現在私たちは、1939年9月ドイツ軍のポーランド侵攻から第二次世界大戦に突入し、日本では1941年12月のハワイ・真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入し、欧州そしてアジアで大規模で悲惨な戦争が行われたことを知っています。そんな開戦前のこの年世界はどのように動いていたのでしょうか?簡単に振り返ってみましょう。
この辞典でムッソリーニが率いるイタリアとヒトラーのナチス・ドイツとの関係はオーストリアをめぐる対立から決して良好とは言えませんでした。ドイツは3月にヴェルサイユ条約破棄を宣言し再軍備に踏み切っていました。時のイギリスのボールドウィン内閣は、ヒトラーに一定の譲歩をすることでそれ以上の膨張政策を抑え、最も懸念していた共産国家ソ連に対する防波堤とするという宥和政策を取ります。一方イタリアは、10月エチオピアへ侵攻を開始します。これは当然ながら国際社会から激しい批判を浴びることになります。この機にオーストリアの併合を目論むヒトラーはイタリアとの関係を改善しようと動きます。翌年閣僚の一人、ハンス・フランクを派遣し、イタリアの外相を招きます。こうした両国は接近し1937年「ベルリン=ローマ枢軸」と呼ばれるような関係になっていきます。
1935年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。| 順位 | アーティスト | 曲名 |
| 1 | フレッド・アステア(Fred Astaire) | 頬と頬(Cheek to cheek) |
| 2 | ザ・カーター・ファミリー(The Carter family) | 永遠の絆(Can the circle be unbroken) |
| 3 | エディ・デューチン(Eddy Duchin) | ラヴリー・トゥ・ルック・アット(Lovely to look at) |
| 4 | シャーリー・テンプル(Shirley Temple) | オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ(On the good ship lollipop) |
| 5 | レイ・ノーブル(Ray Noble) | カプリ島(Isle of Capli) |
| 6 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | きよしこの夜(Silent night , holy night) |
| 7 | コール・ポーター(Cole Porter) | ユア・ザ・トップ(You're the top) |
| 8 | パッツィ・モンタナ・アンド・ザ・プレイリー・ランブラーズ(Patsy Montana & the prairie ramblers) | カウ・ボーイの恋人になりたい(I want to be a cowboy's sweetheart) |
| 9 | フレッド・アステア(Fred Astaire) | トップ・ハット・ホワイト・タイ・テイルズ(Top hat , white tie & tails) |
| 10 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | 夕日に赤い帆(Red sails in the sunset) |
年間ヒットチャートの第1位に輝いたのは、フレッド・アステアの「頬と頬」。ジンジャー・ロジャースとのゴールデン・コンビで出演して大ヒットとなった映画「トップ・ハット」(Top hat)の挿入歌です。なお9位の「トップ・ハット・ホワイト・タイ・テイルズ」同映画の挿入歌です。僕の持っている数少ないSP盤の中にこのSP盤があります。オールド・ファンには懐かしいレコードだと思います。このレコードはラベルを見てお分かりのように、「ラッキー・レコード」という日本の会社から発売されたものです。ラッキー・レコードは、1934年11月に綿花の輸入ビジネスを行っていたSaito Shoten(斎藤書店?)が経営していた「ラッキー・レコード」によって設立された東京に本社があったレーベルということの他詳しいことは分かっていません。1930年代アメリカのポピュラー音楽を中心に輸入、発売していたようです。ということはこの時点ではまだアメリカから、ポピュラー音楽のレコードが輸入、販売されていたことが分かります。
2位のカーター・ファミリーは、白人バンドの元祖と言われるバンドで、フォーク・ソングやカントリー・ミュージックの草分け的存在です。メンバーの一人、メイベル・アディントン・カーターが編み出した、右手親指で1〜3弦の低音部を弾き、人差し指で4〜6弦の高音部を弾くという「カーター・ファミリー・ピッキング」を、日本でもフォーク・ギターを弾く人でやったことがない人知らない人はいません。2位にランクされた「永遠の絆」エイダ・R・ハーバーションとチャールズ・H・ガブリエルによって作られたゴスペル・ナンバーで彼らの最初のヒット曲です。
3位のエディ・デューチンは白人のピアニスト兼バンド・リーダーでいわゆる「スイート」系のバンドを率いて人気があったアーティストです。この「ラヴリー・トゥ・ルック・アット」は1933年に公開されたロマンティック・コメディ・ミュージカル映画のタイトル曲です。サウンドトラックではないようです。
またまた懐かしい名前が出てきました。4位のシャーリー・テンプル(1928〜2014:写真右)です。天才子役として、1931年(3歳)から映画に出演し、大人気となります。日本でも「テンプルちゃん」はかわいらしくて大人気だったと僕の母親も言っていました。この「オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ」は、1934年の映画「ブライト・アイズ」(Bright eyes)でテンプルが歌った曲で、彼女が初めて歌った曲と言われています。
5位のレイ・ノーブルはこれまで何度か登場しているイギリス出身のスイート系ダンス・バンド。この「カプリ島」は1934年に出版され、レイはこの曲をロンドンでレコーディングしたそうです。7位と9位は相川図の人気を誇るビング・クロスビー。7位はクリスマス・ソングとして定番の「きよしこの夜」、10位の「夕日に赤い帆」はこのクロスビー盤が初演で、この後ルイーアームストロングはじめ沢山の人々によってカヴァーされました。
7位のコール・ポーターは作曲家としてまりにも有名ですが、自身で歌って大ヒットしたのはこの曲が初めてだと思います。他にも"Love for sale""Night and day""Begin the beguine""You'd be so nice to come home"などジャズでもおなじみの定番曲がたくさんあります。
8位のパッツィ・モンタナ・アンド・ザ・プレイリー・ランブラーズ(写真左)の「カウ・ボーイの恋人になりたい」は、最初に録音されたカントリー・アンド・ウエスタンの曲と言われます。
その他ジャズ関連でのチャートを見ると、ドーシー・ブラザーズの"Lullaby of broadway"が11位と"Chasin' shadows"が24位、グレン・グレイとカサ・ロマ・オーケストラの"Blue moon"が12位、ファッツ・ウォーラーの"Truckin'"が15位、ベニー・グッドマンの"King porter stomp"が16位、ジミー・ランスフォード・オーケストラの"Rhythm is our business"が21位、ルイ・アームストロングの"I'm in the mood for love"が20位、ジャンゴ・ラインハルトの"Djangology"が49位など数多くの楽曲がトップ50以内にランク・インしています。
しかし何といっても人気だったのは、男らしいダンディズムをまき散らすクラーク・ゲーブル、愛くるしいお人形さんのようなシャーリー・テンプル、歌って踊れる映画スター、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのダンスは正にきらめくスターであり、日本でもそのカッコよさ、華やかさにしびれ、ため息交じりに銀幕を眺めていたものだと母親も言っていました。
余談です
かつてそのキレキレのダンスで一世を風靡したマイケル・ジャクソン。1983年初めてその代名詞ともなる「ムーンウォーク」を披露すると、たくさんの人たちが「ムーンウォーク」を教えてくれとやって来たそうです。確かかつてSmapもTV番組でそんなことをやっていました。彼に教えを請いに来た沢山の人たちの中で最も覚えが速く上手だったのは誰かと尋ねられたマイケルは即座にこう答えました。「フレッド・アステアだね。」
すごい話です。1899年生まれのアステアは1983年としても84歳です。かつての白人の大スターがその当時の大スター黒人のマイケルに教えを請いに行くことがすごいですし、その80歳を超えたおじいさんが最も覚えが速く、美しい「ムーンウォーク」を踊ったというのです。げに恐ろしきは「芸の力」ということでしょうか。
前置きが長くなりました。1935年は音楽、特にジャズ関連において起こった重要なことが2つあります。
「ポーギーとべス」は、サウスカロライナ州チャールストンの小説家、エドワード・デュボーズ・ヘイワード(Edwin DuBose Heyward:1885〜1940)が1925年自身の住むチャールストンを舞台にした小説『ポーギー』を発表、さらに妻のドロシーの協力を得て1927年に舞台化されたものです。これをジョージ・ガーシュウィンは、兄のアイラ、作者のヘイワードと共にオペラ化に取り組んだものです。作曲するにあたりガーシュウィンは実際にチャールストンに赴いて黒人音楽を研究し、その語法を取り込みました。まず1935年9月30日にボストンのコロニアル劇場でトライアウト公演が行われ(写真左)、その評判は芳しくなかったそうですが、翌月の10月10日にニューヨーク・ブロードウェイのアルヴィン劇場(コロニアル劇場という記載あり)で行われた公演は成功し、連続公演が行われることとなります。
<第2幕> … 殺人事件の1ヶ月後〜1週間後
確かに貧困の中で、賭博、麻薬、殺人がストーリーを作っていく展開は、黒人たちから見れば「これだけが俺たちの世界じゃない、俺たちを馬鹿にしている」と反感を持つのも不思議なことではないと思います。しかし「オペラ」というもう一つの面、音楽を聴けば第1幕第1場の冒頭で歌われる「サマータイム(Summertime)」は、現在でも多くのミュージシャンにより、ジャンルの垣根を超えて取り上げられている傑作ですし、他にも"I love you , Porgy"など傑作がそろっています。
[スイング時代は1935年ベニー・グッドマンとともに始まった。]と言われます。つまり1935年が「スイング元年」ということであり、その前は「スイング以前」ということになります。これは一体どういうことでしょうか?
こういう言い方をすると、ベニー・グッドマン(以下BG)がスイングの生みの親みたいに聞こえるかもしれませんが、もちろん音楽的にはそうではありません。ではなぜこのような言い方をされるのでしょうか?
1934年までのBGについてはこれまで触れてきましたが、少し復習しておきましょう。
レコーディングの方は順調だったよですが、レギュラーの仕事の途切れたグッドマンにブッキング・エージェントはホテル・ルーズヴェルトへの出演、そしてニューヨークから始まってロス・アンゼルスで終わる一台コンサート・ツアーの計画を持ち込んできます。このツアーの最初は散々な評判だったようですが熱心な支持者であるジョン・ハモンド氏らの後押しを得てロス・アンゼルスまでたどり着きます。そこで一大異変が起こるのです。ロスにたどり着くまでは、各地で散々に罵られ、嘲笑われてきたグッドマンのダンス音楽が爆発的に大受けするのです。「ロスのレヴュー、パロマ―にデビューしたBGのダンス音楽−俄然、市民の絶賛を浴びる」というニュースがアメリカ中に伝わり、レコード屋でホコリにまみれていた彼のレコードは、羽が映えたように売れ出したのです。これが『パロマーの爆発』です。正に会心の一発逆転劇です。
悠氏によれば、ルイ・アームストロングやデューク・エリントン達の活躍はあったものの、ジャズは白人の一般家庭にまでは浸透していませんでした。グッドマンが先ほど触れたようにNBCのラジオ放送にレギュラー出演し、ヴィクター・レコードへの吹込みを開始し、ホテルやボールルームでのコンサートが人気を呼ぶにつれ、白人大衆の間に「ジャズ」が広まっていったのです。一般大衆がジャズを知ったのはまさにこの時です。ジャズはベニー・グッドマンの登場によて陽の当たる場所で演奏されるようになったのです。一般の白人たちが、「スイングは白人が始めた新しいアメリカの音楽」と思い込んだのも無理はありません。さらに悠氏はこう述べます。「本来『ジャズ王』と呼ばれるべきはデューク・エリントンであり、真の『スイング王』がカウント・ベイシーであったことは否定しがたい。だが、それを認めたうえでもグッドマンがジャズに果たした功績は偉大だ。(中略)何にも増して大書されるべき功績は、「スイング」や「ジャズ」を一般大衆に認知させたことであろう」
また既に「ジャズ王(king of Jazz)」を名乗った人物がいました。ポール・ホワイトマンです。ポール・ホワイトマンは自身の映画"King of Jazz"で堂々と「ジャズ王(king of Jazz)」と名乗っており、それを奪うようなことはできません。
この年もエリントンは話題豊富です。箇条書きにしてみます、
鬼才サイ・オリヴァーがアレンジ面において、その手腕を発揮し見事なアンサンブルを聴かせてくれます。34年12月に録音した"Rhythm is our business"がこの年の年間ヒットチャート21位に入るヒットとなりました。詳しくは「ジミー・ランスフォード 1935年」をご覧ください。
ルイ・アームストロングとディジー・ガレスピーをつなぐジャズ・トランペットの主流線上の巨人で、スイング時代最高のトランペット奏者と言われるロイ・エルドリッジが、7月に行われたテディ・ウィルソンの第1回のブランズウィック・セッションでレコーディング・デビューをしています。エルドリッジのディスコグラフィーでは、初録音は1936年2月5日自己名義のレコードとなっていますが、それよりも半年早い録音なのでこちらをデビューとして間違いないでしょう。またエルドリッジは12月にもTp、Cl、Gt、Bという珍しい編成のコンボでもレコーディングを行っています。詳しくは「ロイ・エルドリッジ 1934年」をご覧ください。
ビリー・ホリディがテディ・ウィルソンのブランズウィック・セッションで本格的レコーディングを開始しました。一方当時白人最高のジャズ・シンガーと言われるミルドレッド・ベイリーのレコードも注目です。そして彼女のこの年のレコーディングのパーソネルは、いずれも白黒混合セッションとなっています。さらにこちらのセッションでピアノを弾いているのは、テディ・ウィルソンなのです。白黒最高の歌手の伴奏を行うという当時最も重要なピアニストだったと言えるでしょう。詳しくは「ミルドレッド・ベイリー 1935年」をご覧ください。
| ミュージシャン名 | 生年月日 | 生地 | 自伝・評伝 | 著者 |
| レスター・ヤング | 1909年8月27日 | ミシシッピ州ウッドヴィル | 評伝『レスター・ヤング』 | ディヴ・ゲリー |
| セロニアス・モンク | 1917年10月10日 | ノース・カロライナ州・ロッキー・マウント | 評伝『セロニアス・モンク』 | ロビン・ケリー |
| チャーリー・パーカー | 1920年8月29日 | ミズーリ州カンサス・シティ | 評伝『バードは生きている』 | ロス・ラッセル |
| チャールズ・ミンガス | 1922年4月22日 | アリゾナ州ノガレス | 自伝『負け犬の下で』 | チャールズ・ミンガス( |
| マイルス・ディヴィス | 1926年5月26日 | イリノイ州オルトン | 自伝『自叙伝』 | マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ |
| ジョン・コルトレーン | 1926年9月23日 | ノース・カロライナ州ハムレット | 評伝『ジョン・コルトレーン』 | 藤岡靖洋 |
| スタン・ゲッツ | 1927年2月2日 | ペンシルヴァニア州フィラデルフィア | 評伝『スタン・ゲッツ』 | ドナルド・L・マギン |
| ビル・エヴァンズ | 1929年8月16日 | ニュージャージー州プレンフィールド | 評伝『幾つかの事情』 | 中山康樹 |
| 穐吉敏子 | 1929年12月12日 | 旧満州国遼陽 | 自伝『ジャズと生きる』 | 穐吉敏子 |
| ウエイン・ショーター | 1933年8月25日 | ニュージャージー州ニューアーク | 評伝『フットプリンツ』 | ミシェル・マーサー |
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チャールズ・ミンガス
ジョン・コルトレーン