僕の作ったジャズ・ヒストリー 26 … スイング時代6 ビ・バップの萌芽 1941年

世界の情勢 … 第二次世界大戦

ロンドン空爆

[ヨーロッパ]
1940年6月ドイツはフランスに侵入しパリを陥落させます。その頃対岸のイギリスでは対ドイツに対し宥和政策を取っていたチェンバレン内閣が総辞職し、チャーチルが率いる挙国一致内閣成立していました。チャーチルは積極的にナチス・ドイツと闘う姿勢を示していましたが、既にフランス北部はドイツに抑えられていたため、1940年6月4日ダンケルクから撤退し、イギリス本土防衛に全力を挙げることとなります。ヒトラーは、このままドーバー海峡を渡ることは不可能とみて、イギリス本土へ激しい空爆を開始します(写真右)。チャーチル率いるイギリスは、この空爆に耐え、ドイツ軍の上陸を許しませんでした。
アメリカはまだ中立を維持していましたが、ファシズムの強大化に危機感を抱き、1941年3月武器貸与法を成立させ、イギリス支援を明確にします。
一方ナチス・ドイツのヒトラーは、1939年8月ソ連のスターリンとの間で、独ソ不可侵条約を結んでいましたが、これは一時的な戦術的策略と考えており、これを守っていくつもりは毛頭なかったと言います。ヒトラーは、そもそもソ連の共産主義に脅威を感じており、さらに劣等民族と考えるユダヤ人やスラヴ人を優越民族であるドイツ人が支配することが必要だという差別意識を持っていたと言われます。そして1941年6月22日独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻(バルバロッサ作戦)し独ソ戦が始まることになります。
一方連合国側は、1941年8月9日アメリカのルーズヴェルト大統領とチャーチルは大西洋憲章を発表、ファシズム国家に対する戦いという戦争目的で一致し、戦後の国際平和機構の再建で合意します。アメリカは正式には参戦はしていませんでしたが、武器や軍需物資をイギリスだけでなくソ連にも供給し、事実上の参戦状態となっていました。
[日本]
日本軍の真珠湾攻撃 日本は膠着する日中戦争の打開を謀っていましたが、アメリカとの戦争は望んでいませんでした。そこで1月日米交渉のため野村駐米大使を派遣します。大使は2月14日ルーズヴェルト大統領と会談を行い、その後はハル国務長官と交渉を継続することになります。
さらに日本は、日中戦争の打開のため、大東亜共栄圏構想を打ち出し、1941年4月に日ソ中立条約を締結した上で、1941年7月、南部仏印進駐を実行、アメリカ・イギリスとの利害の対立は決定的になります。同月ルーズヴェルト大統領は、義勇空軍の中国配置を許可、軍事援助を行うことを明確化します。さらに7月25日には在米対日資産を凍結し、8月1日には石油の対日輸出を全面禁止します。追い込まれた日本は、アメリカに対し日米首脳会談を要請しますが、アメリカはこれを拒否、当時の近衛文麿を首相とする第二次内閣は総辞職し、陸軍大臣だった東條英機を首班とする戦時内閣が誕生します。
アメリカの国務長官ハルは、日本側に中国撤兵要求を提議します(ハル・ノート)。これを日本に対する最後通牒と捉えた日本は、太平洋戦争への道を突き進むことになります。そしてついに日本は12月8日イギリス領のマレー半島に上陸しイギリス軍の拠点があったシンガポールをめがけて進軍します。その1時間後にはハワイの真珠湾にあった太平洋艦隊の拠点を攻撃します。
実は真珠湾攻撃が行われる直前まで、日本はアメリカとの衝突を避けるため、日米交渉を続けていました。そして攻撃の30分前に交渉打ち切りがアメリカ側に通告される予定でしたが、実際に文書が手渡されたのは真珠湾攻撃後になってしまいます。この原因は日本大使館による文書作成の不手際によるものとされていますが、詳しい経緯はわかっていません。なお、イギリスに対しては事前の交渉等が何もなされぬまま攻撃を始めています。これは一方的な武力による侵略と捉えられても仕方ありません。
日本は12月8日午後11時40分に米英に宣戦布告を行いますが、これはマレー上陸の7.5時間後のことでした。米、英両国は即刻日本に対し宣戦布告を行い、米英ソの「連合国」と日独伊の「枢軸国」による、ヨーロッパからアジア・太平洋に広がる世界大戦となるのです。

ルーズヴェルトとチャーチル
[アメリカ]
1940年11月の大統領選で、史上初の3選されたルーズヴェルトは、「アメリカは民主主義国の兵器廠となる」と発言し反ファシズムを鮮明にし、ヨーロッパの戦況や日本の中国侵略を目の当たりにし、5月には「国家非常事態宣言」を発令します。対日本としては、先ほども触れましたが、7月に義勇空軍を中国に配置し、軍事援助を明らかにするとともに、25日には在米の対日資産を凍結し、8月には日本への石油の輸出を全面的に禁止するなど日本を追い詰めていきます。追い詰められた日本からの首脳会談の要請を拒否し、日本側が絶対受け入れられないと思われる中国撤兵を「ハル・ノート」によって求めるのです。その成り行きとして、日本の機動部隊による真珠湾攻撃、そして双方の宣戦布告が行われ戦いは本格的なものとなっていくのです。
対ヨーロッパとして、ルーズヴェルトは8月9日から大西洋上で、イギリス首相のチャーチルと会談を行います。武器貸与法の具体的な適用に関する問題や両国の防衛問題が協議され、その結論として同14日に両者の合意による、いわゆる「大西洋憲章」を発表します。アメリカはイギリス支持を明確にするのです。

ジョー・ディマジオ

アメリカの大衆スポーツ・芸能

[プロ野球]

大リーグは、アメリカン・リーグが前年「デトロイト・タイガース」に優勝を譲ったニューヨーク・ヤンキースが優勝。大黒柱のジョー・ディマジオ(写真左)が56試合連続安打の大記録を達成、打点王も獲得し存在を見せつけます。一方、ナショナル・リーグは「ブルックリン・ドジャース」が21年ぶりに優勝します。ワールド・シリーズでのヤンキースとドジャーズの対決はこれが初めてで、ヤンキースが4勝1敗でドジャースを退けて優勝します。

[アメリカン・フットボール]
NFL(National Football League)の東地区の優勝は「ニューヨーク・ジャイアンツ」、西地区は「シカゴ・ベアーズ」が連覇、チャンピオンシップでは、ベアーズがジャイアンツを37対9で破り、連覇を果たします。またこの年1試合当たりの観客数が初めて2万人を越えます。
[ボクシング]
前年19歳でデビューしたシュガー・レイ・ロビンソンは順調に勝ち星を挙げていましたが、やはりこの時代最大のボクシングヒーローは、ヘビー級チャンピオンだったジョー・ルイスでしょう。 1940年代のテレビ

史上初 … テレビ番組放送開始

アメリカにおいて実験的なテレビ放送は既に1928年からニューヨーク州にあるゼネラル・エレクトリック社の工場から近隣地域において、毎日約2時間程度放送されていました。さらに同年8月には、ラジオ放送と局のコールサイン、何枚かの動画も放送が開始されていました。その後いろいろな基準の統一化や様々な実験を経て、初めて民間の放送局から1941年7月1日ブルックリン・ドジャースとフィラデルフィア・フィリーズの野球の試合の前に有料広告が放送されたのです。その頃アメリカには10の放送局が存在しましたが、第二次世界大戦に参戦した後は、放送を続ける局は6局に減り、放送時間も15時間から4時間に短縮されました。しかし現代では当たり前のように思える民間によるテレビ放送ですが、正にこの年にアメリカにおいてスタートしたのです。

『レベッカ』ポスター
<映画>
この年の第13回(1941年2月末発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのはアルフレッド・ヒッチコックの渡米後第1作となる『レベッカ』(Rebecca)でした。他に作品賞にノミネートされていたのは、ジョン・フォード監督の「怒りの葡萄」(監督賞受賞)、チャーリー・チャップリンの「独裁者」、ジョージ・キューカー監督のコメディ、「フィラデルフィア物語」(主演男優賞受賞)などがありました。チャーリー・チャップリンの「独裁者」は、痛烈にヒトラーとファシズムに対して非難と風刺をこめた作品でしたが、公開された1940年の時点ではまだアメリカは、まだまだ戦乱とは無縁の状態であり、人々の共感を得る状況ではなかったと言われます。
オスカーを獲得した「レベッカ」は、ジョーン・フォンテイン主演のサイコスリラー映画で、フォンテインが結婚した相手(ローレンス・オリビエ)の前妻レベッカの見えない影に精神的に追い詰められていく姿を緊迫したモノクロ映像で、切実に描いていく傑作で、その卓越したカメラ・ワークで撮影賞も受賞しました。僕はずいぶん昔に見ましたが、確かに恐ろしい映画です。

音楽界を取り巻く環境

ASCAPとBMIの紛争
1940年代のラジオ ラジオは1930年代から音楽娯楽の主流になりつつありました。そしてタダで放送される音楽を聴くことができるラジオは、レコードの売り上げやライブ演奏の場に打撃を与える脅威であると見られるようになります。既に大不況が、録音の面でも実演の面でも、アーティストたちの収入を干上がらせていたのです。アメリカ合衆国における権利保護を目的として1914年に設立された、非営利団体のASCAP(American Society of Composers , Authors and Publishers : 米国作曲家作詞家出版者協会)は、作詞家作曲家に代わって著作権料の取り立てを代行していました。ASCAPはラジオ局に対して、実際にASCAPの楽曲をどれくらい使うかに関わらず、局の収入に対し定率の著作権使用料を支払う、ブランケット・ライセンス方式による契約の締結を求め、さらに1939年、この定率の著作権使用料の大幅引き上げを発表します。
これに対して、NAB(National Association of Broadcaster:全米放送事業者協会)はこれに反発、ASCAPに代わって安価に楽曲を提供する団体として、1939年BMI(Broadcast Music Incorporated:放送音楽協会)を設立します。そして1941年全米のほとんどのラジオ局と3大ラジオネットワークすべてが、ASCAPとのライセンス契約の更新を拒み、ASCAPの楽曲を完全に排除して、BMIの楽曲だけを使用するという選択を行います。これまで音楽著作権はASCAPが独占的に一括管理をしていましたが、著作者側、利用者側共に選択肢ができたことを意味します。
後進のBMIは、それまでASCAPが見過ごしていたり、無視していたアーティストたちを探し求めます。またBMIは、多数のカタログの権利を、独立系の音楽出版社や、ASCAPとの契約が切れそうになっている音楽出版社から購入していきます。さらに新たな作家たちを引き寄せるために、BMIは実演回数に応じた定額の印税支払いをソングライターたちや音楽出版社に提示し、あまり楽曲が使われる機会の少ない作家に不利な二重制 (two-tier system) をとっていたASCAPとの違いを示し、管理著作権の拡大を謀っていきます。こうして著作権管理獲得におけるASCAPとBMIの紛争が始まります。
そしてBMIは、これまでASCAPが避けていたブルース、ジャズ、リズム・アンド・ブルース、ゴスペルといった黒人のジャンルに進出していきます。こうしてBMIは黒人のジャンルの演奏者や作家、カントリー、フォーク、ラテン、後にはロックンロールといった分野に強みを発揮する著作権団体となっていくのです。
これでどのようなことが起こったのでしょうか?全米中のラジオ局は当然BMIに登録してある曲を放送していくことなります。つまりラジオではこれまであまりかからなかった、ブルース、ジャズ、リズム・アンド・ブルース、ゴスペルやカントリー、フォーク、ラテンといった音楽がこれまで以上に流れることになります。つまり聴衆はASCAPが管理していたポップス・ナンバーを聴く機会は減りましたが、より幅広い音楽に接触することになるのです。この紛争は1942年に一応の解決をみます。またこの年から始まるテレビの普及も絡んで事態は複雑に変化していきます。 第二次世界大戦時のアメリカ兵隊
第二次世界大戦の影響
冒頭で触れたように、この年米国は対ナチス・ドイツを中心としたヨーロッパ戦線、対日本の太平洋戦線と二方面の戦争に突入します。戦時状態は、当然のこととして先ずは即時不要の「娯楽」への締め付けという形で現れます。ジャズ・ビッグ・バンドの主要仕事場だったボールルームやキャバレーなどに、30パーセントの戦時特別課税がかけられます。これによってボールルームの数は激減し、ビッグ・バンドは窮地に立たされることになりました。その上徴兵によって、メンバーが兵役に取られたり、出征のため男性客も激減します。
戦時措置として新品の楽器は販売禁止になり、ツアーに必須のガソリンは配給制となり、レコードの原料であるシェラックは品不足でレコードの生産も激減します。日本だけでなく、アメリカでも戦時統制はあったのです。アメリカ版「欲しがりません、勝つまでは」ですね。

[ポピュラー・ミュージック]
グレン・ミラー「チャタヌガ・チュー・チュー」SP盤 1941年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
順位アーティスト曲名
グレン・ミラー(Glenn Miller)チャタヌガ・チュー・チュー(Chattanooga Choo Choo)
サミー・ケイ(Sammy Kaye)ダディ(Daddy)
アーティ・ショウ(Artie Shaw)スターダスト(Stardust)
ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド(God bless the child)
ジミー・ドーシー(Jimmy Dorsey)アマポーラ(Amapola)
ジミー・ドーシー(Jimmy Dorsey)グリーン・アイズ(Green eyes)
ザ・アンドリュー・シスターズ(The Andrews sisters)ブギー・ウギー・ビューグル・ボーイ(Boogie Woogie bugle boy)
デューク・エリントン(Duke Ellington)A列車で行こう(Take the "A" train)
グレン・ミラー(Glenn Miller)エルマーズ・チューン(Elmer's tune)
10ジミー・ドーシー(Jimmy Dorsey)マリア・エレナ(Maria Elena)

グレン・ミラーはこの年も絶好調で、年間トップ10にNo.1の「チャタヌガ・チュー・チュー」を初め2曲がランク・イン。しかしそれを上回るのがジミー・ドーシーで3曲をランク・インさせています。他にはアーティ・ショウ、ビリー・ホリデイ、デューク・エリントンと本HPでも取り上げているナンバーが並びます。ブギー・ウギーも人気だったようで、ブギー・ウギー・ヴォーカルの決定版とも言われるアンドリュー・シスターズの「ブギー・ウギー・ビューグル・ボーイ」も大ヒットしています。「アンドリュー・シスターズ 1941年」を参照。
本HPで登場しないのは、2位にランクされたサミー・ケイだけです。サミー・ケイの率いたバンドは"Swing and sway with Sammy Kaye"という一風変わった名前で、典型的なスイート・バンドでした。この"Daddy"は全篇ほとんどがケイ・コーラス(Kaye Choir)による合唱で、デイジー・メイという女性が、「ねぇ、ダディ、ダイヤの指輪が欲しいのよ。新しい車が欲しいわ。」と次々高級品をねだるというコミカル・ソングです。サミー・ケイは太平洋戦争がはじまると、直ぐに「真珠湾を忘れるな」(Remember Pearl Harbor)を作り吹込み大ヒットさせた人物でもあります。
この年はこれまでの常連組、ビング・クロスビー、トミー・ドーシーといった名前が全く見られないのがちょっと寂しい感じがします。

ジャズの動き

1941年のジャズ界を大雑把に言えば、スイングが隆盛の時代といえるでしょう。そして「ビ・バップ」まだまだ芽吹きが始まったばかりですが、前年に比べれば少しつぼみが膨らんだという状況ではないでしょうか?

ポール・ウィナーズ録音 … 第3回「メトロノーム・オールスターズ」

「メトロノーム・オールスターズ」 「メトロノーム(Metoronome)」誌が1939年から始めたポール・ウィナーの選出とその結果に基づいたレコーディングを行う3回目は1941年1月16日ニューヨークで行われました。第1回目は「ヴィクター」に、2回目は「コロンビア」というように2大メジャー・レコード会社がレコーディングを分け合うことになっていたので、第3回目はヴィクターに戻ってきました。
さてこの年の読者投票も相変わらず白人プレイヤーに票が集まり、ポール・ウィナーに輝いた黒人プレイヤーはチャーリー・クリスチャンだけだったそうですが、同誌の編集部で指導的役割を果たしていたジョージ・サイモンは、第2回から黒人プレイヤーも加える決心をし、1940年には2人(ベニー・カーターとチャーリー・クリスチャン)を加えました。そしてこの第3回では6人(クーティー・ウィリアムス、J.C.ヒギンバサム、ベニー・カーター、コールマン・ホーキンス、カウント・ベイシー、チャーリー・クリスチャン)を加えたのでした。いずれ劣らぬ名手揃いですが、「ポール・ウィナーによる」という意味合いは無くなりました。詳しくは、「メトロノーム・オールスターズ 1941年」をご覧ください。

スイング全盛時代 … 黒人ビッグ・バンド

デューク・エリントン

「ジャンプ・フォー・ジョイ」プログラム この1941年という年はエリントンにとって特別な年でした。それはデューク・エリントンの自伝で最も多いページ数を割いているのは、この年に行われた「ジャンプ・フォー・ジョイ(Jump for joy)」についてだからです。しかしこの「ジャンプ・フォー・ジョイ」について、「黄金時代のデューク・エリントン」(RA-5631〜34)の解説を担当している故油井庄一氏は、「エリントンが書いたミュージカルの主題歌」としか記載していません。またエリントン研究で名高い柴田浩一氏も「アメリカ黒人の地位向上のためのミュージカル・ショウ“ジャンプ・フォー・ジョイ”をロスアンゼルのメイアン劇場で行い、エリントンは作、編曲、バンドを引き連れての演奏で3か月上演する。これはハリウッドに住む作者たちのチームがエリントンに白羽の矢を立て、それに応えたもの」と割と扱いは淡々としたものです。総合的な評価はそういうことなのでしょうが、デューク自身は、「『ジャンプ・フォー・ジョイ』の波紋」という1項目を立て、プログラムも掲載し、6頁半に及んで記載しています。エリントンは「波紋」を起こしたと思っているが、実際はそれほどの波紋は起きなかったということなのでしょうか?確かに僕自身デューク自伝を読むまでは、『ジャンプ・フォー・ジョイ』という問題作(?)があることを知りませんでした。
具体的な月日は記載されていませんが、『ジャンプ・フォー・ジョイ』は1941年初夏、ロスアンゼルスのメイアン劇場で初演されました。右はその時のプログラムで、女優であり歌手である「ドロシー・ダンドリッジ」の名前がトップに来ているので主演なのでしょう。ダンドリッジは当時18歳でした。しかしダンドリッジの経歴を見ると『ジャンプ・フォー・ジョイ』は載っていません。記載するほどのことでもないということなのでしょう。
エリントン自身は『ジャンプ・フォー・ジョイ』にイレコミ過ぎの感じがしますが、本職デューク・エリントン・アンド・ヒズ・オーケストラは、「ブラントン=ウエブスター・バンド」の2年目を迎え、ビリー・ストレイホーンのペンも冴えわたり、実に充実した演奏を記録しています。2月には「A列車で行こう」を遠征先のハリウッドで吹き込みます。この年の年間ヒット・チャート8位にランク・インするビッグ・ヒットとなり、後にバンドのテーマ曲ともなりました。詳しくは「デューク・エリントン 1941年」をご覧ください。

メトロノーム・オール・スターズ/ビューグル・コール・ラグ

カウント・ベイシー

ベイシー楽団は前年の1940年12月スター・ソロイストだったレスター・ヤングを失います。退団の理由は、レスターが12月13日の金曜日にレコーディングを行うことを断り退団したというのが定説になっています。そしてその説のもとになったのは1941年1月1日号の「ダウンビート」誌の記事です。しかし『レスター・ヤング』(音楽之友社)の著者ディヴ・ケリーは、そんなことはありえないと書いています。では何が本当の原因かというと、バンド内にもめ事があったようだが、この件に関してはベイシー、レスターとも口を閉ざし語らないので結局のところその原因等は分からないといいます。ともかくベイシーは、その12月13日の録音を、ポール・バスコンという名の代役で凌ぎ、新たにテナーにドン・バイアスを加え、1月28日から吹込み活動を再開します。しかしこの年の吹込みが入手しやすい形で出回っているとは言い難く、僕自身もあまり保有していません。
ベイシー自身は、引き続きベニー・グッドマンの録音に付き合ったり、メトロノーム・オール・スターズに加わったり(写真左)とピアニストとしての活動も行っています。詳しくは「カウント・ベイシー 1941年」をご覧ください。

キャブ・キャロウェイ楽団のディジー・ガレスピー

キャブ・キャロウェイ

キャブ・キャロウェイの楽団はTpセクションにディジー・ガレスピー、Tsにチュー・ベリーを擁する注目のバンドだったことは前回(1940年)の項で書きました。しかしこの年9月ディズはキャロウェイのバンドから追われることになります。「追われた」原因については、資料によって若干の相違があります。
ある資料は、ディズの唾がキャブに当たったことで腹を立てたキャブがディズを解雇するが、これに怒ったディズは、持っていた小型ナイフで刺してしまった、という記述があり、また一方ステージ上演奏中キャブが譜面の束を誤ってディズの椅子の上においてしまった、これを自分に対する嫌がらせと思ったディズは日頃のわだかまりもありついに我慢が出来ず小型ナイフでキャブに突きかけ、ナイフはキャブの足に刺さってしまった云々…。さらにチュー・ベリーは10月31日交通事故に会い、31歳という若さで他界してしまいます。詳しくは「キャブ・キャロウェイ 1941年」をご覧ください。
ジミー・ランスフォード・オーケストラ
ジミー・ランスフォード
ブギーを取り入れたりこの時代らしいスインギーな演奏を聴かせてくれます。ただスイング時代の三大アルトの一人と言われるウィリー・スミスのソロが少ないのが僕として少し不満ではあります。「ジミー・ランスフォード 1941年」をご覧ください。
ベニー・カーター
この年ベニー・カーターはチャーリー・クリスチャンと共に2度目のメトロノーム・オールスターズへの参加や自己の率いるバンドや意外にもアーティ・ショウのオーケストラの吹込みに参加するなど幅広い活動を行っています。詳しくは「ベニー・カーター 1941年」をご覧ください。
アンディ・カークとメリー・ルー・ウィリアムス
「アンディ・カーク 1941年」をご覧ください。
ビリー・エクスタイン
アール・ハインズ
人気ヴォーカリスト、ビリー・エクスタイン(写真右)を擁し、いかにもスイング時代の洗練されたビッグ・バンド・サウンドを響かせていました。またこの年はピアノ・ソロやバンド録音も地元シカゴ以外でもニューヨーク、ハリウッドで録音を行っており、全米中をツアーしていたことがうかがわれます。詳しくは「アール・ハインズ 1941年」をご覧ください。

スイング全盛時代 … 白人ビッグ・バンド

ペギー・リー

ベニー・グッドマン

ベニー・グッドマンのこの年の活動は、自由奔放で幅広いように見受けられます。エリントン楽団から引っこ抜いたクーティ・ウィリアムズ、アーティ・ショウから引っ張ったジョージ・オウルドといった実力派ソロイストを加えたオーケストラや七重奏団、不世出の天才ギタリスト、チャーリー・クリスチャンとの斬新な吹込み、エディー・ソーターの精緻なアレンジの採用、そしてヘレン・フォレストに替わる女性シンガーとしてペギー・リー(写真左)を採用するなど盛りだくさんな活動内容です。一方バンドの顔触れを見るとピアノやドラムが安定していない印象も与えます。一見多彩な活動は方向性が定まっていないとも考えられるのです。ともかくこの年もベニー・グッドマンは話題豊富です。詳しくは、「ベニー・グッドマン 1941年」をご覧ください。

トミー・ドーシー

トミー・ドーシーとその楽団はこの年特に大きな話題は見当たりません。安定的に活動を行っていたようです。詳しくは「トミー・ドーシー 1941年」をご覧ください。

ジミー・ドーシー

この年活動が目立ったのはトミーのお兄ちゃん、ジミ−・ドーシーの楽団です。年間ヒット・チャートのトップ10に3曲もランク・インさせています。この3曲の内、僕がレコードとして保有しているのは「アマポーラ」だけですが、他の2曲もYouTubeで簡単に聴くことができます。3曲ともボブ・エバリーという一昔前の男性ヴォーカリストをフューチャーしたナンバー(2曲はヘレン・オコンネルも加わる)で、ジャズというよりもポップスに近い感じがします。詳しくは「ジミー・ドーシー 1941年」をご覧ください。

グレン・ミラー楽団

グレン・ミラー

ジミー・ドーシー同様ポピュラー・ミュージック年間ヒット・チャートのベスト10に2曲がランク・インするなど、この年もミラー楽団(写真右)は好調でした。詳しくは「グレン・ミラー 1941年」をご覧ください。
リナ・ホーン

アーティー・ショウ

ショウは前年から引き続き、西海岸で活動していました。そしてニューヨークに戻って最初の録音は3月に行われますが、その録音も西海岸同様ストリングスを加えたものでした。しかしこの後ショウはバンド・リーダー歴で3度目のお解散を行うのです。そして元ベルリン・オペラの指揮者であったハンス・バーンズに師事するのです。そしてその期間中に2度に渡ってスタジオ・グループによるレコーディング・セッションを楽しんだと言います。1回目のセッションは、大好きなストリングスに黒人のスター・プレイヤー、ヘンリー・レッド・アレン、J.C.ヒギンバサム、ベニー・カーターを加えるという豪華なものでした。そこには黒人と白人の混血美人シンガー、リナ・ホーン(写真左)が加わっています。
2度目のセッションには、Tpのホット・リップス・ペイジを招聘しています。詳しくは「アーティー・ショウ 1941年」をご覧ください

チャーリー・バーネット

チャーリー・バーネットの楽団は、この年もカウント・ベイシーのエッセンス、デューク・エリントンのエッセンスをうまく取り入れた作品やオペラ「カルメン」のハバネラをジャズ化した作品など、実に意欲的な見事な演奏を記録しています。詳しくは「チャーリー・バーネット 1941年」をご覧ください。

注目ニュー・カマーT … クロード・ソーンヒル

クロード・ソーンヒル(写真右)は1937年から自己のバンドを率いていたそうですが、僕の持っている彼名義の最も古いレコードは1941年吹込みのものです。ソーンヒルの作り出す独特のオーケストラ・サウンドは”サウンド・オブ・クラウド”と言われ、実にユニークなものと言われていましたが、僕がジャズを聴きだした当時彼のレコードは全て廃盤になっていました。そんな折今は無き東京・渋谷のある中古レコード店で彼の25p盤を見つけた時に嬉しさは忘れられません。詳しくは「クロード・ソーンヒル 1941年」をご覧ください。。

注目ニュー・カマーU … スタン・ケントン

スタン・ケントンは、前掲のソーンヒルとは異なり、ちょっと常軌を逸することもあったようだが、常に前進することを忘れないジャズメンの一人として彼の名を上げることに異議を唱える人はいないでしょう。 彼は、1930年代にローカル・ダンス・バンドで働き出し、様々なバンドでピアノを弾きながら、自分のバンドを結成する夢を温めてきたといいます。そして40年には同志を集めリハーサル・バンドを組み、デモ用レコードを作成したり、地方都市のボールルームに単発仕事で出演などしていましたが、バルボア・ビーチにある「ランデヴー・ボールルーム」に出演中にトランスクリプションを録音したいという申し出を受けます。ケントンは、この企画に興味を抱き、実行に移されることになります。そうして最初のレコード盤が作られることになったのです。
このケントンが興味を抱いた新しい試みというのは、史上初の「スタジオ・ライヴ」ということで、録音自体はスタジオで行われますが、そこに聴衆を入れ、いかにもボールルームからの実況録音のような雰囲気を作り出しました。詳しくは「スタン・ケントン 1941年」をご覧ください

他の黒人ミュージシャン

ライオネル・ハンプトン
ライオネル・ハンプトンは、前年にオールスター・セッション・シリーズを終了させ、レギュラー・オーケストラの立ち上げを行います。そして何故かそのピックアップ・メンバーによる吹込みをオーケストラによる録音の前に行います。ピックアップ・メンバーによるバンド「ライオネル・ハンプトンと彼の六重奏団」による演奏は、前年12月と41年4月にヴィクターに吹き込まれます。そしてオーケストラによる録音は、41年12月デッカに吹き込まれます。僕はこのデッカのオーケストラ録音は持っておらず、4月の六重奏団による録音しか持っていません。詳しくは「ライオネル・ハンプトン 1941年」をご覧ください。

ファッツ・ウォーラー
もう一人の大スター、ファッツ・ウォーラーはこの年は36曲もの吹込みを行っています。前年より2曲多い吹込み数です。これは人気があった証拠です。それもこの年は「アンド・ヒズ・リズム」によるコンボ演奏だけではなく、ビッグ・バンドによる演奏も吹き込まれています。詳しくは「ファッツ・ウォーラー 1941年」をご覧ください。
ジミー・ヌーン
僕の持っているこの年の録音は、この時代珍しいシカゴの「イエス・イエス・クラブ(Yes Yes club)」での実況録音。「ボディ・アンド・ソウル」や「メモリーズ・オブ・ユー」と言ったこの時代らしいスタンダード・ナンバーを演奏しているのも興味深い。詳しくは「ジミー・ヌーン 1941年」をご覧ください。
ナット・キング・コール
1940年デッカと契約したナット・キング・コールは、最初の吹込みは当時活躍していた地元ロスアンゼルスで行いましたが、その後コール達トリオはニューヨークに呼ばれ、2回目以降の吹込みはニューヨークで行うことになります。そしてニューヨークにおいて、1941年10月まで計3回のセッションを行い、計12曲の吹込みを行います。詳しくは「ナット・キング・コール 1941年」をご覧ください。
レスター・ヤング
前年1940年末に突然ベイシー楽団を退団したレスター・ヤングはこの年グッと録音数が減ります。レスターは2月27日に自己の楽団を率いますが、これはわずか約1か月も経たないうちに解体してしまいます。僕が持っているのは、約9か月ぶりに参加したビリー・ホリデイのレコーディングのみです。詳しくは「レスター・ヤング 1941年」をご覧ください。

アルバート・アモンズとピート・ジョンソン

ブギー・ウギー・マスターズ

ザ・アンドリュー・シスターズの「ブギー・ウギー・ビューグル・ボーイ」の大ヒットに見られるようにこの年もブギー・ウギー人気は健在だったようです。本家本元のアルバート・アモンズはピート・ジョンソンと共に(写真左)ゴキゲンなブギーを吹き込んでいます。詳しくは「アルバート・アモンズ 1941年」「ピート・ジョンソン 1941年」をご覧ください。
僕の持っているこの年唯一のミード・ラックス・ルイスの録音は、エドモンド・ホールの初リーダー作で、チャーリー・クリスチャンが生ギターで参加していることで話題となったアルバムである。なおそこでルイスは、ピアノではなくチェレスタをプレイしているのである。詳しくは「ミード・ラックス・ルイス 1941年」をご覧ください。

シンガー達

ビリー・ホリデイ
ビリーはこの年も好調で、注目すべき録音も多いように思えます。3月にはレスター・ヤングを加えたエディ・ヘイウッドのオーケストラをバックに素晴らしいパフォーマンスを記録していますし、5月には大ヒットとなった「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」を自己名義のオーケストラをバックに吹き込みます。「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」は、自伝『奇妙な果実』によれば、母親とお金のことで喧嘩した後に作った曲だそうで、それを反映してか「ビリー・ホリディ物語 第5集」では、「財はみずから築くべし」という邦題が付けられています。また8月には約1年ぶりにテディ・ウィルソンの楽団をバックに名唱を残しています。詳しくは「ビリー・ホリデイ 1941年」をご覧ください。
エラ・フィッツジェラルド
残念ながら僕はこの年のエラ・フィッツジェラルドの録音を持っていません。

ミルドレッド・ベイリー
僕の持っているこの年の録音はヴィクターから出ていたレコード。ベイリーはコロンビアから移籍したのかもしれない。これらの録音でも黒人コーラス・グループをバックに付けるなど、意欲的な作品が目立ちます。詳しくは「ミルドレッド・ベイリー 1941年」をご覧ください。

アニタ・オデイ&ジーン・クルーパ

注目ニュー・カマーV … アニタ・オデイ

拙HPでは、この年ペギー・リー、リナ・ホーン、ヘレン・オコンネルといったその後大成していく歌手がこの年デビューしていますが、自分の好みで申し訳ないですがアニタ・オデイに注目していきたいと思います。アニタは1939年1月19歳の時、マックス・ミラーのコンボに加わり、シカゴの“オフ・ビート・クラブ”に出演しプロとしてのキャリアをスタートさせます。その後ニューヨークに進出、約1年間52丁目のクラブ“スリー・デューセズ”にマックス・ミラーのトリオと出演している所をジーン・クルーパに見初められて引き抜かれ、41年3月にジーン・クルーパのバンドに迎えられます。そしてクルーパのバンドで、3月12日に初レコーディングが行われことになります。
僕はアニタのファンなので、どうしてもアニタ中心に見てしまいますが、本来はジーン・クルーパの率いるビッグ・バンドが中心で、そこに加わった新人歌手がアニタ・オディだったと見るべきでしょう。右はクルーパとアニタ、可愛いですよね。
クルーパのバンドには、スイング時代最高の黒人トランぺッターの一人と言われるロイ・エルドリッジが加わり、アニタとロイの掛け合いのヴォーカルも楽しく、バンドは強力な魅力を備えることになります。詳しくは「アニタ・オデイ 1941年」をご覧ください。

ブルース・ピープル

ビッグ・ジョー・ウィリアムス、サン・ハウス、スリーピー・ジョン・エステス達のこの年に吹き込まれたレコードを取り上げています。詳しくは「ブルース・ピープル 1941年」をご覧ください。

ビ・バップの萌芽

粟村政昭著『モダン・ジャズの歴史』

何を以て「ビ・バップの萌芽」とするのかは多変難しい問題です。僕はミュージシャンに焦点を当ててみていきたいと思っています。というのは「音楽」というものは人間がするものであり、その人が行ったプレイなり行動が他のプレイヤーに影響を与え、ある傾向の演奏が増えてくる、それが音楽の、この場合はジャズの潮流になっていくものだと考えています。先ずは音楽ありきであり、それはプレイヤーありきなのです。そういった「流れ」を「スイング」と呼んだり、「ビ・バップ」と呼んだりするもので、「ビ・バップ」という名称は後です。
現に1940、1941年当時「ビ・バップ」という言葉はありませんでした。あったとしても1940年頃から演奏されるようになった、スイングとは異なった傾向を持つ、この新しい音楽を指す言葉としては使用されていませんでした。「ビ・バップ」(Be-bop)という名称は、1945年にチャーリー・パーカーが加わったディジー・ガレスピーのバンドが吹き込んだ「ビ・バップ」(Be-bop)に由来します。多分それまでは、ジャム・セッションなどで行われる少人数(コンボ)による、踊れない、なんか面倒くさい音楽くらいに捉えられていたのではないかと思います。
粟村政昭氏はその著『モダン・ジャズの歴史』(スイング・ジャーナル社 1977年発行)で、「モダン・エイジへの胎動が、時を同じくしてニューヨークへ集まってきた複数のミュージシャンたちの共同作業のごとき形を取って進行し、しかもメロディ、リズム、ハーモニーの三面にわたる大規模な改革となって表れた。この改革の結果として生まれた新しいジャズのスタイル」をビ・バップと呼んでいます。一方村井康司氏はその著『あなたの聴き方を変えるジャズ史』(シンコーミュージック 2017年発行)において、「1980年代ぐらいから、それまでごく少数の人しか聴くことができなかったチャーリー・パーカーの初期音源が次々と公にされるようになり、(中略)ビ・バップの音楽的語法は、チャーリー・パーカーという一人の天才によって開発されたと思わざるを得ない」と述べています。果たしてどうでしょう?「ビ・バップ」はミュージシャンたちの共同作業によって形作られたのかあるいは一人の天才が創り上げたのか?僕は粟村政昭氏に与します。「ビ・バップ」を「モダン・エイジへの胎動」への一過程と考えるならば、如何に天才が飛び抜けたことをなそうと誰も追随するものがいなければ、その人一代限りで終わり、次の時代にはつながりません。そして「ビ・バップを生んだミントンズで行われていたセッションが骨肉相食むような激しいプレイの応酬だったように書かれているが、最初からそうだったわけででも1日でそうだったわけでもなく、長い年月のうちにそういう傾向になっていったんだ」とセロニアス・モンクは述べています。「ビ・バップ」は、1日にして為らずです。そういったこと観点から、出来るだけ年月に沿ってこのムーヴメントを見ていくことにしましょう。

ジェリー・ニューマン・レコーディングス
ジェリー・ニューマン ビ・バップ勃興期の最重要レコードとして、必ずと言っていいほど挙げられるのが、「ミントン・ハウスのチャーリー・クリスチャン」というレコードです。このレコードは、素人ジャズ録音マニアであるジェリー・ニューマンという人物によって録音されました。勿論ニューマンが録音を行ったのは、クリスチャンだけではありません。本題に入る前にこの「ジェリー・ニューマン・レコーディングス」について簡単に触れておきましょう。
ジェリー・ニューマン(写真右)は1918年生まれ、1940年時点で22歳、コロンビア大学のジャズ好きの学生で、自身大学のマーチング・バンドでトロンボーンを吹いていました。そして彼はアセテートのディスクに直接カッティングできる「ウィルコックス・ゲイ・レコーディオ」(Wilcox-Gay recordio)という持ち運びできる「ディスク・カッター」という録音機を持っていたのです。この機械は12インチのアルミ基板のアセテート盤にカッティングするもので、それまでの10インチ78回転盤は3分しか録音できませんでしたが、この12インチ盤は33.3回転で片面約15分の録音が可能でした。最初は単なる趣味で、ラジオ番組や、ミュージシャンたちの非公式なセッションを録音していました。
その内にニューマンは、1941年2月仲間たちとコロンビア大学内でラジオ・クラブを作り、学生寮内でジャズの放送を開始します。彼らは「ミントンズ」で演奏されている音楽を学内ラジオ聴取者たちに紹介することを企画します。すなわちミントンズでの演奏を幾つか録音し、丘を駆け上ってアセテート盤を運び、まるでミントンズでライヴを聴いているかのように、その晩キャンパスで再生したのです。
後にこうした録音のいくつかをニューマンはヴォックス(VOX)・レーベル、自身のレーベル、エソテリック(Esoteric)・レーベルで発表しました。これが「ジェリー・ニューマン・レコーディングス」です。
彼のこれらの録音が重要視される訳は、ビ・バップの温床と言われた「ミントンズ」や「クラーク・モンローズ・アップタウンハウス」における後にビ・バップの重要な立役者となるミュージシャンの録音を捉えていたことが挙げられますが、彼自身がこうした新しいジャズの動きなどに興味を持っていたかというとどうもそうではなさそうです。たまたま録音したものの中にこうした重要な演奏が含まれていたというのが正解のようです。彼のこうしたプライヴェイト・レコーディングは、1941年12月彼が徴兵されたことで終わりを告げます。
詳しくは「ジェリー・ニューマン 1940年」及び「ジェリー・ニューマン 1941年」をご覧ください。

ミントンズ・プレイハウス
ミントンズの前で−モンク〜ハワード・マギー〜ロイ・エルドリッジ〜テディ・ヒル(左から右) かつてニューヨークのパークアヴェニューを北に突き切るとそこが有名な110丁目、さらにそのまま上がった118丁目を左に曲がった左側に「ホテル・セシル」というホテルがありました。ホテルの玄関を入ると右がロビー、左がバーになっていて、「ミントンズ・プレイハウス」はそのロビーの行き止まったところにありました。同店は60年代に衰退し1974年に閉店します。30年以上シャッターが閉じられたままでしたが、2006年5月29日「ミントンズ・プレイハウス・アップタウン・ラウンジ」の名前で装いも新たに再開しましたが、2010年に再び閉鎖されてしまいます。
「ミントンズ・プレイハウス」のオーナーはヘンリー・ミントンといい、現在ネット調べても、「ミントンズ・プレイハウス」を開設した人くらいの情報しか載っていませんが、かつては黒人として初めて「アメリカン・ミュージシャンズ・ユニオン・ニューヨーク支部」(Local 802)の代表に選ばれた人物で、自身もサキソフォン奏者でした。
彼は1938年、ホテル・セシルの一部であったみすぼらしいダイニング・ルームを手に入れ、1940年秋(10月と言われる)に古い友人たちのための一種の溜り場のようなクラブに改装します。クラブの名はオーナーの名を取り、「ミントンズ・プレイハウス」と呼ばれ、テナー・サックス奏者のハッピー・コールドウエルをリーダーとする小バンドが、ハウス・バンドとして穏やかな音楽を提供していたといいます。ロス・ラッセル著『バードは生きている』によると、この場所はホテルの食堂として機能していたが、音楽に関してはまったく無方針だったそうです。店は寂れる一方で、とうとうミントンは新しいマネージャーを雇わなくてはならなくなったのだといいます。そして白羽の矢を立てたのが生真面目な顔をした信頼のおける人物テディ・ヒルでした。という経緯でテディ・ヒルがマネージャーとなり、かつてのサイドマンであったケニー・クラークをハウス・バンドのリーダーに据えたころから、クラブの体質はガラッと変わり始めます。
ジェリー・ニューマン テディ・ヒル(写真右)は、ディジー・ガレスピーが初レコーディング及び初ソロ・レコーディングを行ったバンドのリーダーとして既出です。ヒルは30年代後半、ロイ・エルドリッジ、チュー・ベリー、フランキー・ニュートン、ディジー・ガレスピー、ディッキー・ウエルズと云った腕利きを傘下に収めた一流バンドのリーダーでしたが、1940年ワールド・フェアへの出演料を巡ってブッキング・オフィスとトラブルを起こし、やむなくバンドを解散せざるを得なくなり、ミントンズに身を寄せていたのです。ロス・ラッセル著『バードは生きている』によるとテディ・ヒルという人物は結局何をしても大した成功を収めるには至らなかったが、芸能界には顔が広く知恵も働く人物だったそうです。そのヒルはミントンに向かってこう言います。「お抱えバンドを入れて、ジャム・セッション歓迎ってことにしたらいいじゃありませんか。それから月曜の夜、アポロのステージ・ショウに出ている芸人たちに食事をおごるんですよ。劇場の掲示板に張り紙して、出演者は皆招待するんです」と。月曜の夜と言えば芸能界の日曜日、芸能人はヒマなのでした。
このヒルの提案するミントンズの「セレブリティ・ナイト」は間もなく全米の芸能人に知れ渡るようになります。そしてミントンズのビュッフェ・スタイルの食事には黒人芸能人たちが子供のころ親しみ、巡業に出たら滅多に味わうことが出来なくなるあらゆる種類の食事が取り揃えられたそうです。それは本物のクレオール料理などで、つまりソウル・フードの専門店を開いたようなものでした。そして40年代初頭、この店は月曜の夜に訪れるべき場所に変わっていました。さらにラッセルはこう付け加えます。「ヒルは、かつて一緒に仕事をしたオリヴァーやサッチモらが演奏する20年代のジャズはもう古くなり、スイングもすでに袋小路に入り込んでいるということを知っていた。また新しい考え方、新しい声、そして自分の楽器を知り尽くし、そこから自在な音を引き出してくる若い世代が台頭しつつあることも知っていた。そしてそのような新しいプレイヤーたちを有名なスターたちと同時にミントンズに集めたいと考えた」と。もしそうなら、ヒルはジャズの真っただ中にいながら、後から歴史を振り返るように的確にジャズに何が起こりつつあるかを捉えていたことになります。このようにヒルが打った手を見ると、彼の状況分析力、企画力、実践力がズバ抜けていると思わざるを得ません。しかしなぜそんなすごい人物が、「大した成功を収めるには至らなかった」のか不思議ですが。

ミントンズ・プレイハウスとバップ

ケニー・クラーク このようにヒルは、店にリズム・セクションと管1本だけのハウス・バンドをおき、ジャム・セッションの場として開放したのです。そしてそのハウス・バンドのリーダーには、なんと1年足らず前に「テンポを崩し過ぎる」という理由で自己のバンドをクビにしたドラムのケニー・クラークを呼んだのです。ヒルがクラークを呼んだ真意は測りがたいものがありますが、一番ビックリしたのは、当のクラーク自身だったようで、クラーク自身後にこう語っています。「連絡を受けて、私は少々驚いた。しばらくヒルと話し合って、私は彼の狙いを理解した」と。
クラーク以外のメンバーは、ピアノにセロニアス・モンク、ベースにニック・フェントン、管1本はトランペットのジョー・ガイでした。粟村氏は、当時フェントンはレスター・ヤングのコンボのレギュラー・メンバーであった可能性が高く、毎夜10時のファースト・ステージに欠かさず顔を連ねていたかどうかは疑問であり、モンクも9時に顔を出して10時にはいなくなるというマイペース人間だったこともあり、ケニー・クラーク・カルテットはハウス・バンドと言いながら、実際には流動性のある編成であったのだろうとしています。
マネージャーとしてのヒルは、クラブで演奏される音楽の内容については一切口出ししませんでした。これがミントンズにおけるアフター・アワーのジャム・セッションの隆盛を招き、引いてはビ・バップの発生につながる実験的な場を、数多の新人たちに提供することになったのでした。
粟村氏によれば一連のジャム・セッションには新旧取り混ぜて様々なタイプのミュージシャンが参加しました。その中には当時すでに確たる名声を維持しているプレイヤーもいたとしてドン・バイアス、アール・ハインズ、レスター・ヤング、チャーリー・クリスチャンたちがあり、キング・オブ・スイングのベニー・グッドマンも時折姿を見せ絶大な敬意を持って迎えられたと書いてあります。そして少し遅れてガレスピー、バード、バド・パウエル、タッド・ダメロン、オスカー・ペティフォードらも姿を現すようになり、次第にここでのジャム・セッションは従来のスイング・ジャズの表現に飽き足らぬ人々にとって、またとない実験と研鑽の場に変容していったというのです。

ロス・ラッセル『バードは生きている』 ロス・ラッセル『バードは生きている』の記述は、上記粟村氏の記述と若干ニュアンスが異なります。ラッセルは「ミントンズはジャズの他流試合の一騎打ちの場として出発し、ついには泥まみれの戦場と化していった」と書いています。41年春のセッションでは旧世代の一流オーケストラで無敵を誇った、サキソフォンではコールマン・ホーキンス、ベン・ウエブスターの他ジョニー・ホッジス、ベニー・カーター、ウィリー・スミスの三大アルト、トランペットではクーティー・ウィリアムス、ハリー・ジェイムス、ロイ・エルドリッジなどピアノではテディ・ウィルソン、ジェス・ステイシーが参戦しました。そして一流バンドのリーダーたちデューク・エリントン、アンディ・カーク、カウント・ベイシー、アーティー・ショウらも腕を競い合ったと書いています。クラリネットのショウが参加したのも意外だが、僕が最も意外なのはエリントンです。いったいどんな感じだったのであろうか?またそこではBGも単なるプレイヤーとして勝負をしなくてはならない存在で敬意を払われたとは書いていません。
もちろん実際はどうであったかなど僕に知る由もありませんが、友好的な温和なセッションが行われた晩もあれば、負ければ楽器をしまい尻尾を巻いて帰らなくてはない戦場と化した晩もあったのでしょう。
しかしともかくこのような熱い坩堝の中で1941年〜44年にかけてスイングは新しいジャズのスタイル、ビ・バップへと変わっていったのであるとラッセル氏は書いています。
このミントンズがどんな雰囲気でどんなふうだったかは、実際にミントンズにデビューした人間に聴いてみるのが良いでしょう。誰かって?マイルス・ディヴィスです。彼は自叙伝の中でかなり詳しくミントンズについて触れています。と云ってもマイルスがニューヨークに出てきたのは1944年9月のことです。つまりミントンズも黎明期ではなく大分ミントンズ・スタイルが定着していたと思われますが。
マイルス曰く、「ミントンズもホテル・セシルもどちらも特徴のある一流の場所だった。ここに来ていたのはハーレム黒人社会の中心人物たちだった。みんなヒップでカッコ良かった。俺に言わせればミントンズこそあの時代のミュージシャンの夢だった。今頃は「ザ・ストリート」(52丁目)が夢だったなんて言う奴がいるが、それは間違いだ。ミントンズで本気で腕試しをしてそれから52丁目に行ったものなんだ。ミントンズの試練に比べたら、52丁目の演奏なんて軽いものだった。ミュージシャン仲間で評判をとるにはミントンズに行かなきゃならなかった。たくさんの若いミュージシャンがあそこで多くを学び、育って行った」と。続けて「ミントンズではダメな連中が入ってこないようにみんなすごい演奏をしていた。並みの演奏しかできないやつは皆に無視されたり、ブーイングを浴び恥をかくだけだった。それだけで済まないこともあった。ダメなやつは、本当に蹴飛ばされたりもした。あそこでは凄い演奏をするか、静かに聴くかのどちらかで、中間はあり得なかった」

なぜバップか?

「マイルス・ディヴィス/ファースト・レコーディング」CDジャケット ここの部分は個人的なことになります。僕はこの「バップ」という言葉にあるこだわりを持っています。それは左のCDの油井正一氏による解説です。「マイルス・ディヴィス/ファースト・レコーディング」は、後に”帝王”と呼ばれるマイルス・ディヴィスの初録音を収めたCDとしてつとに有名ですね。
さて、マイルスは1945年4月24日コメディアンで歌手でもあるラバーレッグズ・ウィリアムスの録音に参加します。ラバーレッグズ自身はディジー・ガレスピーの参加を希望しましたが、ディジーとチャーリー・パーカーの推薦によって、マイルスが入ることになりました。マイルスに録音の経験をさせ少し稼がせてやろうという先輩の思いやりでしょう。
ハービー・フィールズ さてこの録音の名義は、”Rubberlegs Williams with Herbie Fields’band “となっており、ラバーレッグズのバック・バンドのリーダーは、ハービー・フィールズ(Herbie Fields:写真右)でした。僕が気になったのはこのハービー・フィールズに関する油井正一氏の記述です。
「フィールズのプレイは、バップが分からずバップらしきでたらめを吹いている感じで、とてもジャズの未来を担う新人とは思えない」と厳しく批判し、さらに「エスクワイヤー誌ではニュー・スターのウィナーになっているが、バップは分からない。過大された評価と自分の実力に悲観して自殺して果てたのだった。」と身もふたもなく切り捨てています。ここまで厳しい批評は珍しいのではないでしょうか?まるでバップが分からないから自殺したとでも言っているようです。ちなみにマイルが初レコーディングを経験したこの年にハービーは、エスクワイヤー誌ではニュー・スターのウィナーになっています。
ハービーは亡くなるときには、マイアミでレストランを経営し順調だったといいます。かつて音楽界で鳴らし、人気のレストランのオーナーで経済的にも安定している、そのような男が「バップが分からない」ということで自殺するでしょうか?今更真実を突き止めようもなく、まあ人生は色々なのでそういうことあるのだろうと割り切らざる得ませんが、僕が気になるのは油井氏の発言で、油井氏はバップが分からないジャズ・ミュージシャンは死んでも仕方がないくらいの勢いですが、バップとはそんなにすごいものなのだろうか?これが分からないと死に値するほどのことなのだろうか?そもそもバップとは何なのだろうか?このことこれが僕が「バップ」に拘る理由です。

「バップ」論については、これからも少しづつ触れていくとして具体的に、ミュージシャンとその音源について見ていきましょう。粟村政昭氏がまず注目するのは<チャーリー・クリスチャン>です。

チャー・リー・クリスチャン

「チャーリー・クリスチャン/アット・ミントンズ」レコード・ジャケット

1939年ジャズ界に鮮烈なデビューを果たしたクリスチャンは、この年の6月を最後に録音は全くなくなります。活動期間は約2年弱、これでジャズ界に革命を起こしたのです。彼は1940年ごろに罹ったとされる肺結核が徐々に彼の体を蝕んでいたのです。彼は医師から摂生をするよう言われていたにもかかわらず、女遊びとマリファナそして寝る間を惜しんでの深夜のジャム・セッションを控えることはなかったといいます。1941年の暮れごろから入院し、年が明けてしばらくした3月2日ついに帰らぬ人となってしまいます。わずか25歳という若さでした。つまりこれ以降クリスチャンの音源紹介はありません。ちょっと長くなりますが、クリスチャンの功績についてまとめていきたいと思います。
クリスチャンの重要性について最も高く評価し、詳しく述べているのは粟村政昭氏だと思います。ここはまず粟村氏の主張について耳を傾けてみましょう。曰く、
「ジャズマンとしてのクリスチャンのルートは、衆目の一致するところブルースにあった。しかし現実の演奏に当たって先ずものを言ったのは、彼が持っていた無限の泉のごときリフ・メイカーとしての才能であった。クリスチャンは自在に弾き出したリフの連続によって、たくまずしてテンションを創り出し、続くメロディ・ラインによってそのテンションを持続させ、あるいは緩解させ、ソロ・コーラスを常に印象的な起伏あるものにした(この事例として41年3月録音に偶然録音された"Waitin' for Benny")。こうした表現法を巧みに駆使することによってクリスチャンもまた、レスター同様お決まりの長さのフレーズでソロ・コーラスを分割するという、いささかの単調さから逃れ得たのである。
同時に彼はスタッカートよりもレガートを重視し、あたかもサックスを思わせる独自のフレージングによって、従来のギター・ソロの概念を塗り替えた。等価八分音符の連続する長いフレーズは、後にパーカーによって確立されたビートの細分化に通ずる先駆的感覚としても注目を集めた。クリスチャンのフレージングはこの意味で、確かに<レスターに発し、パーカーに至る>過程のジャズ・インプロヴィゼーションを代表するものと言える。
チャーリー・クリスチャン だが、こうしたメロディ面におけるユニークなコンセプションもさることながら、クリスチャンをして「スイングからモダンへの過渡期に現れた、最初の強力な指導者」たらしめた最大の要因は、ハーモニーとリズムの両面における、時代に先駆けた新しい感覚にあった。クリスチャンが残した限られた数の録音を耳にして、典型的なバップの作品の間に明らかな距離を指摘することは容易であろうが、それでもクリスチャン以前のソロイストで、パッシング・コードに基づくアドリブを試みた人はいなかったという事実を知り、BGセクステットの"Blues in B"や"Airmail special"に聴かれる明瞭なオフ・ビート・アクセントの効果を認め、さらには"Seven come Eleven"に聴かれるバピッシュ(バップぽい)フレーズが、1939年11月に録音されたという驚異を素直に評価するならば、ミントンズ・プレイハウスにおける有意義なジャム・セッションが始まる以前に、すでにモダン・エイジへの重い扉が、クリスチャンの手によって、少しづつ開かれていたという事実を認めざるを得まい。
こうしたクリスチャンは、その独創的なアイディアの片鱗をBGコンボのいくつかの録音の中に散発的にとどめてはいたが、やがてアマチュア技師ジェリー・ニューマン氏の手によって録音されたミントンズ・プレイハウスにおけるジャム・セッションの模様がレコード化されたとき、世人は改めて、モダン・エイジの先覚者としてのクリスチャンの偉大さに目を見張ることとなった。このニューマン氏のプライヴェーと録音は、内外共に何度となく形を変えてLP化されているが、"Topsy"のコードに基づいた"Swing to bop"と、これまたかなり長尺の"Stompin' at the Savoy"の2曲に加わったクリスチャンは、彼がそれまでに残したあらゆる録音を凌駕するほどの、長いバップ臭豊かなフレーズを弾いて、我々を驚かせたのである」と。
この年の録音については、「チャーリー・クリスチャン 1941年」をご覧ください。

ディジー・ガレスピー

ディジー・ガレスピー

前年の項で書いてしまいましたが、ディズはこの年41年9月まで、キャブ・キャロウェイの楽団に在団し、ここを追われましたことは、上記「キャブ・キャロウェイ」の項で書きました。僕はこの話を初めて読んだとき、何度か来日公演を見(テレビでだが)、ユーモアたっぷりで愉快なオジサン風のディズが人をナイフで刺すなどとはとても信じられませんでした。しかしいかなる事情があるにせよ、所属するバンドのリーダーを傷つけるということは、その後の音楽活動に支障が出て当然と思われますが、ディズは翌42年6月にはレス・ハイト楽団で、7月にはラッキー・ミリンダ楽団で吹込みに参加していますので、この事件のマイナス面での影響はそれほど大きくなかったと見て差し支えないと思われます。バップ発展史的な意味合いでいえば、ディズの興味は、もっぱら新しいハーモニーの探求にあり、いまだ模索の段階を抜けきっていなかったと言われます。詳しくは「ディジー・ガレスピー 1941年」をご覧ください。

チャーリー・パーカー

この年はパーカーにとって画期的な年になりました。パーカーは在団していたジェイ・マクシャンのバンド(写真右)は1940年末巡業を終え、暮れにカンザス・シティに戻ってきました。このツアー中ウィチタにおいて、熱狂的なジャズ愛好家である、ピート・アームストロング氏等によって録音が行われました。この録音とそれ以前の<ハニー・アンド・ボディ>は、ジャズに革新をもたらす録音で、評論家のカール・ウォイデック氏や村井康司氏などはこの時点で、バードはバップが完成しているとさえ記述するほどでしたが、その録音はプライヴェイトなものであり、一般に知られることはありませんでした。当時それを知るのは、周りのミュージシャンと実際に演奏に触れた聴く耳を持った聴衆だけで、レコードやラジオというメディアで拡散されることはありませんでした。
ともあれ、マクシャンの楽団の1940年のツアーは評判が高く、1941年の春には、このバンドの先の見通しはかなり明るいものとなっていました。そしてダウンビート誌のジャズ記者デイヴ・デクスターは大手のレコード会社に彼らの演奏を録音するように働きかけてさえいたといいます。1941年のツアーは3月に始まり、バンドは大西洋岸そして南部に向かいます。そしてニュー・オリンズでの仕事が終わったところへ、デッカのダラスのスタジオで、レコード6面分の録音をする契約が成立したという連絡が届くのです。ここにパーカーを擁していたマクシャン楽団は商業会社への初吹き込みをすることになるのです。勿論パーカーにとっても初の商業レコーディングです。デッカはデイヴ・キャップをテキサス州ダラスに送り込んで、41年4月30日6曲の録音を行います。
『チャーリー・パーカー』(カール・ウォイデック著 岸本礼美訳 水声社)によれば、ジェイ・マクシャンたちはいつものレパートリーの録音を希望し、数多くの収録を行ったそうですが、プロデューサーのディヴ・カップはブルースとジャンプ・ナンバーにしか興味を示さず、このうち6曲が発売されることになりました。しかもパーカーはこのうちの3曲にしか参加をしていません。しかしこの吹込みが、販売目的であったことが、大きな意味を持つことになります。その内の1枚はA面がウォルター・ブラウンのヴォーカルをフューチャーした「コンフェッシン・ザ・ブルース」(パーカー不参加)で、B面が「フーティー・ブルース」でした。ところがこの「コンフェッシン・ザ・ブルース」は、50万枚を超すセールスを記録するビッグ・ヒットとなるのです。つまりA面「コンフェッシン・ザ・ブルース」のレコードが国中のジュークボックスに組み入れられ、一大旋風を巻き起こしたのです。するとB面の“Hootie blues”はかけられる回数は多くありませんでしたが、好奇心の高い聴衆達は、B面も聴いてみようということにつながります。そしてこれを聴いた演奏家たちに大きな衝撃を与えることになるのです。
『バードは生きている』の著者ロス・ラッセル氏は、この「フーティー・ブルース」を、それ以前の10年間で最も重要なレコードの一つであるとし、譜面まで載せて詳述しています。もちろんカール・ウォイデック氏もその著『チャーリー・パーカー』で詳細な解析を行っています。詳しくは「チャーリー・パーカー 1941年」をご覧ください。

注目ニュー・カマーW … セロニアス・モンク

1917年10月10日生まれなので、この年は23〜24歳の年齢に当たります。これまでの略歴は「ミュージシャンの自伝・評伝が語る」に記載しています。その評伝によれば前年1940年は仕事がなかったとだけ書かれています。それがどういう機縁かは分かりませんが、この年ミントンズ・プレイハウスにケニークラークらとともに専属として雇われ、ハウス・バンドのピアニストなります。そしてそのことによってジェリー・ニューマンのプライヴェーとレコーディングにその名を刻むことになるのです。詳しくは「セロニアス・モンク 1941年」をご覧ください。

「ビ・バップの萌芽」まとめ

『ジャズ百科辞典』 スイングジャーナル社が1972年(古っ!)に発行した『ジャズ百科辞典』をには、「バップ」(Bop)について次のように記しています。長くなりますが引用します。曰く
「スイング後期にその形式的な行き詰まりを打破し、新しい奏法を開拓、新しいサウンドを作り出そうと試みた多くのミュージシャンによって、形成された新しい演奏スタイルのことで、はじめビ・バップ(be-bop)とも言ったが、間もなく「バップ」(bop)というようになった。
バップ・スタイルは特定のミュージシャンによって開拓され、形式的に完成したものではなく、コマーシャリズムに迎合して俗化し、形式、奏法にも行き詰まりを見せていた1940年代前後のジャズ、ジャズ界への反省、抵抗として芽生えたジャズの革新運動の現れであった。
それが明確にスタイル化されるまでには実験時代とも言うべき時期があったが、ケニー・クラーク、セロニアス・モンク、ディジー・ガレスピー、チャーリー・クリスチャンらがしばしばアフター・アワーズ・セッションをしたニューヨーク、ハーレムのジャズ・クラブ<ミントンズ・プレイハウス>はバップの温床として有名であり、無意識のうちにバップ・スタイルを暗示していたスイング時代のジャズ奏者として、テナーのレスター・ヤング、ギターのチャーリー・クリスチャン初め何人かの人を上げなければならない。特に若死にしたクリスチャンとレスターの影響は決定的であり、40年代前のバップ胎動期を経てアール・ハインズ楽団とその後身ビリー・エクスタイン楽団が第2の温床となって、1940年半ば過ぎにディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー等によるバップ・スタイル完成を迎えることになった。」
先ず、僕はこういう見方に反対です。「問題がある ⇒ 解決する」という論理に陥りすぎです。もしこの説を述べるなら、まず「スイング後期にその形式的な行き詰まり」とはどういうことかを説明しなければなりませんが、一切ありません。そのそもスイング時代にこれは誰がどう行き詰まりを感じていたのでしょうか?これはスイング時代後期にバップが起こって来たので、その理由を行き詰っていたと勝手に推測しているだけで、具体性に欠きます。僕が思うに、現状の音楽スタイルは行き詰まっている、それを打破するために何かをしようと思って行動するミュージシャンはいません。ミュージシャンというものは、常にこれまでにない何かを求めるもので、現状を分析・把握して行動が必要だから行動を起こすという義務感のようなもので行動はしないものです。
次に僕は「バップ」は一つのムーヴメントだと理解するだと考えています。よくジャズの歴史は「ニューオリンズ・ジャズ ⇒ スイング」に捉えがちですが、スイング時代と呼ばれる時代でも「ニューオリンズ・ジャズ」を愛好し、演奏するミュージシャンそしてファンはいたのです。「バップ」というムーヴメントが起こり、それがモダン・ジャズに姿を変えて行っても、相変わらず「ニューオリンズ・ジャズ」、「スイング」を愛好し、演奏するミュージシャンそしてファンはいたのです。僕はそう捉えているので、スイング・ジャズ、バップの萌芽を中心にしつつも、その年の「ニューオリンズ・ジャズ」の演奏も記述するようにしています。なので「バップ」は一つのムーヴメントなのです。ジャズ全体、すべてが変わらない限り「革命」とは言えません。
クリスチャンとパーカー
チャーリー・パーカー 「バップ・ムーヴメント」における最初の功労者は誰でしょうか?これまで見てきた通り、粟村政昭氏はチャーリー・クリスチャンを挙げ、村井康司氏はチャーリー・パーカーを挙げています。ちょっと二人の説を参考に僕なりの見解をまとめてみましょう。
クリスチャンとパーカーに共通して見られるフレージングの特徴は、お決まりの長さでソロ・コーラスを分割するという単調さから脱却しているというオフ・ビート感覚で、村井氏は特に言及していませんが、この特徴は<ハニー・アンド・ボディ>を聴けば感じられます。そしてその革新的なアドリブ・フレージングを、粟村氏は、クリスチャンはパッシング・コードに基づいて行っていると言い、村井氏はUm7-X7を半音ずつ上げたり下げたりする「サイド・スリッピング」手法で行っていると言い、双方共それまでこれを意識的に行った奏者はいなかったと述べています。実は僕自身は、それぞれのアドリブ・プレイを聴いて、ここは「パッシング・コードに基づいている」或いは「サイド・スリッピング」を演っていると聴きとる能力がありません。なので断言はできませんが、「パッシング・コードも用いたアドリブ展開」と「サイド・スリッピングも用いたアドリブ展開」というのは、同じとは言えなくても、非常に近しいものなのではないでしょうか?
そう考えるとBGのバンドというこの時代最もメジャーなバンドにおいて、1939年11月に演じたクリスチャンと1940年に極限られた人にしか知られないプライヴェート録音で演じたパーカーという図式を考えると、最初のバップ・プレイヤーはチャーリー・クリスチャンと言って良さそうな気がします。ただこの二人が接触した可能性は低く、お互いそれぞれ独自に新しいアドリブを模索した結果、期せずして同じような方向性を志向していたことになると思われます。少しばかり時代がずれ、二人がミントンズ辺りでセッションを行ったら、一体どのような演奏が繰り広げられたでしょうか?想像するだけでゾクゾクしますね。
今度は逆に粟村氏はパーカーを、村井氏はクリスチャンをどう評価しているでしょうか?粟村氏はパーカーを、クリスチャンによって蒔かれた種を開花させ結実させたと評価しているようです。一方村井氏は、クリスチャンを天才ギタリストとし、以後のすべてのギタリストに影響を与えていると、ギターという楽器に限定して評価しているようです。
「ビ・バップ」 ― リズムの革命
ケニー・クラーク ミントンズ・プレイハウスにおけるジェリー・ニューマン氏の録音は、チャーリー・クリスチャンのおそらくは最もモダンな演奏を記録すると同時に、今一人の巨人、ケニー・クラークの極めて興味深い、初期のドラミングも紹介しています。粟村氏は、「ある意味でクリスチャンのソロの内容以上に注目されて良い」とまで述べています。ケニー・クラークは1914年生まれで、この録音が取られた当時、クリスチャンに2歳先立つ27歳でしたが、クリスチャンの場合とは対照的に、この時のプレイが、モダン・ドラマーとしての彼を評価すべき最初の作品となりました。
クリスチャン〜モンク〜フェントン〜クラークからなるリズム・セクションが、ユニットとして演じてみせた新しいリズム・セクションの在り方です。ベースがステディなフォー・ビートをキープすることによって、ドラムは従来の4分の4拍子の足枷を解かれ、一方ギターは完全な自由のもとに、ソロとリズムの両面にわたって、最も理想的な形で演奏自体をリードしています。モンクのピアノは、この時点ではまだテディ・ウィルソン風のスイング・スタイルを脱してはいませんが、それでもフロント・ラインのソロに付けるフィル・イン・コードの効果に、当時の彼の関心の一端をのぞかせています。
クラークは、1937年にエドガー・ヘイスのビッグ・バンドに加わり、そこで初めてのレコーディングを経験していますが、今日入手可能なヘイス楽団の録音を聴いても、後年のプレイに通ずる奔放さは、ほとんど認められないそうです。したがってクラークが、新しいドラム奏法の可能性に思い当たったのは、彼がクビになったというテディ・ヒル時代(1939年)のことと考えて間違いなさそうです。ただしクラーク自身によれば、彼のドラミングがそれらしきものになったのは、その後のロイ・エルドリッジのバンドに採用されてからと言います。
この基本リズムを刻む役割をバス・ドラムからトップ・シンバルに移し、バス・ドラムのオフ・ビート・アクセントから生まれる刺激によって、予測できないリズミック・ラインを創り出そうという彼のこのアイディアは、ロイの積極的な支持のもとに、初めて実践可能なものになったと言っています。いずれにしても、こうした苦難時代を経て確立された彼のドラム奏法は、40年代初めという時期においては、<完成された時点のビ・バップに最も近いもの>という意味において、全楽器奏者中、1、2を争うほどモダンなものだったのではないかと考えられます。

以上がこの1941年という時点で見られる、<ビ・バップ萌芽>の状況です。今後も「バップ」を担ったとされるミュージシャン達を注意して見ていきましょう。

ミュージシャンの自伝・評伝が語る1941年

このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1941年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみます。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。
ミュージシャン名生年月日生地自伝・評伝著者
チャールズ・ミンガス1922年4月22日アリゾナ州ノガレス自伝『負け犬の下で』チャールズ・ミンガス
マイルス・ディヴィス1926年5月26日イリノイ州オルトン自伝『自叙伝』マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ
ジョン・コルトレーン1926年9月23日ノース・カロライナ州ハムレット評伝『ジョン・コルトレーン』藤岡靖洋
スタン・ゲッツ1927年2月2日ペンシルヴァニア州フィラデルフィア評伝『スタン・ゲッツ』ドナルド・L・マギン
ビル・エヴァンズ1929年8月16日ニュージャージー州プレンフィールド評伝『幾つかの事情』中山康樹
穐吉敏子1929年12月12日旧満州国遼陽自伝『ジャズと生きる』穐吉敏子
ウエイン・ショーター1933年8月25日ニュージャージー州ニューアーク評伝『フットプリンツ』ミシェル・マーサー
[チャールズ・ミンガス]
18〜19歳。自伝『負け犬の下で』によると、何年か記載がありませんが高校を卒業するとサン・フランシスコへ行ったとあるのはこの頃のことと思われます。ともかくサン・フランシスコで、ハロルド・フェントンという人のビッグ・バンドで、何枚かのレコード吹込みに加わりました。その他郵便配達や出来る限りのバイトをやって生計を立てたとあります。
とにかく彼の自伝は分かり難く、内容のほとんどが「女」の話です。

[マイルス・ディヴィス]
1941年は14〜15歳です。教師のエルウッド・ブキャナン(黒人)というプロのミュージシャンのもとで、Tpの練習に励んでいました。その頃マイルスは、目一杯ヴィブラート付けて吹いていたとそうですが、ブキャナン先生から、ハリー・ジェイムズのような吹き方は辞めるように言われます。後になってブキャナン先生の言ったことが理解できた、自分のスタイルを見つけようと決心したと自伝で述べています。
高校生になると、女の子がマイルスに興味を持っていることが分かったので、格好を気にするようになります。マイルスのお気に入りは、フレッド・アステアとケイリー・グラントの格好だったので、ブルックス・ブラザーズのスーツなどを着ていたそうです。さすが金持ちの息子は違いますね。

[ジョン・コルトレーン]
マイルスと同い歳、1941年は14〜15歳です。この年に特段の記述は見当たりません。

[スタン・ゲッツ]
1941年は13〜14歳です。夏の間二流のホテルで演奏を行って稼ぎ、9月に学校に戻ると、スタンの主任音楽教師アルバート・ベッカーは高校選抜オーケストラのオーディションを受けるよスタンに進めます。スタンは軽く合格し、その市の最も優秀な教師たちやニューヨーク・フィルハーモニックの楽団員たちの指導を受けるという特権を手にするのです。
この頃にはプロのミュージシャンとしてダンス・パーティなどで1晩平均3ドルを稼いでいました。彼はテナー・サックスを手に入れる貯金の他はすべて両親にお金を渡していたのです。そのテナー・サックスを手に入れて間もないころショーティー・ロジャースと出会う。その時のエピソードを書いています。スタンが14歳の時です。
ロジャースは、「スタンはビル・シャイナーの弟子で、バンドを初めて4か月と言われ、そんな短期間では吹けないだろうと思っていたら、グレン・ミラーの<イン・ザ・ムード>のテックス・ベネキーのソロを完璧に吹いた。その後<ワン・オクロック・ジャンプ>のレスターヤングのソロを完璧に吹いた。驚きだった」と。
[ビル・エヴァンズ]
ビル・エヴァンズは1929年うまれですので、1941年は11〜12歳。特にこの年の記載はありません。

[穐吉敏子]
エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1941年は11〜12歳。遼陽小学校6年生の時に、太平洋戦争が起こります。授業の最中に教頭先生が緊張した顔で教室来て授業を中断し、「ただいま天皇陛下が、わが国と英・米国とが戦闘状態に入った、と発表されました。これは戦争です」と言ったとあります。この時の教頭先生の顔は、自伝執筆の時まで残っていたそうです。
その後の12月末に、大連の小学校に転向します。敏子氏は母親と一緒に住み、父親は仕事の関係で遼陽に残ったそうです。

[ウエイン・ショーター]
1933年生まれなので、7〜8歳です。子供のころ遊びには熱中しましたが、6歳のころから自分の気持ちを口に出さない傾向が強くなったそうです。また40年代初頭多くの子供がそうだったように、漫画本に夢中になりむさぼり読んだそうです。

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