァヴァル」に刺激されるように、シカゴ・ジャズの大立者エディ・コンドン(写真左)も気合の入ったレコーディングを行います。吹込み先はコモドア・レコード。多分はコモドアは早々にAFMと和解していたのでしょう。詳しくは「エディ・コンドン 1943年」をご覧ください。

他のミュージシャン

コールマン・ホーキンスのクラシック・テナーズ・セッション
コールマン・ホーキンス

テナー・サックスの巨匠、コールマン・ホーキンスはAFMと早々に和解したコモドアや立ち上がったばかりのマイナー・レーベル"Signature records"へ吹込みを行います。"Signature records"は、1940年弱冠17歳の少年、ボブ・シールが立ち上げたレーベルで、この時シールはまだ21歳でした。しかしこのレーベルに、12月23日世紀の大傑作を吹き込むのです。写真右はそのセッション風景。詳しくは「コールマン・ホーキンス 1943年」をご覧ください。

レスター・ヤング

40年末に突然ベイシー楽団を退団したレスター・ヤング。41年レスターは自己の楽団を率いますが、これはわずか約1か月も経たないうちに解体してしまいます。41年ニューヨークを離れ、ロス・アンゼルスに向かい弟リー・ヤングのバンドに加わり、弟リーが率いるリー・ヤングズ・エスクワイア・オブ・リズムに約1年間ほど留まっていました。そしてリーのバンドは、1942年8月ニューヨークに移り、カフェ・ソサイエティ・ダウンタウンに本拠を構えたが、1943年初頭に解散してしまいます。レスターは、アル・シアーズのバンドに移り、しばらく籍を置き、52丁目界隈のクラブを演奏して回っていましたが、その年の12月、急転直下、カウント・ベイシーの楽団に再加入します。
1943年、レスターの初レコーディングは、"Signature Records"に行われます。これは、AFMストの影響でベイシーが契約していたコロンビアとのレコーディングが出来なかったためではないかと思われます。マイナーな独立系レーベル"Signature Records"は、前コールマン・ホーキンスでも書きましたが、早々にAFMと和解していたのかもしれません。ともかくレスターは、この年"Signature Records"、"Keynote records"にコンボによる傑作を吹き込みます。詳しくは「レスター・ヤング 1943年」をご覧ください。

ブルーノート・レーベル

次にピアニストのジェイムズ・P・ジョンソンを取り上げたいと思いますが、その前に新興ジャズ専門レーベル「ブルーノート」について触れておきましょう。ブルーノート・レーベル誕生の話は以前に触れましたが、ブルーノート・レーベルの創設者アルフレッド・ライオンは、後々までその右腕となる相棒、フランシス・ウルフをドイツから呼び寄せます。因みにライオンもウルフもドイツに居住していたユダヤ人です。アメリカに移住していたライオンは、ナチス下におけるドイツ国内の危うさを知っていたのでしょう。そして度重なるライオンの誘いを受けて、ウルフは1940年にアメリカにやってきます。1940年6月がベルリンからアメリカに向かう最後の客船だったそうですから、まさに滑り込みセーフのタイミングでした。幼馴染みの盟友ライオンとウルフが組んだのですから、最強コンビと言えますね。
そんな折1941年12月11日ヒトラーは、日本の真珠湾攻撃の成功を受け、アメリカに対して宣戦布告を行います。故国ドイツと現在の居住地アメリカは正式に戦争状態に入ったのです。そして1941年12月、アルフレッド・ライオンに召集令状が届きます。ライオンは、アメリカの市民権を持っていませんでした。そして外国人には徴兵制が適用されないという決まりもありました。しかしライオンは徴兵に応じ、陸軍に入隊します。それは自発的に徴兵に応じるなら、その後市民権を与えるという特例が発布されていたからでした。ライオンには、既にアメリカに骨を埋める覚悟ができていたのです。
このためブルーノート・レコードは、1941年4月〜1943年11月までレコーディングを行っていないのです。このライオンが兵役についている間、ブルーノートを助けたのは、コモドア・ミュージックショップのミルト・ゲイブラー氏でした。ゲイブラーは、ウルフを雇い入れ、ブルーノートのレコード販売にも手を貸したのです。
そして1943年10月除隊したライオンが、ニューヨークに戻ってきます。そして早速ジャズのレコーディングに取り掛かるのですが、その最初のレコーディングがジェイムズ・P・ジョンソンのソロ・ピアノでした。ライオンの不在は、AFMの吹込みストの期間とかなり重なります。これもラッキーだったと思います。多分除隊したライオンは、すぐさまAFMの求めに応じて、和解したと思われます。

ジェイムズ・P・ジョンソン

ジェイムズ・P・ジョンソン名義の録音も久しぶりです。彼のソロ録音もこの年マイナー・レーベル、ブルーノートに行われます。詳しくは「ジェイムズ・P・ジョンソン 1943年」をご覧ください。

エドモンド・ホール

これまで余り目立った活躍が無かったエドモンド・ホール(写真左)ですが、この年はブルーノートやコモドアといったマイナー・レーベルに録音を残しています。詳しくは「エドモンド・ホール 1943年」をご覧ください。

ジミー・ヌーン

ジミー・ヌーンは、この年シカゴからディキシー・ランド・ジャズが盛んな西海岸に居を移し、新たな活動に取り組んでいましたが、翌1944年4月19日突然の心臓発作に見舞われ、帰らぬ人となってしまいます。僕の持っているヌーンの録音は、これが最後になります。詳しくは「ジミー・ヌーン 1943年」をご覧ください。

ナット・キング・コール

ナット・キング・コールは、デッカと契約していましたので、12月にはレコーディングが行われています。但し、ベースのウエズリー・プリンスは兵役に取られ、代わってジョニー・ミラーが加わります。詳しくは「ナット・キング・コール 1943年」をご覧ください。

ビリー・ホリデイ

僕の持っているビリー・ホリデイ(右は1943年のビリー)のこの年の音源は1曲だけです。収録は私家盤の「Billie Holiday/Live and private recordings in Chronological order」(レコード23枚組ボックス)に入っている、ラジオ放送用の音源と思われます。詳しくは「ビリー・ホリデイ 1943年」をご覧ください。

ブルース・ピープル

僕の持っているこの年のブルースはありません。

ミュージシャンの自伝・評伝が語る1943年

このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1943年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみます。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。
ミュージシャン名生年月日生地自伝・評伝著者
チャールズ・ミンガス1922年4月22日アリゾナ州ノガレス自伝『負け犬の下で』チャールズ・ミンガス
マイルス・ディヴィス1926年5月26日イリノイ州オルトン自伝『自叙伝』マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ
ジョン・コルトレーン1926年9月23日ノース・カロライナ州ハムレット評伝『ジョン・コルトレーン』藤岡靖洋
スタン・ゲッツ1927年2月2日ペンシルヴァニア州フィラデルフィア評伝『スタン・ゲッツ』ドナルド・L・マギン
ビル・エヴァンズ1929年8月16日ニュージャージー州プレンフィールド評伝『幾つかの事情』中山康樹
穐吉敏子1929年12月12日旧満州国遼陽自伝『ジャズと生きる』穐吉敏子
ウエイン・ショーター1933年8月25日ニュージャージー州ニューアーク評伝『フットプリンツ』ミシェル・マーサー
[チャールズ・ミンガス]
20〜21歳。とにかく彼の自伝は分かり難く、内容のほとんどが「女」の話です。

[マイルス・ディヴィス]
1943年は16〜17歳です。同じ高校で、付き合い始めていたアイリーンの勧めで、当時波に乗っていた、エディ・ランドールとブルー・デヴィルズというバンドのオーディションを受け、直ぐに雇われます。ブルー・デヴィルズはホットなダンス・ミュージックをやっていて、以前にはデューク・エリントンにスカウトされたジミー・ブラントンも在団していました。その時は、クライド・ヒギンズというアルト吹きとその妻のメイビルというピアニストがいて、いろいろ学んだと言います。このランドールのバンド時代に、作曲や編曲にも取り組みだします。週75〜80ドル稼いだと言います。このバンドには1943年から44年まで1年間くらい加わっていたそうです。
そこにマイルスを聴きにクラーク・テリーも来たそうです。直ぐにテリーとは仲良くなりました。クラーク・テリーは楽器調整の名人だったとも書いています。またそのバンドで出ている時には、ベニー・カーターやロイ・エルドリッジ、ケニー・ド―ハムなどもやって来たと言います。加えてレスター・ヤングも来て一緒に演奏もしたそうです。ファッツ・ナヴァロ、ハワード・マギー、ソニー・スティットもやって来たそうです。
[ジョン・コルトレーン]
マイルスと同い歳、1943年は16〜17歳です。この年に特段の記述は見当たりません。
[スタン・ゲッツ]
1943年は15〜16歳です。1943年1月14日スタンは、音楽家組合ローカル802支部に登録を認められます。そのことで彼は、音楽家として生活して行きたいという思いが強くなり、ジャズを演奏するビッグ・バンドへの加入を強く思うようになります。彼は57丁目のノラ・スタジオというミュージシャン達の溜まり場に通うようになります。そこで友人からジャック・ティーガーデンのバンドがサックス奏者を探しているという情報を得るのです。ティーガーデンのバンドは、片っ端からメンバーが徴兵され、いくら新人を採用しても追いつかない状況でした。ティーガーデン(ビッグTと呼ばれていた)は、彼をテストし、週給70ドルで雇われることになります。スタンは両親を説得し、ビッグTと共にツアーに出、両親には、毎週40ドルを送金するのです。
その折、セントルイスで、少年課係官が彼らを待ち受けていました。彼らはスタンをニューヨークのジェイムズ・モンロー高校へ戻すように要求します。その係官たちを、ビッグTは、スタンの後見人になることと両親の承諾書を手に入れることで乗り切ります。ビッグTは正にスタンのジャズの師匠になります。しかしビッグTは飛んでも無い大酒のみだったのです。
ビッグTは、スタンを可愛がり、色々なことを学びました。それはステージ上で、実例として示すだけではなく、移動中も絶え間なく音楽セミナーを開催したと言います。例えばアート・ティタムの革新的な和声のアイディアを採譜し、楽団員たちと一音一音検討したというのです。素晴らしいですね。

スタンは、後見人のビッグTの酔っぱらった時の世話係を仰せつかります。そしてビッグTも他の団員も。スタンに酒を飲むことを勧めたのです。そして1943年の夏には、スタンは毎晩のように泥酔する人間になっていました。さらにニコチンにも依存するようになり、それは死ぬまで続きました。
そんな10月の初め、ビッグTは、テキサスでプトマイン中毒(腐敗した魚を含む動物性肉を食べることで引き起こされる)に罹ってしまいます。ビッグTは残りの契約をすべてキャンセルし、家を買ってあった南カリフォルニアで静養することになります。そしてビッグTは、スタンをその南カリフォルニアへ連れて行くのです。スタンは、一遍でこの土地に魅せられます。燦燦と降り注ぐ太陽、ヤシの木や広々としたオープン・スペースは、ゴミゴミとしたニューヨークのハーレムに比べれば、まさに楽園に思えたと言います。スタンは、早速両親と弟のボブをこの地に呼び寄せることにします。しかしカリフォルニアのユニオンの規則は、移住して90日間は、定まった演奏の仕事に就くことが出来ないという決まりになっていました。そこでスタンは、生涯でただ一度の音楽以外の仕事、紳士服店の販売員として勤務するのです。
そして翌44年1月にユニオンの縛りが解けると、スタンは、ダンス・バンドやディキシーランドのバンドなど様々なバンドで働き始めるのです。

[ビル・エヴァンズ]
ビル・エヴァンズは1929年8月16日生まれですので、1943年は13〜14歳。右は1943年のビル・エヴァンズ。この年兄のハリーの提案によって、2人でビッグ・バンドを結成します。名称は「エヴァンズ・ビッグ・バンド」。そこでは兄はトランペットを吹き、弟のビルがピアノを弾きます。このバンドの写真(左)が残っています。左側のトランペッターが兄のハリー、ピアノの座っているのが、ビルです。
ビッグ・バンドの音源の有無は不明ですが、なんとこの年のカルテット演奏が残っているのです。
そもそもその音源とはどのようなものでしょうか?"Bill Evans/Very early @"というCDで、E3 recordsというレコード会社から発売されています。この<E3 records>という会社は、ビル・エヴァンズの息子、エヴァン・エヴァンズが興した会社で、エヴァンは父親の残した音源を発掘し、意義があると思った音源をデジタル・マスタリングを施し、"Bill Evans/Very early @"と題して2000年に発売しました。@とあるので、Aも出るのかなと思っていましたが、2025年現在発売されていないようです。1943年のビルの写真や「エヴァンズ・ビッグ・バンド」の写真もそこから引用しました。
とにかく大変貴重な音源なのですが、そもそも1943年という、商業用としてのレコードはSP盤で、テープレコーダーが未だない時代に一体どのようにして録音したのでしょうか?「ちょっくら録ってみるべ」的なことではなかったでしょう。ウィリアム・ラッセル氏がバンク・ジョンソンを録音したように、ジェリー・ニューマン氏がミントンズで録音を行ったように、シュラック盤に刻み込んだのでしょう。そういう機材がエヴァンズ家にはあったということなのでしょう。兄弟にピアノの教師を付けたりできたように、ある程度裕福な家庭だったのでしょう。ともかく音源を聴いてみましょう。

<Date & Place> … 1943年 多分エヴァンズの自宅にて録音

<Personnel>

Pianoビル・エヴァンズBill Evans
Tenor saxジョージ・バシェGeorge Bache
Bassウォルト・"ケイ"・コワルスキーWalt "Kaye" Kawalski
Drumsフランク・"フルフィ"・ロベルFrank "Fluffy" Wrobel

エヴァンズの評伝『ビル・エヴァンスについてのいくつかの事柄』(中山康樹著)によると、ビルは1944年冬コニー・アトキンソン・シニアという人物が率いるダンス・バンドのメンバーとしてステージに初めて立ちます。レギュラー・メンバーの大半が兵役に就いたためのピンチ・ヒッターでした。このバンドには、アトキンソンの息子のコニー・アトキンソン・ジュニア(B)、17歳になったばかりのテナー奏者、ジョージ・バシェ、戦傷を追って戦地から帰ったばかりのドラマー、フランク・ロベル(24歳)がいたとあります。しかし1943年時点で、バシェ、ロベルトは一緒にプレイしており、旧知の間柄だったのでしょう。

<Contents> … "Bill Evans/Very early"(E3 records)

CD-2.「C・ジャム・ブルース」(C jam blues)
ご存じデューク・エリントン作の超有名曲。冒頭「メリー・クリスマス、ハリー。Cジャムだよ。モダン・ジャズで行くよ」という何人かの声が入ります。これは海軍に従軍し戦地にいた兄のハリーに、1943年に録音したものに、オーヴァー・ダビングして録音して送ったものだというのです。この時点でオーヴァー・ダビングが出来たことが意外です。どうやったのかは分かりませんが、メッセージを録音して、直ぐに元々録音したものをプレイヤーでかけて、その再生音を録音したとしか考えられません。そうするとかなり音質は落ちるはずですが、その辺りは2000年の技術でデジタル・リマスタリングしたのでしょう。さらに「モダン・ジャズ」という言葉にも驚かされます。
Dsイントロの後テナーがテーマを1コーラス奏し、エヴァンズがソロを2コーラス取りますが、ブギ・ウギ・スタイルで弾いているところが時代を感じさせます。その後バシェのソロとなりますが、当時16歳とは思えない演奏です。演奏自体はレスター・ヤングのコピーだそうですが、しっかりとした音色の吹きっぷりです。
CD-3.「私の彼氏」(The man I love)
頭からバシェがテーマを崩しながら吹きます。続いてエヴァンズも崩しながらソロと言っても良いようなプレイでBメロを引きます。一度テーマに戻った後テンポを倍に取り、エヴァンズ、コワルスキー、バシェとソロを取っていきます。何といってもエヴァンズとバシェのプレイが光っています。エヴァンズはご承知のように、プロとなり素晴らしい演奏を行っていきますが、バシェという人の名は、ググっても出てきません。若かりし日の武勇伝で終わってしまったのでしょうか。

[穐吉敏子]
エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1943年は13〜14歳。特にこの年の記載はありません。

[ウエイン・ショーター]
1933年生まれなので、9〜10歳です。40年代初頭多くの子供がそうだったように、漫画本に夢中になりむさぼり読んだそうです。

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