何といっても大きいのは、第二次世界大戦の勃発です。そもそもヨーロッパでは1939年9月ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻、英仏がドイツに宣戦布告しヨーロッパでは戦端が開かれていました。そして中国に侵攻していた日本が、1941年12月8日ハワイの真珠湾を攻撃しアメリカに宣戦布告します。続けてドイツ、イタリアもアメリカに宣戦布告し、アメリカは日本、ヨーロッパと二方面での戦争へと入り込んでいくのです。結局この戦争は1945年ドイツはヒトラーが4月30日に自殺してナチスは崩壊、イタリアでもムッソリーニがパルチザンに惨殺されて政権が崩壊し、日本も2度原爆投下を受け、8月14日ポツダム宣言を受諾し、アメリカを中心とする連合国側に降伏することで結着します。それまでは戦時下であったことになります。
この戦時下であることはジャズにもいろいろな影響を及ぼすことになります。まずSP盤レコードの原料であった「シェラック」が不足となり、レコード会社はやむなく操業を短縮せざるを得なくなります。加えてガソリンが配給制となるのです。バンドの移動に不可欠なガソリンが入手するのが難しくなり、汽車においても座席確保が出来なくなります。そしてアメリカでも行われた徴兵制により、バンド・マンが次々と兵隊にとられていくようになり、バンド・マン不足の状態になっていくのです。
またAFM(アメリカ音楽家連合会)が吹込みには印税を収めるようレコード会社に要求し対立、この結果1942年8月1日から44年11月30日までレコードの吹込みが停止するという事態に至ります。この期間行われたのは、政府制作の軍用Vディスクと放送用トランスクリプションのみということになります。エリントン・ファンにとって幸いなのは、エリントンのバンドは人気が高かったので、たくさんのVディスク、トランスクリプションが残っているようですが、僕はほとんど持っていません。
ともかく2方面で戦闘を戦い、勝利した国は、第二次世界大戦のアメリカ合衆国しかありません。左ハミドウェー海戦でのアメリカ空母、右は北アフリカ・アルジェリアに上陸するアメリカ軍。そんな中でも、プロ・スポーツは健在で、音楽は流れ、映画も作られ、娯楽産業は縮小されながらも、続いていました。本当にすごい国力です。
MLBのコミッショナーは、真珠湾攻撃を受けてアメリカ国民が憤激し、参戦意向が盛り上げっている中、ルーズベルト大統領に親書を送りました。こんな中でも、野球を続けるべきか否かの議論が起こっていたのです。ルーズベルト大統領は、「野球は続けて市民の娯楽を確保することが望ましい」とする返書を、コミッショナーに送ります。しかし、進んで志願して兵役に就く選手も多かったと言います。
しかし大統領の意向もあり、この年の大リーグは、例年のように開幕したのです。
前年1941年、最多勝(25勝)・最多奪三振(270)のタイトルを獲得したクリーヴランド・イーグルスのボブ・フェラーは戦争勃発後すぐに海軍に入隊したのを初め、またシーズン開幕後に自ら志願して航空隊に参加した選手もいました。コミッショナーは、選手の兵役免除を要求するオーナーやファンの声を聞きながら、国民世論の厳しい声にも対処しなければならなくなりました。
シーズンは、ナショナル・リーグは「セントルイス・カージナルス」が、6年ぶり6度目のリーグ優勝を果たし、アメリカンリーグは「ニューヨーク・ヤンキース」が2年連続12度目のリーグ優勝を果たしました。そして、ワールドシリーズはセントルイス・カージナルスがニューヨーク・ヤンキースを4勝1敗で破り、8年ぶり4度目のシリーズ制覇は達成します。
1941年の映画が対象のこの年の第14回(1942年2月26日発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのはジョン・フォード監督の『わが谷は緑なりき』(How green was my valley)でした。この映画は、最優秀作品賞以外にも、監督賞、助演男優賞(ドナルド・クリスプ)、撮影賞(白黒部門。アーサー・C・ミラー)、美術賞(リチャード・デイ、ネイサン・ジュラン)、室内装置賞(トーマス・リトル)を受賞しました。
同年のアカデミー賞は、ゲーリー・クーパー主演、第一次世界大戦の英雄アルヴィン・ヨーク軍曹を描いた『ヨーク軍曹』(主演男優賞受賞)、オーソン・ウエルズ監督・主演の『市民ケーン』(脚本賞受賞)と、話題作が多かったのですが、選考の人々の心を捉えたのは、一見地味な『わが谷は緑なりき』でした。この作品は、イギリス・ウエールズの炭鉱の町を舞台に、谷間に住む家族の心温まる人間ドラマだそうです(観ていません)。
前回(1941年)触れましたが、ASCAP(American Society of Composers , Authors and Publishers : 米国作曲家作詞家出版者協会)とラジオ局の対立は、BMI(Broadcast Music Incorporated:放送音楽協会)を誕生させ、著作権管理獲得におけるASCAPとBMIの紛争が始まります。この紛争はこの年、1942年に一応の解決をみたそうですが、どう解決したのかは分かりません。
それ以上に、アメリカは、対ナチス・ドイツを中心としたヨーロッパ戦線、対日本の太平洋戦線と二方面の戦争に突入したことにより、「娯楽」への締め付けが行われます。例えば、ジャズ・ビッグ・バンドの主要仕事場だったボールルームやキャバレーなどへの課税強化などが行われます。その上徴兵によって、メンバーが兵役に取られたり、出征のため男性客も激減します。戦時措置として新品の楽器は販売禁止になり、ツアーに必須のガソリンは配給制となり、レコードの原料であるシェラックは品不足でレコードの生産も激減します。音楽産業への逆風はこの年に徹底されていきます。
1942年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。| 順位 | アーティスト | 曲名 |
| 1 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | ホワイト・クリスマス(White Christmas) |
| 2 | グレン・ミラー(Glenn Miller) | カラマズー(Kalamazoo) |
| 3 | ジミー・ドーシー(Jimmy Dorsey) | タンジェリン(Tangerine) |
| 4 | グレン・ミラー(Glenn Miller) | ムーンライト・カクテル(Moonlight cocktail) |
| 5 | ハリー・ジェイムズ(Harry James) | スリーピー・ラグーン(Sleepy Lagoon) |
| 6 | ケイ・カイザー(Kay Kyser) | ジングル、ジャングル、ジングル(Jingle,jangle,jingle) |
| 7 | グレン・ミラー(Glenn Miller) | 真珠の首飾り(A string of pearls) |
| 8 | ウディ・ハーマン(Woody Herman) | ブルース・イン・ザ・ナイト(Blues in the night) |
| 9 | ベニー・グッドマン(Benny Goodman) | ジャーシー・バウンス(Jersey Bounce) |
| 10 | アルヴィノ・レイ(Alvino Rey) | ディープ・イン・ザ・ハート・オブ・テキサス(Deep in the heart of Texas) |
グレン・ミラー(写真左は軍服を着たグレン・ミラー)はこの年も絶好調で、年間トップ10に3曲がランク・インしていますが、何といっても注目は1位の「ホワイト・クリスマス」でしょう。パラマウント映画「スイング・ホテル」の挿入歌で、当初はヒットするとは思われていなかったと言います。ところが実際には大ヒットし、史上最も売れたシングル曲(約5000万枚売れた)と言われているアーヴィング・バーリンの名曲です。
グレン・ミラーの曲は、2、4、7位に入っています。2位の「カラマズー」は、映画「オーケストラの妻たち(Orchestra wives)」の主題歌として吹き込まれました。4位の「ムーンライト・カクテル」は、驚異的テクニックの持ち主として、デューク・エリントンの自伝などに度々名前が出てくる、ピアニスト、ラッキー・ロバーツが作曲した「ナイルのさざ波」をアレンジし、歌詞を付けたもの。7位の「真珠の首飾り」は、実にロマンチックなナンバーで、「ムーンライト・カクテル」と同じで1941年の年末に吹き込まれました。
3位のジミー・ドーシーの「タンジェリン」は、女性シンガー、ヘレン・オコンネルとボブ・エヴァーリィのヴォーカル入りのナンバー。5位は、ベニー・グッドマンの楽団出身のトランペット奏者、ハリー・ジェイムズの「スリーピー・ラグーン」、スロウでメロウなナンバーです。6位のケイ・カイザーはスイート・ダンス・バンドのリーダーで、「ジングル、ジャングル、ジングル」は、その年の映画「フォレスト・レンジャー」で使われたナンバー。8位のウディ・ハーマンが意外です。曲はハロルド・アーレン作で、ブルース・ナンバーではなく、いろいろなアーティストが録音しています。9位のベニー・グッドマン「ジャーシー・バウンス」は、1942年1月15日に吹き込まれたナンバー。この時の録音は、"Benny Goodman presents Eddie Sauter"(Philips B 07010 L)という、エディ・ソーターがアレンジしたものを集めたレコードしか持っていません。この曲は、ピアノのメル・パウエルがアレンジしているので収録されなかったのでしょう。ミディアム・テンポのスインギーなナンバーです。10位のアルヴィノ・レイはギタリスト兼バンド・リーダーです。彼は、1942年メトロノーム・オールスターズにも参加しています。
「メトロノーム(Metoronome)」誌のポール・ウィナーの選出とその結果に基づいたレコーディング4回目は1941年12月31日と42年1月16日、ニューヨークで行われました。今回は「コロンビア」が行う番です。戦争が始まったこの時期、よく実施できたなと思います。諸々プレッシャーもかかったのではないでしょうか?実際翌43年から45年までは、戦争の影響かAFMのレコーディングストのためか、レコーディングは行われていません。全体的には、今回もベニー・グッドマンが仕切っている感じがします。詳しくは、「メトロノーム・オールスターズ 1942年」をご覧ください。
1941年、デュークもその天才を認めたモダン・ベースの開祖ともいうべきジミー・ブラントンが、体調不良(結核)を訴えてバンドを去っていましたが、この年の7月弱冠21歳の若さでこの世を去ります。また当時は戦時下であったことと、レコード会社とAFM(アメリカ音楽家連合会)の紛争により1942年8月1日から44年11月30日までレコードの吹込みが停止したため、この年のエリントンの録音はこれまでと比べれば、極端に数が減ります。詳しくは「デューク・エリントン 1942年」をご覧ください。
デューク同様この年の録音は少なく、僕の持っている音源は、オーケストラは2曲だけです。ただ僕の持っているスト前最後の録音は、7月24日、ピックアップ・メンバーによるもので、全8曲あり、小気味よいスイング感が楽しめます。詳しくは「カウント・ベイシー 1942年」をご覧ください。
時代背景もあってかこの年のランスフォードの録音は、ヴォーカルを加えたポップス調のものが多いような気がします。詳しくは「ジミー・ランスフォード 1942年」をご覧ください。
僕の持っているアール・ハインズの音源は1曲だけです。左の写真は1942年のアール・ハインズと歌手のビリー・エクスタイン。またキャブ・キャロウエィの楽団は、チューが他界し、ディズが去ったこの時期ほとんどジャズ的興味を弾くものではなくなりました。詳しくは、「アール・ハインズ 1942年」、「キャブ・キャロウェイ 1942年」をご覧ください。
僕の持っているアンディ・カーク、ライオネル・ハンプトンの音源はそれぞれ1曲だけです。詳しくは、「アンディ・カーク 1942年」、「ライオネル・ハンプトン 1942年」をご覧ください。
ベニー・グッドマンのこの年も幅広い活動が見られます。しかしAFMによる吹込みストの影響は大きく、7月末を以て録音は途絶えます。写真右は、1942年のベニー・グッドマン。詳しくは、「ベニー・グッドマン 1942年」をご覧ください。
僕の持っているトミー・ドーシーとその楽団の録音は1曲のみ。その1曲とは、映画「デュバリーは貴婦人」に楽団で出演した際のものでした。戦時中にバンドが映画に出演してレコーディングを行う、つくづくアメリカの国力を感じさせます。詳しくは「トミー・ドーシー 1942年」をご覧ください。
ポピュラー・ミュージック年間ヒット・チャートのベスト10に3曲がランク・インするなど、この年もミラー楽団は好調でした。しかしこの年リーダーのグレン・ミラー自身は、進んで兵役につき、1944年のクリスマスに亡くなりますので、一般市民としての吹込みは、この年が最後になります。入隊後は、アーミー・バンドを率いてマーチなどをV-ディスクに吹き込んでいたようです。詳しくは「グレン・ミラー 1942年」をご覧ください。
僕の持っているアーティー・ショウとその楽団の録音は1曲のみです。この年1942年、アーティー・ショウは1月までヴィクターへのレコーディングを行いましたが、その後すぐにバンドを解散し、海軍のサーヴィス・ダンス・バンドを指揮することになったそうです。詳しくは知りませんが、アメリカの海軍は音楽の盛んなところだそうで、左の写真は、ショウには関連ありませんが、1943年の海軍のオーケストラだそうです。すごい数の団員がいますね。アメリカ恐るべしです。詳しくは「アーティー・ショウ 1942年」をご覧ください
僕の持っているボブ・クロスビーのこの年の録音は2曲、ピック・アップ・メンバー「ボブ・キャッツ」によるディキシーランド・ジャズの演奏で、チャーリー・バーネットは1曲のみです。詳しくは、「ボブ・クロスビー 1942年」、「チャーリー・バーネット 1942年」をご覧ください。
前年1941年にバンド・デビューしたスタン・ケントン僕の持っているこの年の音源は、7月にニュージャージー州のザ・メドウブルックに出演した際の放送用実況録音のみです。写真右はその時の写真。詳しくは「スタン・ケントン 1942年」をご覧ください
40年末に突然ベイシー楽団を退団して以来レスター・ヤングの録音数は激減しました。41年レスターは自己の楽団を率いますが、これはわずか約1か月も経たないうちに解体してしまいます。そしてデイヴ・ゲリー著『レスター・ヤング』によれば、42年レスターの吹込みは、アラディン・レコーズに吹き込んだ4曲だけということになります。ゲリー氏によれば、ここで聴かれるレスターの演奏は、ベイシー楽団のアンサンブルの中で、陽気に弾けていた、エネルギッシュで若々しいサウンドとは打って変わって、憂いに沈んだ放心したような演奏であり、ここから<後期レスター・ヤング>が始まるとしています。詳しくは「レスター・ヤング 1942年」をご覧ください。
ビリーは、コモドア・レコーズへの一連の『奇妙な果実』セッション以外、1935年からコロンビアの専属歌手として吹込みを続けてきましたが、この年の2月をもってコロンビア系列(ブランズウィック、ヴォカリオン、オーケー、コロンビアとの)契約は終了となります。これも戦争、AFMのストによる収益悪化が原因でした。この年の録音は他に、6月白人のポール・ホワイトマンの楽団にビリーが客演したものを除いて、録音は無くなります。詳しくは「ビリー・ホリデイ 1942年」をご覧ください。
僕の持っているこの年の録音は、ちょっと不思議でヴィクター録音が2月、コロンビアが3月の録音。コロンビアから移ったヴィクターにベイリーが、コロンビアに戻ったのかな?いずれの録音にも、ここで初めて登場するプレイヤーが参加しています。これまでなじみのあるプレイヤーが兵役に取られ、セカンド・コール、サード・コールさらにはそれ以降のプレイヤーに声がかかったのかもしれません。そういうプレイヤーには、またとないチャンスだったかもしれませんね。詳しくは「ミルドレッド・ベイリー 1942年」をご覧ください。
前年1941年にレコード・デビューした我らがアニタ・オデイ(写真左は1942年のアニタ)、アンドリュース・シスターズも好調でしたが、レコーディング・ストには抗えず、アニタは7月、シスターズは5月を最後にレコーディングは行われなくなります。詳しくは「アニタ・オデイ 1942年」、「アンドリュース・シスターズ 1942年」をご覧ください。
粟村政昭氏はその著『モダン・ジャズの歴史』において、1942年3月2日にチャーリー・クリスチャンが世を去った後、バップ・イディオムに基づく最も初期のレコーディングが行われるまでの間、なお数年間の模索の時を要したと書いています。この間の事情を解明することは、難しいことですが、クリスチャンの死後、パーカー、ガレスピーらの進出を見るまでの2、3年間に後継の指導者を欠いたということと、第二次世界大戦のもたらした、業界全体全体への深甚なる影響と判断すべきであろうとしています。つまりは、1942年から2、3年は大戦の影響で余り進歩は無かったということでしょう。
実際この年のディズの動きを見ると、参加した録音数は実に少なく、僕の持っているのは、ピート・ブラウン率いるブルース・バンドに参加しているくらいで、めぼしい活躍は見られません。その後6月にはレス・ハイト楽団で、7月にはラッキー・ミリンダ楽団で吹込みに参加していますが、刃傷沙汰事件の他に、もちろんこれには大戦とAFMの吹込みストの影響もあったと思われます。ただこの時期のディズの興味は、もっぱら新しいハーモニーの探求にあり、いまだ模索の段階を抜けきっていなかったと言われます。詳しくは「ディジー・ガレスピー 1942年」をご覧ください。
一方チャーリー・パーカーには大きな転機が訪れていました。1941年ジェイ・マクシャンのバンドの歌手であるウォルター・ブラウンの「コンフェッシン・ザ・ブルース」が、50万枚を超すセールスを記録するビッグ・ヒットとなったのです。そしてマクシャンのバンドは、ニューヨークの有名なボールルーム「サヴォイ・ボールルーム」での出演契約が成立します。バンドは42年1月9日からの出演に合わせ、41年末か42年初めにニューヨークに乗り込みます。バンドに在団していたチャーリー・パーカーも当然一緒でした。そしてこの時の演奏が大反響を引き起こすのです。
このように、マクシャンのバンドとパーカーのニューヨーク・デビューは大成功でしたが、バンドにはまだ借金が残っており、より多くの聴衆を得るためにも、巡業を続けなければなりませんでした。彼らはオハイオ州やデトロイトなどにも演奏旅行に行きました。そのツアー中マクシャンにバードを採用したいという、コンタクトがアール・ハインズから寄せられます。ハインズは42年12月バンドのアルト・サックス奏者、スクープス・キャリーからバードの演奏を聴かせるためにクラブに連れて来られて聴き、途端に一遍に気に入ってしまっていたのです。
しかしこの頃にはバードのドラッグ常用はひどさを増していました。そしてバンド・リーダー、マクシャンはバードにクビを告げるのです。こうしてバードはニューヨークに戻り、アール・ハインズのバンドに加わることになるのです。このハインズのバンドで、後に「心臓の鼓動の半分」とまで言い切る、ディジー・ガレスピーと再開します。この二人は依然カンサス・シティで出会っていますが、その時お互い競争意識のようなものを持ったと推測されますが、ハインズ時代にはお互いライヴァルではなく仲間として理解しあうようになっていました。バードは数か月後には、ハインズのバンドを首になるのですが、この間の吹込みはAFMのストのため行われていません。このことはジャズ史上の痛恨事だと、繰り返し言われるようになります。詳しくは「チャーリー・パーカー 1942年」をご覧ください。
1942年ビ・バップ・ムーヴメントの他に、もう一つ大きなムーヴメントが起こっていました。それが西海岸から巻き起こった「ニュー・オリンズ・ジャズ・リヴァヴァル」ムーヴメントです。
「ビ・バップ」ムーヴメントは後に、クールやモダン・ジャズに繋がっていく未来に向けてのムーヴメントですが、「ニュー・オリンズ・ジャズ・リヴァヴァル」ムーヴメントは、どちらかというと古き良きものを見直そう的な、過去に向いたムーヴメントであったため、その後のジャズ界における影響力には差があるような気がします。しかしこの時点で「過去を見直そう」という動きがあったおかげで、取り返しがつかなくなる前に、バンク・ジョンソンやジョージ・ルイスといったジャズ・マンを発掘することに繋がった重要なムーヴメントであったと思うのです。最近このムーヴメントのことが忘れ去られる傾向があるように思いますが、彼らの功績をしっかりと記録に留めることは重要なことだと思うのです。
ただ困ったことに、このムーヴメントに関する資料は非常に少ないのです。正直ワターズ達のニューオリンズ・ジャズへの傾倒が、ビル・ラッセル等へ波及して、後に触れるバンク・ジョンソン達の発掘と繋がったのか、ワターズのニューオリンズ・ジャズへの傾倒とビル・ラッセルらとは無関係に同時進行的に進んだのかは、現時点の僕にははっきり分かりません。ただよく聞く話として、以前から西海岸、特にサン・フランシスコは、ニュー・オリンズ・ジャズがとても人気がある土地柄だったということです。ルイ・アームストロングのバンドを辞したキッド・オリィが移住して住んでいたこともその一要因かもしれません。
その中心人物であるルー・ワターズは、この年3月自身のバンド、「ヤーバ・ブエナ・ジャズ・バンド」(Yerba Buena Jazz Band )を率いて、初めてのレコーディングを行います。因みに「ヤーバ・ブエナ(Yerba Buena)」とは、サン・フランシスコの最古の名前だそうで、「良い土地」ぐらいの意味だそうです。ワターズは1942年に大戦のため海軍に応召され、バンドはこの後解散の憂き目を見ます。そして彼らの次の録音は、大戦終了後の1946年ということになります。詳しくは「ルー・ワターズ 1942年」をご覧ください。
原初のジャズはどのようなものだったのでしょうか?この件については「僕の作ったジャズ・ヒストリー4 … ジャズ以前11」において詳しく触れました。そのヒントになるかもしれないという重要なミュージシャンが、バンク・ジョンソンだったことも触れました。そのジョンソンが発見され、初めてレコーディングを行ったのが、この年1942年でした。
先ず僕が敬服するのは、バンク・ジョンソンを探し求め、録音を続けた、ウィリアム(ビル)・ラッセルやユージーン・ウィリアムスの情熱、そして彼らの創設した、マイナーなインディーズ・レーベル、アメリカン・ミュージック・レコード(American music records)、ジャズメン・レコード(Jazzmen records)と交渉を行い、日本での発売の道を切り開いた河野隆次氏の情熱です。本当に人を動かすのは、人の情熱をおいて他にはないことを、改めて教えてくれます。
ジャズメン・レコード(Jazzmen records)の録音は、1942年10月2日に行われますが、この時期はAFMのスト突入後に当たります。しかし録音ができたということは、レーベル自体がマイナーなインディーズだったことと、ミュージシャン達もユニオンに加入していない、そのためその縛りを受けない、いわばアマチュア・ミュージシャンということでしょう。詳しくは「バンク・ジョンソン 1942年」をご覧ください。
ニュー・オリンズ・ジャズ・リヴァヴァルの一方、白人ディキシーランド・ジャズ・トランぺッターの雄、マグシー・スパニアも活発な活動を続けていました。ただこの年の録音を聴くと、ニュー・オリンズ臭は薄れ、スイング・ジャズに近づいています。彼も時代に合わせなければ、という考えを持つに至ったのでしょうか?詳しくは「マグシー・スパニア 1942年」をご覧ください。
僕の持っているこの年のブルースは3人、ピート・ブラウンとビッグ・メイシオとサン・ハウスです。特にサン・ハウスは10曲と多いが、中にはブルース・ナンバーではない曲も含まれているのと、アラン・ロマックスとの会話を録音した珍しいものも含まれています。これはニュー・ディール政策の一環で、アメリカ文化遺産の保存という意味で録られたのでしょう。詳しくは「ブルース・ピープル 1942年」をご覧ください。
このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1942年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみます。| ミュージシャン名 | 生年月日 | 生地 | 自伝・評伝 | 著者 |
| チャールズ・ミンガス | 1922年4月22日 | アリゾナ州ノガレス | 自伝『負け犬の下で』 | チャールズ・ミンガス |
| マイルス・ディヴィス | 1926年5月26日 | イリノイ州オルトン | 自伝『自叙伝』 | マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ |
| ジョン・コルトレーン | 1926年9月23日 | ノース・カロライナ州ハムレット | 評伝『ジョン・コルトレーン』 | 藤岡靖洋 |
| スタン・ゲッツ | 1927年2月2日 | ペンシルヴァニア州フィラデルフィア | 評伝『スタン・ゲッツ』 | ドナルド・L・マギン |
| ビル・エヴァンズ | 1929年8月16日 | ニュージャージー州プレンフィールド | 評伝『幾つかの事情』 | 中山康樹 |
| 穐吉敏子 | 1929年12月12日 | 旧満州国遼陽 | 自伝『ジャズと生きる』 | 穐吉敏子 |
| ウエイン・ショーター | 1933年8月25日 | ニュージャージー州ニューアーク | 評伝『フットプリンツ』 | ミシェル・マーサー |
[チャールズ・ミンガス]
[スタン・ゲッツ]