僕の作ったジャズ・ヒストリー 29 ビ・バップの時代1 1944年

第二次世界大戦

ノルマンディー上陸作戦

欧州、太平洋と2方面で激しい戦闘が行われていましたが、欧州では、1943年2月スターリングラードでの戦いでナチス・ドイツが敗れたことを契機に、ソ連軍が反撃に出ます。また同年7月にはアメリカが陸軍を投入したシチリア上陸作戦を敢行、東部、南部からドイツを追い詰めていきます。そして1944年6月6日「史上最大の作戦」と言われる「ノルマンディー上陸作戦」(写真左は上陸する連合軍)が決行されるのです。各地激しい戦闘が続きますが、次第にドイツは追い詰められていきます。

空襲するB29長距離爆撃機

1943年アメリカ軍はキスカ、アッツ島を奪取、翌44年2月マーシャル島、トラック島も落とします。勢いに乗ったアメリカはサイパン島を奪取、さらにマリアナ沖海戦でも勝利し、マリアナ諸島に大規模な航空基地を建設するのです。これによって日本のほぼ全土が、長距離爆撃機B-29の攻撃範囲に入ってしまいます。そして1944年11月東京空襲が開始されるのです。

アメリカの大衆スポーツ・芸能

[プロ野球]

第二次大戦が終局に近づいていましたが、有力選手の応召は続き、この年には前年首位打者のルーク・アップリング 、最多奪三振のジョニー・ヴァンダー・ミーア 、そしてヤンキースでは主力のジョー・ゴードン、主将格のビル・ディッキーと前年最多勝・最優秀防御率のスパッド・チャンドラーも兵役に就きました。こうした相次ぐ応召で、各チームの戦力は一変してしまいます。このような手薄な人材の中で、ナショナルリーグではセントルイス・カージナルスがビリー・サウスワース監督の下で2位パイレーツに14.5ゲーム差をつけての楽勝でリーグ3連覇を果たします。カージナルスは全球団中最も戦争による犠牲が少ないチームでした。
一方、アメリカン・リーグでは2連覇していたヤンキースは主力陣が兵役に取られて総崩れで、シーズン後半までブラウンズ、タイガース、レッドソックス、ヤンキースの四つどもえの争いからレッドソックスが、そして終盤にはヤンキースが脱落し、最後にセントルイス・ブラウンズが抜け出して、チーム創設43年目で初優勝を遂げます。正に他球団が主力を次々と兵役に取られ戦力が大幅にダウンした間隙をぬってのリーグ優勝でした。
ワールドシリーズは、セントルイス同士の戦いとなりましたが、カージナルスが順当にブラウンズを下して優勝しました。

シュガー・レイ・ロビンソン
[アメリカン・フットボール]

NFL(National Football League)の状況も野球と同じでした。第二次世界大戦に従軍するため選手たちが大量離脱し、1943年シーズンはわずか8チームの出場でしたが、この年は東地区5チーム、西地区も5チームで戦われ、西地区優勝のグリーン・ベイ・パッカーズが東地区優勝のニューヨーク・ジャイアンツを14対7で破って優勝しました。

[ボクシング]

この時代最も注目されていたのは、ミドル級、ウェルター級で強さを発揮したシュガー・レイ・ロビンソン(写真右)でした。1940年のプロ・デビューから1943年ジェイク・ラモッタに敗れるまで、40連勝を続けています。勿論彼も、兵役に取られますが、1944年不可解な事件で、名誉除隊となっています。

『カサブランカ』ポスター
<映画>

1943年の作品を対象とするこの年の第16回(1944年3月2日発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのはマイケル・カーチス監督、ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが共演した『カサブランカ』(Casablanca)でした。これは有名な作品ですね。僕も見ました、テレビでですけど。この作品は作品賞の他に監督賞、脚色賞も受賞しています。
映画の舞台は、1941年12月、新ドイツのヴィシー政権の管理下に置かれたフランス領モロッコの都市カサブランカ。ドイツの侵略によるヨーロッパの戦災を逃れた人の多くは、中立国のポルトガル経由でアメリカへの亡命を図ろうとしていました。主人公であるアメリカ人男性のリック(ハンフリー・ボガート)は、パリが陥落する前に理由を告げずに去った恋人イルザ・ラント(イングリッド・バーグマン)と、彼が経営する酒場「カフェ・アメリカン」で偶然の再会を果たします。パリ時代の思い出である『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』(As times go by)が切なく流れます。イルザは結婚しており、夫はドイツに併合されたチェコスロヴァキア人でドイツへの抵抗運動の指導者です。その夫は、現地司令官であるドイツ空軍のシュトラッサー少佐に、モロッコ市内に幽閉されてしまいます。イルザは、夫を救うためにリックに協力を求めます。このまま夫がいなくなれば…など悩むリック。結局リックは2人を逃がすために通行証を手に入れ、二人を空港まで送り届けるのです。
とにかくボガートがカッコよく、バーグマンは美しい。『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』は1931年ブロードウェイ・ミュージカルのために作られた曲。『カサブランカ』では、「古い流行歌」として歌われます。字幕では「時の過ぎゆくままに」と訳されてますが、誤訳で正しくは「時が過ぎても」だそうです。
ともかくこの映画は、1942年という戦時下に製作が開始され、同年11月26日に公開されました。直接的な反ナチスではありませんが、周辺国家を飲み込んでいったナチス・ドイツに抵抗するチェコスロヴァキアのレジスタンス指導者を応援するような筋立てとなっています。よくこの時代にこういう映画が作れたものです。アメリカってすごいなぁと思わざるを得ません。

音楽界を取り巻く環境 … 戦争と第一次吹込みスト

アポロ・レコード

以前も書きましたが、繰り返します。
戦時下であることはジャズを初め音楽界などにもいろいろな影響を及ぼすことになります。まずSP盤レコードの原料であった「シェラック」が不足となり、レコード会社はやむなく操業を短縮せざるを得なくなります。加えてガソリンが配給制となるのです。バンドの移動に不可欠なガソリンが入手するのが難しくなり、汽車においても座席確保が出来なくなります。そして徴兵制により、バンド・マンが次々と兵隊にとられていくようになり、バンド・マン不足の状態になっていくのです。とはいうものの「ぜいたくは敵だ」、「欲しがりません勝つまでは」のような、標語を作り、国民生活にとにかく我慢を強いる、強いなければならないどこかの国とは異なり、2方面で戦争を戦いながら、なるべく平常の生活を維持しようとするアメリカに圧倒的な国力を感じます。
また1942年8月1日から始まった、AFM(アメリカ音楽家連合会)の吹込みストにより、レコードの吹込みが停止していましたが、1943年9月にデッカ・レコードがAFMと和解し、レコーディングを再開します。コモドアなどの小レコード会社もデッカの後に続き、レコーディングを開始していきますが、大手のヴィクター、コロンビアは1944年11月30日まで、和解に踏み切ることはありませんでした。
またこのストライキはその後の音楽界に、微妙な変化を引き起こしていきます。当時、ビッグ・バンドがポピュラー音楽界を支配していました。歌手はそのお飾り的な存在だったのです。しかし歌手はその技量によってですが、ビッグ・バンドの伴奏なしで歌うこともできます。またどうしてもビッグ・バンドが必要というわけでもありません。そんなことから、ストライキの後ビッグバンドは衰退し始め、ボーカリストがポピュラー音楽界の中心になっていくのです。
またストライキにより、大手レコード会社は契約しているミュージシャンとの取引が停止しました。そのため録音・レコード製造機器が使われなくなり、進取の気性に富んだ音楽プロモーター、レコード配給会社、店主らは、例えばサヴォイ(1942年)やアポロ(1943〜1944年)のような小規模な専門レーベルを立ち上げる好機を得ることになりました。大手レーベルと契約の制約があるミュージシャンが偽名でレコーディングすることもありました。こういったビジネスは、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスなどの大都市圏でうまく機能します。これらの地域では市場が集中しており、地元での配給で十分な利益を得ることができるからでした。そのため1940年代半ばのジャズなどの歴史的に重要なレコーディングの多くは、こうした小規模レーベルから生まれることになります。その中には、1944年初頭にアポロで録音されたコールマン・ホーキンスとディジー・ガレスピーをフィーチャーした「ウッディン・ユー」は、ビバップの最初の正式なレコーディングと言われます。こうしたレコーディングはミュージシャンにとっては利益にはなりませんが、ミュージシャンの露出を増やし、時には大手レーベルとの契約に結びつくこともありました。
長期的にみれば、レコード会社はストライキによる損害を受けることはありませんでした。1941年に1億2700万枚のレコードが販売されましたが、ストライキの2年後の1946年にはその数は2億7500万枚に跳ね上がり、1947年にはさらに4億枚に跳ね上がったのです。

[ポピュラー・ミュージック]
[Swinging on a star]盤

1944年のヒットチャートを見てみましょう。驚くのは、ビング・クロスビーです。トップ10に共演も含めて5曲も入っています。とんでもない人気ぶりです。

順位アーティスト曲名
ビング・クロスビー(Bing Crosby)星にスイング(Swinging on a star)
ビング・クロスビーとアンドリュース・シスターズ(Bing Crosby & The Andrews Sisters)僕は気ままに(Don't fence me in)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)アイル・ビー・シーイング・ユー(I'll be seeing you)
ジミー・ドーシー(Jimmy Dorsey)べサメ・ムーチョ(Besame mucho)
ダイナ・ショア(Dinah Shore)アイル・ウォーク・アローン(I'll walk alone)
エラ・フィッツジェラルドとジ・インク・スポッツ(Ella Fitzgerald & The ink spots)人生の雨(Into each life some rain must fall)
エラ・フィッツジェラルドとジ・インク・スポッツ(Ella Fitzgerald & The ink spots)メイキング・ビリーヴ(I'm making believe)
ザ・ミルス・ブラザーズ(The Mills Brothers)ユー・オールウェイズ・ハート・ザ・ワン・ユー・ラブ(You always hurt the one you love)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)アイルランドの子守歌(Too-Ra-loo-ra-loo-ra)
10ビング・クロスビー(Bing Crosby)アイ・ラヴ・ユー(I love you)

第1位の「星にスイング」には、ウィリアムズ・ブラザーズ・カルテットというグループがバック・コーラスを付けています。このカルテットの一人が後のアンディ・ウィリアムズとなります。第3位の「アイル・ビー・シーイング・ユー」は、この年ビリー・ホリデイも名唱を残しています。戦時下を反映しての歌なので、一般的にはビング・クろすびーの方が広く受け入れられたのでしょう。4位の「べサメ・ムーチョ」は、最も多くの歌手などによってかbヴァーされた曲の一つ。最も初期のヒットがこのジミー・ドーシーによるものです。
第5、6位には、エラ・フィッツジェラルドと人気グループのインク・スポッツの共演盤が入っています。6位の「メイキング・ビリーヴ」は遠くにいる「あなた」に語りかけるという内容で、、この曲のヒットの背景には、戦場にいる彼氏に語りかけるという意味合いも込められているような気がします。8位のミルス・ブラザーズは実にスインギーなナンバー。9位の「アイルランドの子守歌」は1913年に一度大ヒットした曲のリヴァイヴァル・ヒットだそうです。

ジャズを取り巻く環境とその状況

1943年ニューヨーク・ハーレムの暴動

「そもそもアメリカと黒人15 第二次世界大戦」でも触れましたが、軍需産業の差し迫った必要性で、大量の黒人労働者が南部を離れ、北部都市圏に広がりつつあった工場群に向かいました。約300万人もの南部黒人の北部都市への移住を促すことになります。このことは移住先の労働関係、人種関係を著しく緊張させることになります。「ダブル・ヴィクトリー」を叫ぶ公民権運動の指導者、黒人のA・フィリップ・ランドルフはルーズヴェルト大統領に差別を撤廃しなければ、10万人規模のデモをワシントンで行う旨を通知し、大統領令8802(防衛産業における差別の禁止)を勝ち取ります。これによって約100万人の黒人が産業労働人口に加わわることになります。しかし現場では、白人労働者が黒人労働者の権利拡大に抗議する「ヘイト・ストライキ」が発生し、激しい人種間の暴力事件が全国の都市で発生します。1943年6月までにニューヨーク、ロサンゼルス、デトロイト、ヴァーモント、テキサス、モービル、アラバマで突発的に発生し、フロリダ州マリアナでは黒人男性がリンチに会い殺害されました。
戦時中の当時、白人男性、特に休暇中の白人軍人がアップタウンで過ごす時間が長くなっていました。政府が心配したのは、ハーレム地区での黒人女性の性交渉によって、性病への感染でした。もちろん同じ白人の若者が戦地で戦っている一方、ニューヨークでは、楽しく酒を飲み、ダンスを踊るといった享楽行為がなされていることへの憤りもあったと言われています。警察はアップタウン地区の監視を強化していきます。その一環として、141丁目の「サヴォイ・ボールルーム」と「レノックス」が、1943年4月21日に閉鎖されます。1943年春から夏にかけてアップタウンのあらゆる場所が警察に占領されたようだったといいます。
そんな中8月1日暴動(「ハーレム暴動」)が発生します。1935年以来最悪のハーレムの住民暴動で、24時間のうちに6名が死亡、700人が負傷し、550人が逮捕され、1500軒の店が破壊され、30件以上の放火がありました。この暴動以降警察の監視はますます強められ、「ミントンズ」も細々と営業を行うしかなくなりました。

ジョージ・オウルド・バンド

ジャズ・レコーディングの大活況

大戦の終わりも見えてきたとはいえ、まだまだ戦闘は続いており、たくさんのミュージシャンたちが徴兵される中、ジャズ・レコード界の動きはこの年1944年は実に活発なものがありました。一部例外もありますが、スイング時代からの名門ビッグ・バンドも活動を続けていましたし、そこにいよいよ新しいジャズのスタイル、ビ・バップ旋風が本格的に巻き起こりつつあり、さらにニューオリンズ・リヴァイヴァル運動も活発でした。後にモダン期の中心をなす著名ミュージシャンも続々と現れ始めます。またスイング時代にサイドメンとして活動していた、ジョージ・オウルド(写真左)やクーティ・ウィリアムズといったミュージシャンがこの時期に自己のバンドを率いて活動を開始しています。実に不思議なことです。とても戦時下とは思えないのです。ともかく先ずはじっくりと見ていきましょう。

ポール・ウィナーズ録音 … 「メトロノーム・オールスターズ」

この年も第二次世界大戦の戦時下のため、「メトロノーム(Metoronome)」誌のポール・ウィナーの選出とその結果に基づいたレコーディングは行われませんでした。

黒人ビッグ・バンド

カーネギー・ホール出演中のエリントン楽団
デューク・エリントン

デューク・エリントンとその楽団は、前年43年に引き続き、ハリケーン・レストランに3か月出演とありますので、バンド経営自体は、問題なかったのでしょう。そしてこの年デュークは12月19日、3度目のカーネギー・ホールでコンサートを開催します(写真右)。
戦争の影響かどうか記載はありませんが、デュークの楽団にしては珍しく、メンバー移動も行われます。Tpのハロルド・ベイカー ⇒ シェルトン・ヘンフィル、レックス・スチュアート ⇒ キャット・アンダーソン、V-Tbのファン・ティゾール ⇒ クロウド・ジョーンズなどです。
また11月30日にヴィクターとAFMの和解が成立したのを受けて、早速スタジオ入りし、12月1日に4曲、12月11、12日には前年カーネギー・ホールで初演して大論争を引き起こしたという組曲『ブラック・ブラウン・ベージュ』の初めてのスタジオ録音が行われます。そして1944年12月19日カーネギー・ホールに3回目の出演を果たし、初めて「香水組曲」を発表します。詳しくは「デューク・エリントン 1944年」をご覧ください。

カウント・ベイシーとジミー・ランスフォード他

カウント・ベイシーとその楽団が所属するコロンビアも11月30日まではAFMとは和解しておらず、コロンビアにレコーディングをすることはできませんでした。一方前年1943年12月28日レスター・ヤングの素晴らしい録音を実施したキーノート・レーベルは、大手レーベルではなくいち早くAFMと和解し、レコーディングを再開していました。そのキーノートは、前回のレコーディングから約3か月たった1944年3月新たな企画を提案します。それは当時のベイシー楽団の精鋭たちを出来るだけ集めてのレコーディングするというものでした。しかしベイシー自身は契約の関係で、表立って参加できないため、「プリンス・チャーミング(Prince charming)」という偽名を使っての参加してレコーディングが行われます。また当時、ベイシー楽団はタイムズ・スクエアの映画劇場に出演中だったそうですが、当時は映画の上映の合間にバンドが出演して演奏が行われるという慣習があったそうで、ベイシー達もそういう機会に演奏していたのでしょう。
またエリントンほどではありませんが、ホテルのクラブに出演した時の放送音源も残っています。詳しくは「カウント・ベイシー 1944年」をご覧ください。
当時ランスフォード楽団はデッカと契約しており、デッカはいち早くAFMと和解したので、割と早めに録音を開始しています。ただ全般的には、スイング時代のポップス調でジャズ的興味は余り惹かれない内容なのが残念です。詳しくは「ジミー・ランスフォード 1944年」をご覧ください。
他の黒人バンド、アール・ハインズ、アンディ・カーク、ライオネル・ハンプトンなどの録音は保有していません。

トミー・ドーシー楽団1944年

白人ビッグ・バンド

トミー・ドーシーとアーティー・ショウ
僕の持っているトミー・ドーシー(写真:1944年)の1944年の録音は2曲だけです。ドーシーはヴィクターの看板アーティストでした。ヴィクターは、1944年11月13日はAFMとの契約書にサインし、和解が成立します。そして和解成立を待ちかねて翌11月14日に、ドーシーの1944年最初のレコーディングが行われたとあります。しかしエリントンの方の資料には、11月30日にヴィクターとAFMの和解が成立したのを受けて、12月1日に最初の録音が行われたとあります。1944年11月13日と11月30日、どちらが正しい和解日だったのでしょうか?ともかく詳しくは「トミー・ドーシー 1944年」をご覧ください。
また、海軍を病気のため除隊したアーティー・ショウは、療養を終え、11月にはハリウッドでレコーディングを行います。若い新進気鋭のミュージシャンを新たに迎えサウンドの若返りにも成功します。詳しくは「アーティー・ショウ 1944年」をご覧ください。
しかしこのコーナーの常連中の常連、ベニー・グッドマン、ボブ・クロスビー等のレコードは持っていません。

ビ・バップと白人新進ビッグ・バンド

新しい響きのジャズ、ビ・バップがこの年その動きを活発化させていきます。そしてそれに呼応するような動きが白人のいくつかのビッグ・バンドでも見られるようになるのです。そういった動きが黒人ビッグ・バンドではなく、白人の方に起こったことは何故なのでしょうか?

ビ・バップ

アポロ・レコード
ディジー・ガレスピーとコールマン・ホーキンス

この年最も積極的に動いていたのは、ディジー・ガレスピーとコールマン・ホーキンスのように見受けられます。1943年ハインズ楽団を辞めたディズは、ベースのオスカー・ペテフィフォードとコンボを結成し、演奏を始めます。このバンドにディズはチャーリー・パーカーを誘うのですが、連絡が取れず、ガレスピー=パーカーのバンド結成は持ち越しとなり、バンドも分裂してしまいます。一方、テナー・サックスの開拓者コールマン・ホーキンスは、1943年の末頃コモドア、シグネチュアといったマイナー・レーベルに次々と傑作を吹き込んでいたのですが、ここで心機一転、当時異端の響きと捉えられていた、若者たちが取り組む音楽「ビ・バップ」に取り組むのです。そうしてホークは、1944年ディズのバンドのメンバー、ジョージ・ウォーリントンを除く全員を雇い入れ、バップに取り組んだ録音を行うのです。これが世に言われる史上初のビバップ・レコーディング・セッションで、1944年2月16日「アポロ」というマイナー・レーベルに吹き込まれました。このマイナー・レーベルのSP盤はかなり希少なもので、当然僕などは持っていませんが、今日ではYouTubeで簡単に聴くことができます。
さて、このホーキンスとのセッションの後ディズとペティフォードは、ハインズ楽団で一緒だったビリー・エクスタインのビッグ・バンドに加わります。この録音は史上初のビ・バップ・ビッグ・バンドと言われ、貴重なものです。さらにディズとペティフォードは、白人の進歩的ビッグ・バンド、ボイド・レーバーンの吹込みにも参加します。詳しくは「ディジー・ガレスピー 1944年」をご覧ください。
一方1944年2月16日の「アポロ・レーベル」への吹き込み以降のホークの動向については、把握していません。「コールマン・ホーキンス 1944年」をご覧ください。

チャーリー・パーカー

さてビ・バップのもう一人の中心人物チャーリー・パーカー(以下バード)です。1943年パーカーは、ハインズ楽団をクビになると、一旦居心地のいい故郷カンサス・シティに戻っていました。ここにディズが新しいバンドの誘いをするのですが、バードは受け取っていないようです。まぁあまり家にじっとしているタイプではないので、仕方ないでしょう。バードの足取りは詳しく分かっていませんが、どうも1943年終わりから44年初めにかけては、カンサス・シティにおり、そこからシカゴに向かったようです。そしてビリー・エクスタインのバンドに雇われます。ここで再びディズと一緒になるのです。しかしバードは、ビッグ・バンドにつきものの「個人の自由の不足」に幻滅を感じるようになり、バンドを辞めてしまいます。
そして大のジャズファンがオーナーをしているクラブ「スリー・デューセズ」に雇われます。「スリー・デューセズ」の経営者、サミー・ケイは他の経営者たちと異なり、新しいサウンド=ビ・バップに魅せられていたのです。バードは、バンド編成が貧弱であることを指摘し、Tpを加えることをケイに提案し了承を得ます。パーカーは早速ディズに連絡します。今度はバードがディズを誘ったのです。しかしディズは、ワシントンで公演中で、ニューヨークに戻り次第返事をすると答えます。それまでの間Tpにはハワード・マギーがバンドに加わることになります。
そうこうしている間にバードに吹込み参加依頼が舞い込みます。それがタイニー・グライムス(Gt)のサヴォイ・セッションです。詳しくは「チャーリー・パーカー 1944年」をご覧ください。

ニュー・カマー

バド・パウエル
ニュー・カマー1 … バド・パウエル

「ビ・バップ」の立役者の一人、「ピアノのチャーリー・パーカー」と言われるバド・パウエルが初吹込みをし、レコード・デビューします。それは「エリントンの至宝」と言われたクーティ・ウィリアムズのレコーディングに参加したものでした。パウエルは、ニューヨークのアップタウンのバーで、セロニアス・モンクと初めて出会ったといいます。そこでの詳しいエピソードは分かりませんが、お互いにピアノを弾いて、モンクはパウエルの才能に気づきます。しかしその頃のパウエルは、ハインズやテディ・ウィルソン、アート・ティタムなどの影響下にありました。そんなパウエルをミントンズ・プレイハウスに連れて行って、バップの風に当てたのがモンクだったといいます。そしてモンクは、パウエルにミントンズでプレイさせ、皆にパウエルを聴かせるように謀ったそうです。そんな思いが功を奏して、ミントンズに出入りしていたクーティ・ウィリアムズの目に留まったのでしょう。そしてウィリアムズは、19歳で未成年だったパウエルの法的後見人となり、パウエルをレギュラー・ピアニストとして雇うことになったのだそうです。詳しくは「バド・パウエル 1944年」「クーティ・ウィリアムズ 1944年」をご覧ください。

ニュー・カマー2 … リード奏者
スタン・ゲッツ 1944年

ビ・バップの洗礼を受け、後にモダン期に大きく花を咲かせるリード奏者たちが、初吹込みかどうかへ別として拙HPに初登場しています。
トミー・ドーシー楽団の吹込みで、クラリネットのバディ・デフランコがデビューを果たします。「バディ・デフランコ 1944年」をご覧ください。
ビリー・エクスタイン楽団の吹込みで、テナー・サックスのデクスター・ゴードンがデビューを果たします。「デクスター・ゴードン 1944年」をご覧ください。
同じくビリー・エクスタイン楽団の吹込みで、テナー・サックスのジーン・アモンズがデビューを果たします。「ジーン・アモンズ 1944年」をご覧ください。
同様にビリー・エクスタイン楽団の吹込みで、テナー・サックスのワーデル・グレイがデビューを果たします。「ワーデル・グレイ 1944年」をご覧ください。
新進気鋭というわけではありませんが、ブルーノート・レーベルで初吹込みが実現した「アイク・ケベック 1944年」をご覧ください。
スタン・ケントン楽団での初吹込みでテナー・サックスのスタン・ゲッツ(写真左)がデビューします。「スタン・ゲッツ 1944年」をご覧ください。
ジョー・ブシュキンのコンボで、テナー・サックスのズート・シムスがデビューを果たします。「ズート・シムス 1944年」をご覧ください。

ニュー・カマー3 … ドラマー

ビリー・エクスタイン楽団の吹込みで、ドラマーのアート・ブレイキーがデビューを果たします。「アート・ブレイキー 1944年」をご覧ください。
コールマン・ホーキンスのレコーディングで、ドラマーのマックス・ローチがデビューを果たします。「マックス・ローチ 1944年」をご覧ください。

バーニー・ケッセル
ニュー・カマー4 … その他

アーティ・ショウ楽団の吹込みで、ギターのバーニー・ケッセル(写真右)がデビューを果たします。「バーニー・ケッセル 1944年」をご覧ください。
同じアーティ・ショウ楽団の吹込みで、ピアノのドド・マーマロサがデビューを果たします。「ドド・マーマロサ 1944年」をご覧ください。
アニタ・オディとケントン

白人新進ビッグ・バンド

スタン・ケントン

スタン・ケントンは特にビ・バップに共鳴したというわけではなく、彼の音楽的ルーツは、ヨーロッパのコンサート・ホールに根差していて、テーマ曲「アーティストリー・イン・リズム」には、ラヴェルの旋律やショパンのピアノ・ソロが盛り込まれていました。ケントン自身は即興音楽家としては、傑出しているわけではなく、彼の真の情熱は作曲と編曲にあり、バンドが彼の楽器でした。そしてケントンは、ジャズをいくつかの要素の一つとして組み込んだ新しいクラシック音楽を創出したいと望んでいたのでした。しかしこの年は、女性シンガーのアニタ・オディ(写真左:ケントンと)を入団させ、新進のテナー奏者スタン・ゲッツをいれ、バンド・サウンドの創出していきます。詳しくは「スタン・ケントン 1944年」をご覧ください。

ウッディ・ハーマン

ビ・バップ・バンドの先駆けとも言われるウディ・ハーマンの楽団ですが、この時期は未だそれらしく演奏はないどころか、徴兵などによる影響でバンド維持にも汲々としている様子がうかがえます。詳しくは「ウッディ・ハーマン 1944年」をご覧ください。

ニュー・カマー5 … ボイド・レーバーン

日本では非常に評価が低いボイド・レーバーン。しかしこの時期Tpのディジー・ガレスピー、Bのオスカー・ペティフォードを擁し、最も斬新な演奏を行っていました。しかしその吹込みは、「ギルド」や「ジュエル」といった超マイナーなレコード会社に行われており、録音データも整っていません。詳しくは「ボイド・レーバーン 1944年」をご覧ください。

ニューオリンズで演奏するバンク・ジョンソン

ニューオリンズ・リヴァイヴァル

ビ・バップはジャズ演奏により新しい響きを追求する動きといえますが、元々のジャズ、古くからのジャズの響きを求めるのが「ニューオリンズ・リヴァイヴァル」といえるでしょう。ウィリアム・ラッセル氏などの努力で、ジャズがシカゴに渡る前の原初の響きを聴くことができるようになったことから、以前からニューオリンズ・ジャズが人気だった西海岸で沸き起こった動きといえます。

バンク・ジョンソン
その主役とも言えるバンク・ジョンソンは1943年から西海岸に招かれ、西海岸のニューオリンズ・ジャズメンたちと共演などを行い、夏にニューオリンズに戻ってきました。そして本拠地ニューオリンズでも、レコーディングを続けます。詳しくは「バンク・ジョンソン 1944年」をご覧ください。

ジョージ・ルイス

バンク・ジョンソンの復活レコーディングで名を知られるようになったジョージ・ルイスは、1943年初めて自己の名を冠したバンドで、レコーディングを行いました。その後も自身名義のレコーディングを続けています。詳しくは「ジョージ・ルイス 1944年」をご覧ください。

エディ・コンドン 1944年
エディ・コンドン

西海岸で起こった「ニュー・オリンズ・ジャズ・リヴァヴァル」に刺激されるように、シカゴ・ジャズの大立者エディ・コンドン(写真左:1944年)も気合の入ったレコーディングを行います。吹込み先はコモドア・レコード。多分はコモドアは早々にAFMと和解していたのでしょう。またこの年には、5月21日から始まるタウンホール・コンサートの放送音源が、LPレコード5枚に収録されて発売されています。詳しくは「エディ・コンドン 1944年」をご覧ください。

マグシー・スパニア

マグシー・スパニアも、この年エディ・コンドンのタウンホール・コンサートに参加するほか、自身でも数多くのレコーディングを行っています。詳しくは「マグシー・スパニア 1944年」をご覧ください。

アート・ホーデス
アート・ホーデスは、現在のウクライナの生まれで、生後6か月でアメリカ・シカゴへ家族とともに移住しました。育った地シカゴで、いわゆるシカゴ・ジャズを聴いてジャズをプレイするようになりました。そんなホーデスもこの年リーダー・アルバムをブルーノートに残しています。詳しくは「アート・ホーデス 1944年」をご覧ください。

J.A.T.P.ポスター 1959年

新しいジャズ・コンサート … J.A.T.P.

この年これまでにない、コンサート=ジャム・セッションを聴かせるコンサートが生まれます。元々は一ジャズ・ファンだったノーマン・グランツ氏が企画し、実施した"Jazz at the philharmonic"略して"J.A.T.P."です。彼はこれを基に、後にプロデューサー、プロモーターの大物となり、レコード会社も設立するのです。(右は1959年のJATPのポスター)詳しくは「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック 1944年」をご覧ください。

ピアニストたち

この年ピアニストたちの活躍が目立ちます。

ジェイムズ・P・ジョンソン
ジェイムズ・P・ジョンソン

この年ジョンソンは彼にしてはかなり多くの吹込みを行っています。詳しくは「ジェイムズ・P・ジョンソン 1944年」をご覧ください。

アート・ティタム

この年もティタムの超絶テクは健在です。詳しくは「アート・ティタム 1944年」をご覧ください。

エディ・ヘイウッド
エディ・ヘイウッド この時期エディ・ヘイウッド(写真右)は、注目の若手ピアニストでした。その彼の代表的なジャズ作品が吹き込まれます。詳しくは「エディ・ヘイウッド 1944年」をご覧ください。

ナット・キング・コール

コールはこの年、西海岸で活動していたらしく、新しく始まったコンサート企画"J.A.T.P."において、プレイを披露しています。詳しくは「ナット・キング・コール 1944年」をご覧ください。

ジョー・ブシュキン

これまでもバニー・ベリガン、トミー・ドーシー達の吹込みで堅実なプレイを聴かせてくれたジョー・ブシュキン。そのブシュキン名義のレコーディングが行われました。詳しくは「ジョー・ブシュキン 1944年」をご覧ください。

シンガー達

アンドリュース・シスターズ
アンドリュース・シスターズ

この頃女性コーラス・グループとしては、アンドリュース・シスターズ(写真左)の人気が絶好調だったと言います。僕は彼女たちのレコードは、前掲の年間ヒットチャート第2位にランクされたビング・クロスビーとの共演盤しか持っていません。詳しくは「アンドリュース・シスターズ 1944年」をご覧ください。

アニタ・オデイ

アニタ・オデイは、この年4月末にスタン・ケントンのバンドに加わります。僕は4月以前の録音は持っておらず、この年の録音は、ケントン楽団でのものだけです。詳しくは「アニタ・オデイ 1944年」をご覧ください。

パイド・パイパーズ
ビリー・ホリデイ/コモドア・レコード

ザ・パイド・パイパーズは、トミー・ドーシー楽団の専属グループで絶大な人気を誇っていましたが、ほんのちょっとしたことで短気なドーシーの怒りを買い、解雇されてしまいます。その後彼らは、独立したグループとして活動を続けていきます。詳しくは「パイド・パイパーズ 1944年」をご覧ください。

ビリー・ホリデイ

僕の持っているビリー・ホリデイの音源は1曲だけでしたが、この年はグッと数が増えます。特に5年ぶりに吹き込んだコモドア・レコードのレコードは、彼女の最高の作品群の一つといっても良い出来栄えです。。詳しくは「ビリー・ホリデイ 1944年」をご覧ください。

ニュー・カマー6 … サラ・ヴォーン

後にジャズ界を代表するシンガーとなる、サラ・ヴォーンがこの年ビリー・エクスタインのバンドでレコード・デビューしています。詳しくは「サラ・ヴォーン 1944年」をご覧ください。

レスター・ヤング 1944年

他のミュージシャン達

レスター・ヤング

この年、レスター・ヤング(左は1944年、演奏するレスター)は、キーノート、コモドア、サヴォイといったレーベルに数多くの録音を残しています。そして1944年5月1日ニューヨークでサヴォイへのレコーディングが終わり、ベイシー楽団とともに西海岸に向かいます。そこで楽団は映画『ジャミン・ザ・ブルース』への出演を果たし、その撮影が終了した数日後プランテーション・クラブで演奏中に事件は起こります。そこでレスターとジョー・ジョーンズは、徴兵逃れという罪で、逮捕されてしまうのです。そしてレスターは強制的に徴兵されてしまうのです。これがレスター・ヤングという不世出の天才ミュージシャンを破壊したと言われる、徴兵事件です。詳しくは「レスター・ヤング 1944年」をご覧ください。

オスカー・ペティフォード

モダン・ベースの開祖と言われるオスカー・ペティフォードは、ディジー・ガレスピーと共に初のビ・バップ・レコーディングに参加するなどビ・バップ運動への取り組みが目立ちますが、それ以外にもブルーノートなどの吹込みに参加しています。詳しくは「オスカー・ペティフォード 1944年」をご覧ください。

エドモンド・ホール

エドモンド・ホール(写真右)は、この年も好調で、ブルーノートやコモドアといったマイナー・レーベルに数多く録音を残しています。詳しくは「エドモンド・ホール 1944年」をご覧ください。

初リーダー作
ロイ・エルドリッジ

巨匠と言われながら、自身の名義をかざしたレコードが非常に少ないロイ・エルドリッジですが、大戦中であり、AFMによる吹込みストという逆風の中、自身のバンドを立ち上げ、レコーディングに挑みました。詳しくは「ロイ・エルドリッジ 1944年」をご覧ください。

ジョージ・オウルド
ジョージ・オウルド

大戦中であり、AFMによる吹込みストという逆風の中、自身のバンドを立ち上げ、レコーディングに挑んだミュージシャンとして、ジョージ・オウルドも上げられます。詳しくは「ジョージ・オウルド 1944年」をご覧ください。

ジャック・ティーガーデン

大戦中であり、AFMによる吹込みストという逆風の中、被災ぶりの自己名義のレコーディングです。詳しくは「ジャック・ティーガーデン 1944年」をご覧ください。

シドニー・ド・パリス

シドニー・ド・パリスはずいぶん以前から、拙HPにも登場してきたトランぺッターだが、意外なことに彼の名を冠したレコーディングは今回が初めてです。コモドア・レコードが録音しました。詳しくは「シドニー・ド・パリス 1944年」をご覧ください。

フリップ・フィリップス

フリップ・フィリップスは、この年1944年か前年辺りにウディ・ハーマンの楽団に起用されたテナー奏者だが、そんな彼をリーダーに仕立てたレコーディングがボブ・シールのシグネチュアに行われています。詳しくは「フリップ・フィリップス 1944年」をご覧ください。

ブルース・ピープル

僕の持っているこの年のブルースは3曲しかありません。内容は「ブルース・ピープル 1944年」をご覧ください。

ミュージシャンの自伝・評伝が語る1944年

このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1943年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみます。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。
ミュージシャン名生年月日生地自伝・評伝著者
チャールズ・ミンガス1922年4月22日アリゾナ州ノガレス自伝『負け犬の下で』チャールズ・ミンガス
マイルス・ディヴィス1926年5月26日イリノイ州オルトン自伝『自叙伝』マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ
ジョン・コルトレーン1926年9月23日ノース・カロライナ州ハムレット評伝『ジョン・コルトレーン』藤岡靖洋
ビル・エヴァンズ1929年8月16日ニュージャージー州プレンフィールド評伝『幾つかの事情』中山康樹
穐吉敏子1929年12月12日旧満州国遼陽自伝『ジャズと生きる』穐吉敏子
ウエイン・ショーター1933年8月25日ニュージャージー州ニューアーク評伝『フットプリンツ』ミシェル・マーサー
[チャールズ・ミンガス]
21〜22歳。とにかく彼の自伝は分かり難く、内容のほとんどが「女」の話です。

[マイルス・ディヴィス]
1944年は17〜18歳です。1944年頃両親が離婚し、マイルスは母親と一緒に住むようになります。1944年1月(?州によって卒業時期が異なるのかな)リンカーン高校を卒業。その年初めての子シェリルが生まれます。その頃は未だエディ・ランドールのバンドで演奏していましたが、6月に辞めます。そしてニューオリンズ出身のアダム・ランバートのバンドに入りますが、数週間で辞めます。セントルイスに戻っていると、巡業に来ていたビリー・エクスタインのバンドに誘われ、2週間加わります。大の仲良しのクラーク・テリーが海軍に入り海軍バンドで演奏していたので、一瞬自分も海軍に入ろうかとも思ったこともあるそうです。
しかし本当に行きたかったのは、バードとディズのいるニューヨークだと分かっていたので、1944年秋の初めに荷物をまとめてニューヨーク行きの汽車に乗ります。9月ニューヨークについて、ジュリアード音楽院への入学手続きをします。父親が授業料や生活費小遣いを送ってくれたそうです。ジュリアードへ行くというのは、親に対する口実でした。
ニューヨークに着いてマイルスはバードを探し回りますが、なかなか見つかりません。ミントンズにもよく通ったそうです。ミントンズでは、ファッツ・ナヴァロやミルト・ジャクソン、エディ・ロックジョー・ディヴィスらとジャムったそうです。しかし初めの2週間はディズにもバードにも会えませんでした。そうこうしている内にやっとディズと連絡が取れます。ディズは自分のアパートに呼んでくれて、色々教えてもらいました。バードを探して歩きまわっている内に、コールマン・ホーキンスやデクスター・ゴードン、ジミー・コブらとも知り合いになります。そしてついに「ヒートウエイヴ」というクラブでバードと遭遇するのです。「ヒートウエイヴ」や「ミントンズ」では、バードは王様として扱われていました。しかしその内に1944年12月アイリーンがやってきます。ミントンズでバードにセロニアス・モンクを紹介されます。しかしその頃はまだジュリアードにも通っていました。ミントンズにディズとバードが出る時は、席は満員で、席の奪い合いが激しく、ものすごい熱気だったそうです。マイルスは他にも、J.J.ジョンソンやマックス・ローチ、アート・ブレイキーとも親しくなります。

[ジョン・コルトレーン]
マイルスと同い歳、1944年は17〜18歳です。1943年6月11日高校を卒業したコルトレーンは、人種差別の激しい南部の町、ハイポイントを出て友人ブラウアー、ジェイムズ・キンザーと共にフィラデルフィアへと向かいます。フィラデルフィアへやって来たコルトレーンは、製糖工場やキャンベル・スープの工場で働きながら、オルンスタイン・スクール・オブ・ミュージックへ通い、音楽の基礎を学ぶ傍ら、フィラデルフィアの地元ミュージシャンたちとジャム・セッションに興じる日々を送ります。手には母親から17歳の誕生日に送られたアルト・サックスがありました。
[ビル・エヴァンズ]
ビル・エヴァンズは1929年うまれですので、1944年は15〜16歳。唐突にピアノを弾いて報酬を得ていたとあります。1944年冬コニー・アトキンソン・シニアという人物が率いるダンス・バンドのメンバーとして、ニュージャージー州ニュー・ブランズウィックにあるYMCAのステージに立ちます。アトキンソンのバンドで演奏するのはこの日が初めて。レギュラー・メンバーの大半が兵役に就いたためのピンチ・ヒッターでした。このバンドのリーダーの息子のアトキンソン・ジュニア(ベース)が参加していました。このダンス・バンドでの仕事が終わる頃、エヴァンスとジュニアは友人となり、ピアノとベースということから、互いの家に通ってはジャム・セッションに興じるようになります。2人が演奏していた曲は、スタンダード・ナンバーやビ・バップと言われる新しいスタイルのジャズだったそうです。

[穐吉敏子]
エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1944年は14〜15歳。戦争が苛烈になったことは、陸軍看護婦の募集が学校にも来たことで感じたそうです。お国のためになろうと思い、親の反対を押し切って応募しました。当時の担任の先生に連れられて興城市にある大きな陸軍病院に行きます。それから即製の看護婦養成のための訓練が始まり、かなり過酷な日々が続いたそうです。この期間2回ほどピクニックに行くことがあったそうですが、その時手放しがたく思って持ってきていたピアノの本を出してみていたら、翌日看護婦長に呼ばれ、「そんな軟弱な心ではいけない」と叱られたそうです。
8月初め、訓練終了後に行く希望地を書くように言われ、第1希望地に「最前線」と書き、第2希望地に両親のいる「遼陽」と書いたそうです。やはり15歳の少女だったのだと書いています。

[ウエイン・ショーター]
1933年生まれなので、10〜11歳です。40年代初頭多くの子供がそうだったように、漫画本に夢中になりむさぼり読んだそうです。

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