世界史の大きな流れは、日独伊枢軸国と英米仏連合国の対立がより深まり、第二次世界大戦が不可避なものになっていった年と言うことができますが、具体的にはどのように動いていたのでしょう?簡単に振り返ってみましょう。
[ヨーロッパ]
左は有名なパブロ・ピカソの描いた「ゲルニカ」です。戦争の悲惨さ描いたこの絵は1937年に描かれました。1936年スペインで勃発した内戦にイタリアと共に介入したナチス・ドイツの空軍が、フランコ将軍率いる反乱軍に味方し無差別空爆を行いました。故郷スペインが無差別空爆を受けたことを知ったピカソは早速その製作に取り掛かり、1937年6月パリで開催されていた万国博覧会に掲げられました。ナチスドイツの軍事介入は、再軍備後の軍の訓練の意味があったと伝えられています。たくさんの人々が軍隊の訓練のため無残に殺されたのです。何という愚かな行為でしょう。
そのヒトラー率いるナチス・ドイツはアウトバーンの建設に代表される公共事業や軍備拡張による軍需工業の隆盛そして徴兵制によって雇用を拡大し、インフレを起こすことなく経済繁栄を実現させます。国民の多くも戦争の危険よりも経済の好転を望んだのです。さらにドイツ国内にもあった反対論を押し切って行われたラインラント進駐に対してフランス、イギリスからの反撃がなかったことから、進駐を決定したヒトラーは、ドイツ国内で神がかり的な指導者であるというイメージが醸成され、「ヒトラー神話」ができあがっていくことになります。その一方でエルンスト・ヒムラーの指揮する親衛隊(SS)とヘルマン・ゲーリングの掌握する国家秘密警察(ゲシュタポ)が反対派を封ずる暴力装置として機能し、恐怖政治により独裁体制を強化していきます。そしてナチス・ドイツはポーランドへと進行の準備に進んでいきます。
[日本]
日本では、前年の2・26事件以降軍部の政治介入が激しさを増していました。既に1932年大陸に満州国を傀儡政権として成立させていた日本は、さらなる大陸侵略を企図し、中国の国民党政府と対立を深めます。このような日本の露骨な侵略に対し、それまで中国内の覇権争いを行っていた蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党は1936年12月に起こった西安事件以後「抗日」を旗印に歩み寄り、1937年7月に勃発した盧溝橋事件により、中国側と全面的な戦争へと進んでいくのです。
[連合国]
1937年5月イギリスではボールドウィン内閣が総辞職し、保守党のネヴィル・チェンバレン内閣が成立します。チェンバレンはヒトラー率いるナチス・ドイツに対して「宥和政策」を取ります。「ゆうわ」は「融和」=「とけあう」ではなく「宥和」=「なだめる」という意味です。そもそもイギリスは前ボールドウィン内閣時代から、ドイツの反ヴェルサイユ体制の動きや日本の中国侵略などに対して積極的に批判を行ってきませんでした。当時イギリスにとっての最大の脅威はソ連の共産党体制と受け止められており、ドイツ、日本は防共の防波堤になりうると考えられていたこと、また特にドイツは第一次世界大戦で悲惨な敗戦を味わい、再び大きな戦争を起こすほど愚かではないだろうと高をくくっていたと言われます。これがヒトラーの増長に拍車をかけることになるのですが、それは戦後70年以上も経った今だから言えることかもしれません。
[アメリカ]
前年の大統領選に圧勝した民主党のフランクリン・ルーズヴェルトの第二期目がスタートします。1929年以来の恐慌による不況も克服間近と思われ、ヨーロッパや極東からきな臭いにおいが漂ってきていましたが、戦争に関しては中立を宣言していました。
<ボクシング>
| 順位 | アーティスト | 曲名 |
| 1 | ベニー・グッドマン(Benny Goodman) | シング・シング・シング(Sing , sing , sing) |
| 2 | カウント・ベイシー(Count Basie) | ワン・オクロック・ジャンプ(One O'Clock Jump) |
| 3 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | 麗しのレイラニ(Sweet Leilani) |
| 4 | フレッド・アステア(Fred Astaire) | 誰にも奪えぬこの思い(They can't take that away from me) |
| 5 | デューク・エリントン(Duke Ellington) | キャラヴァン(Caravan) |
| 6 | トミー・ドーシー(Tommy Dorsey) | マリー(Marie) |
| 7 | エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald) | グッドナイト・マイ・ラヴ(Goodnight , my love) |
| 8 | シェップ・フィールズ・アンド・ヒズ・リッピング・リズム・オーケストラ(Shep Fields & his ripping rhythm orchestra) | ザット・オールド・フィーリング(That old feeling) |
| 9 | ガイ・ロンバード(Guy Lombardo) | イット・ルックス・ライク・レイン・イン・チェリー・ブロッサム・レーン(It looks like rain in cherry blossom lane) |
| 10 | ガイ・ロンバード(Guy Lombardo) | 9月の雨(September in the rain) |
年間ヒットチャートの第1位に輝いたのは、ベニー・グッドマンの「シング・シング・シング」。日本では映画『スイング・ガールズ』にも使われ、日本で最も有名なベニー・グッドマンのナンバーではないでしょうか?2位はこの年から本格的にレコーディングを開始したカウント・ベイシーのテーマ曲『ワン・オクロック・ジャンプ』。他にもデューク・エリントンの『キャラヴァン』やトミー・ドーシーの『マリー』などスイング時代を代表するビッグ・バンドの演奏が4曲もランク・インしているのが注目です。
ビング・クロスビーの『麗しのレイラニ』は、1937年の映画『ワイキキ・ウエディング』で使われた曲で、翌1938年3月に選ばれるアカデミー賞の歌曲賞を受賞しました。1937年クロスビー一番のヒット・チューンです。フレッド・アステアの『誰にも奪えぬこの思い』は、ジョージとアイラ・ガーシュインというゴールデン・コンビによる作詞作曲で、1937年公開のフレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズというこれまた黄金コンビの映画『シャル・ウィー・ダンス』の挿入歌として歌われ大ヒットしたナンバーです。オールド・ファンには涙が出そうな曲ですよね。
第7位にランクされたエラ・フィッツげラルドの「グッドナイト・マイ・ラヴ」は「?」です。この曲は前年1936年11月5日にベニー・グッドマンの楽団に客演して吹き込んだものですが、なぜ、どこが「?」なのかは「エラ・フィッツジェラルド 1936年」をご覧ください。
8位にランクされたシェップ・フィールズ・アンド・ヒズ・リッピング・リズム・オーケストラは、元々クラリネットやサックスをプレイしていたシェップ・フィールズが率いたダンス・バンドです。9、10位のガイ・ロンバードは甘く切ないポップス・チューンを得意にしていた拙HPに度々登場しているダンス・バンドです。この2曲もそんなナンバーです。
前置きはこのくらいにして1937年のジャズの動きを見て行きましょう。
この年もスイングの立役者「スイング王」ベニー・グッドマンから見ていきましょう。まずこの年の1月Tpに弟のアーヴィング・グッドマンに代わってハリー・ジェイムズ(写真右)が入団します。ハリー・ジェイムズと言っても若い方にはピンと来ないでしょうか、ハンサムなトランぺッター兼バンドリーダーとして、昭和のころは日本でも人気がったトランぺッターです。1935年19歳でベン・ポラックの楽団に加わり、翌36年にBGに見出され、BGの楽団に加わります。そこからスター街道を上り詰め、自分のバンドを率いることになります。若きマイルス・ディヴィスはこのハリー・ジェイムズに憧れていたことでも有名ですが、その出世の糸口がBG楽団への入団だったことは間違いないでしょう。ジェイムズは実際実力もあり、BGのTpセクションはこれまでのどのビッグ・バンドにも負けぬほど強力になります。
強力になったBGバンドの実力の度合いを示す逸話があります。後々にまで語り草となったその逸話とは、左の告知のようにチック・ウェッブの楽団とのサヴォイでのバンド対決です。BGとバンドはニュー・イングランドへのツアーを終えて、サヴォイ・ボールルームでチック・ウェッブのバンドと顔を合わせることになります。以前拙HPでも書きましたが、チック・ウェッブといえば合戦狂と言われ、バンド合戦で負けたことがないと言われる強者です。しかしてその結果は…?詳しくは「ベニー・グッドマン 1937年」をご覧ください。
[トミー・ドーシー]
[フレッチャー・ヘンダーソン]
[デューク・エリントン]
この年チック・ウエッブのレコードでは、ほとんどがエラ・フィッツジェラルドのヴォーカル入りとなります。若い割には実力があり、人気も出てきた女性歌手を押し立てるのはこの時代ビッグ・バンド生き残り術の重要なポイントだったのでしょう。詳しくは「チック・ウェッブ 1937年」及び「エラ・フィッツジェラルド 1937年」をご覧ください。
[カウント・ベイシー]
[ジミー・ヌーン]
[ベニー・カーター]
この年もベニー・グッドマンのセッションや自身のブランズウィックにおけるセッション・シリーズなど活発な活動を行います。ブランズウィック・セッションは1935年7月に始まり、1939年1月まで3年半行われるが、最もセッション数が多く、吹き込まれた曲が多いのはこの1937年です。詳しくは「テディ・ウィルソン 1937年」をご覧ください。
テディ・ウィルソンのブランズウィック・セッションと並び称せられるスイング時代の花形セッション、ライオネル・ハンプトンの「オール・スター・セッション」は1937年2月8日から録音が開始されます。ハンプトンは、1930、31年にルイ・アームストロングと共演歴はあるものの全米中に名前を知られているという状況ではなく、地元西海岸で活動しているローカル・ミュージシャンでした。そのハンプトンがベニー・グッドマンと出会ったのは、1936年の夏のことでした。BG側の記載ではBG達が西海岸に公演に行った時、偶然ハンプトンを見出し、カルテットのメンバーとしてBGの公演やレコーディングに同伴するようになります。しかしBGがハンプトンと出会い共演を行うようになってからまだ半年しか経っていません。そんなハンプトンを主役にしたセッション・シリーズをレコード化するというのはいかにも異例のことと思われます。一体どのようにしてこのセッション・シリーズが始まることになったのでしょうか?
1937年5月17日チャーリー・パーカーと共にバップの立役者となるディジー・ガレスピーの記念すべき初レコーディングが行われます。その初レコーディングはテディ・ヒルが率いるNBCオーケストラの一員として、ブルーバード・レーベルへ吹き込まれました。
チュー・ベリーはベン・ウエブスターに次ぐコールマン・ホーキンス派の逸材、コールマン・ホーキンスとソニー・ロリンズを結ぶ巨人と言われますが、僕はホーキンスよりもレスター・ヤングに近い感じがします。それはホーキンスのように力ずくでゴリゴリ押してくる感じではないからですが、これは多分僕の不明なせいでしょう。
[ファッツ・ウォーラー]
[ジャンゴ・ラインハルト]
[ミルドレッド・ベイリー]
[ロバート・ジョンソン]| ミュージシャン名 | 生年月日 | 生地 | 自伝・評伝 | 著者 |
| セロニアス・モンク | 1917年10月10日 | ノース・カロライナ州・ロッキー・マウント | 評伝『セロニアス・モンク』 | ロビン・ケリー |
| チャーリー・パーカー | 1920年8月29日 | ミズーリ州カンサス・シティ | 評伝『バードは生きている』 | ロス・ラッセル |
| チャールズ・ミンガス | 1922年4月22日 | アリゾナ州ノガレス | 自伝『負け犬の下で』 | チャールズ・ミンガス( |
| マイルス・ディヴィス | 1926年5月26日 | イリノイ州オルトン | 自伝『自叙伝』 | マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ |
| ジョン・コルトレーン | 1926年9月23日 | ノース・カロライナ州ハムレット | 評伝『ジョン・コルトレーン』 | 藤岡靖洋 |
| スタン・ゲッツ | 1927年2月2日 | ペンシルヴァニア州フィラデルフィア | 評伝『スタン・ゲッツ』 | ドナルド・L・マギン |
| ビル・エヴァンズ | 1929年8月16日 | ニュージャージー州プレンフィールド | 評伝『幾つかの事情』 | 中山康樹 |
| 穐吉敏子 | 1929年12月12日 | 旧満州国遼陽 | 自伝『ジャズと生きる』 | 穐吉敏子 |
| ウエイン・ショーター | 1933年8月25日 | ニュージャージー州ニューアーク | 評伝『フットプリンツ』 | ミシェル・マーサー |
[セロニアス・モンク]
バードは赤くなり、歯ぎしりを知サックスをケースにしまうと店を出ます。彼が店を出るときジャズメンたちは未だ笑い転げていました。「今に見てろ」彼は自分に言いました。「きっと見返してやる」
[チャールズ・ミンガス]