僕の作ったジャズ・ヒストリー 31 ビ・バップの時代3 1946年

1945年8月14日マンハッタン

右写真は1945年8月14日ニューヨーク・マンハッタンに集まった戦争終結を喜ぶニューヨーカー達です。長く続いた戦争も終わり、戦争そのものそしてそれに伴う耐乏生活にうんざりしていた彼らは、過去のことは忘れて、未来に約束された平和と繁栄と豊かさを進んで受け入れようとしていました。それは、新しい時代「アメリカの世紀」の始まりの時であり、アメリカ合衆国は正に世界の主導権を握る勢力になろうとしていました。
しかしあれだけ大きな大戦の影響は、戦敗国にはもちろん過重にのしかかっていましたが、戦勝国であるアメリカにも押し寄せてきます。例えば戦地に派遣した徴兵制度によって集められた兵士たちが、戦争が終われば必要なくなり、帰国してきます。その数は正確には分かりませんが、1956年までに780万人が復員兵援護法による教育給付を利用したと言われていますので、1000万人規模の復員兵がいたことが想像されます。要はこれまでこれらの人々がいない状態で、生産活動などを行っていたところに突然1000万人もの人がやって来ることになるのです。そしてこれまで戦争に使う目的で、日に夜を次いで生産してきた兵器や武器、爆弾などが戦争が無くなれば作る必要が無くなるのです。これは国内産業に大きな影響を与えることになっていきます。これらの社会情勢については、「そもそもモール」で詳しく見ていくこととして、アメリカの大衆スポーツ・芸能の状況と主題であるジャズの動きを見ていきましょう。

アメリカの大衆スポーツ・芸能

[プロ野球]
ジャッキー・ロビンソン

第二次大戦が終わった前年1945年観客動員数が初めて1,000万人の大台を突破しました。そしてこの年は、レッド・ソックスの大スター、テッド・ウィリアムズが3年ぶりに大リーグに復帰するなど、完全に大戦が終結した開放感からか、1850万人と大幅に観客動員が激増しました。
リーグ戦は、4月16日に開幕し、10月15日に全日程を終了しました。ナショナル・リーグはセントルイス・カージナルスが2年ぶり9度目のリーグ優勝を果たし、アメリカン・リーグはボストン・レッドソックスが28年ぶり7度目のリーグ優勝でした。ワールド・シリーズはセントルイス・カージナルスがボストン・レッドソックスを4勝3敗で破り、2年ぶり6度目のシリーズ制覇を達成しました。
またこの年の重要な出来事として、黒人初のメジャー・リーガー、ジャッキー・ロビンソン(写真右)のメジャー・リーグ挑戦が始まったことです。前年8月にドジャースと契約を交わしたジャッキー・ロビンソンは、まず3A級のインターナショナル・リーグのモントリオール・ロイヤルズでプレーします。このロイヤルズで、124試合出場、打率3割4分9厘を記録し、インターナショナル・リーグの首位打者となります。そして翌1947年、ドジャースの社長でありゼネラル・マネージャーのブランチ・リッキーは、ロビンソンをメジャー・デビューさせるのです。これは実にセンセーショナルなことであり、大きな話題となります。

[アメリカン・フットボール]

前年同様この年も東西とも5チームで戦われ、西地区優勝のシカゴ・ベアーズが、東地区優勝のニューヨーク・ジャイアンツを24対14で破り、NFLチャンピオンに輝きました。

[バスケット・ボール]
「失われた週末」ポスター

アメリカの国際YMCAトレーニング・スクールに在籍していた体育教師、ジェームズ・ネイスミスが考案したとされるバスケットボールは、冬季間生徒たちが屋内で活動するスポーツとして、次第に人気を博し、その気の高まりにともない、プロフェッショナルのリーグが誕生しました。そしてこの年1946年には、ナショナル・バスケットボール・アソシエーション(NBA)が設立され、プロのバスケットボール・リーグとして成長していくことになります。

<映画>

1945年の作品を対象とするこの年の第18回(1946年3月7日発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのは、ビリー・ワイルダー監督レイ・ミランド主演の「失われた週末(The lost week-end)」でした。この作品は、は作品賞の他監督賞、主演男優賞、脚色賞の4部門を受賞。また、第1回カンヌ国際映画祭では最高賞であるグランプリ(現在のパルム・ドール)を受賞しました。アカデミー作品賞とカンヌの最高賞を同時に受賞したのはこれまでに、4作品のみです。
この作品は観ていないのですが、ストーリーは、アルコール依存症となってしまった主人公の売れない作家となんとか彼を更正させようとする兄と恋人の努力を描いた物語のようです。この作品は、アルコール依存症を正面から見据えた最初の作品と言われます。配給会社のパラマウントは、酒造業界から「その作品を処分してくれたら500万ドル払おう」との申し出を受けたといいます。この作品の後にも、「酒とバラの日々」(1962年)など、アルコール依存を題材にした映画が多く見られるようになりますが、アメリカでは深刻な問題だったのでしょうか?

[ポピュラー・ミュージック]

1946年のヒットチャートを見てみましょう。

「ナット・キング・コール/ザ・クリスマス・ソング」収録CD
順位アーティスト曲名
ペリー・コモ(Perry Como)プリゾナー・オブ・ラヴ(Prisoner of love)
フランク・シナトラ(Frank Sinatra)ファイヴ・ミニッツ・モア(Five minutes more)
ジ・インクスポッツ(The Ink Spots)トゥ・イーチ・ヒズ・オウン(To each his own)
フレディ・マーチン(Freddy Martin)シンフォニー(Symphony)
ジ・インクスポッツ(The Ink Spots)ザ・ジプシー(The gypsy)
ヴォーン・モンロー(Vaughn Monroe)レット・イット・スノウ!レット・イット・スノウ!レット・イット・スノウ!(Let it snow! Let it snow! Let it snow!)
フレディ・マーチン(Freddy Martin)トゥ・イーチ・ヒズ・オウン(To each his own)
ジョニー・マーサー(Johnny Mercer)パーソナリティ(Personality)
フランキー・カール(Frankie Carle)ルーマーズ・アー・フライング(Rumors are flying)
10ナット・キング・コール(Nat King Cole)ザ・クリスマス・ソング(The Christomas song)

この年のヒット・チャートのベスト10は非常に特徴的です。先ず全曲がスロウのバラードだということと何と女性が一人も入っていません。こんなことはこれまで考えられないことです。紅白歌合戦でいえば、完全に白組の圧勝です。但し、9位のフランキー・カールはバンド・リーダーで、歌っているのはマージョリー・ヒューズ(Marjorie Hughes)という女性シンガーです。
さらに面白いのは、クリスマス・ソングが2曲(6位のヴォーン・モンローと10位のナット・キング・コール)もランク・インしていることです。チャート・イン10曲中最も日本で有名なのは、10位にランクされたナット・キング・コールの「ザ・クリスマス・ソング」ではないでしょうか?歌手であり、作曲家でもあるメル・トーメ(Mel Torme)の作としても有名ですね。左写真はその収録CDです。

ジャズ界の動き

ニューオリンズで演奏するバンク・ジョンソン・バンド

今更ですが、僕のジャズの歴史に関する基本的な考えを書いておきます。よくジャズの歴史を扱った本に、ニューオリンズ・ジャズ(ディキシーランド・ジャズ)⇒スイング・ジャズ⇒ビ・バップ⇒モダン・ジャズ(ハード・バップ)のように、一つの流れのように書かれていますが、実際はそうではありません。ニューオリンズ近郊でジャズが生まれた時には、一つのスタイルだけだったかもしれませんが、その後ジャズは、スイング、そしてビ・バップと幅広げていったのです。この回で扱う1946年は正にビ・バップの真っただ中の時代ですが、ニューオリンズ・スタイルが消え去ったわけではなく、そのスタイルで演奏するミュージシャンがおり、演奏を続けていましたし(写真左はニューオリンズで演奏するバンク・ジョンソン・ジャズ・バンド)、スイング・スタイルで演奏をつづけたミュージシャンもいます。
一つ面白いレコードがあります。ハリー・ダイヤル(Ds)のカルテットのニューヨークのラジオ放送音源です。このバンドのメンバーは、他にリューベン・リーヴス(Tp)、ヘンリー・ジョーンズ(Cl&Saxes)、ハリス・プリンス(p)の3人ですが、一人としてスイング・ジャーナル社発行「ジャズ人名辞典」には載っていません。こう言っては何ですが、二流のミュージシャンです。そんな彼らが地方の番組ではなく、耳の肥えたジャズ・ファンが多いと思われるニューヨークの放送局に出演し、腕前は確かですが何の変哲もないスイング・ミュージックやニューオリンズ風ブルースやブギ・ウギを演奏しているのです。詳しくは「ハリー・ダイヤル 1946年」をご覧ください。ということはそういうニーズがあったということでしょう。
但し新しい響きのジャズとしてビ・バップが演奏スタイルの幅広げる最先端にあり、注目されていたのは事実です。そのようなことからビ・バップが記述の中心になるかもしれませんが、僕の持っている限りの他のスタイルの演奏を記録したレコード・CDも取り上げてこの時代のジャズ全般を眺めてみたいと思います。

エスクワイヤー誌 1946年2月号

この年のジャズ界の動きは活発です。これまで以上にたくさんのレコーディングがなされたように思います。ただそれはもしかすると、たまたま僕が持っているレコード・CDにこの年に吹き込まれたものが多いということなのかもしれませんが。そして拙HPに初めて登場する新人もかなり増えています。そして若いミュージシャン達を中心にビ・バップに取り組む人が益々多くなってくるのです。それでは個別に見ていきましょう。

ジャム・セッション・レコードの増加

1944年7月2日に旗揚げされたノーマン・グランツのJ.A.T.P.(Jazz at the philharmonic)は、戦時下の1945年は実施されてはいたようですが、余り目立った動きはしていなかったように思います。この年は、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーと言ったバッパー、レスター・ヤング、コールマン・ホウキンスと言った大御所がたくさん参加して、興味深い録音が多々あります。そちらは、各ミュージシャンの項でご確認ください。
雑誌"Metronome"誌の行うメトロノーム・オールスターズによるレコーディングが行われていましたが、大戦下となった1943年以来中止されていました。それ後この年復活し、第5回目の録音が行われます。 メンバーの主力はウディ・ハーマンとデューク・エリントンのバンドで、当時の人気バンドからの選出だったことが分かります。そこに新たに"Esquire"誌が加わります。こちらは作曲家であり、評論家でもあるレナード・フェザー氏が辣腕をふるい、1946年1月10日にレコーディング、1月16日にコンサートを行います。こちらにはルイ・アームストロングが加わっています。この時期のアームストロングさえもビ・バップの影響を受けていたと言われる興味深い録音です。二つの録音は、「マガジン・オール・スターズ 1946年」としてまとめました。

黒人ビッグ・バンド

カーネギー・ホール・コンサート
デューク・エリントン
エリントンとその楽団は2度のカーネギー・ホール・コンサート(写真左)や「エスクァイアーズ・オール・アメリカン・ホット・ジャズ」への出演、ウディ・ハーマンの楽団との共演などかなり幅広い活動が目立ちます。しかし演奏は、あくまでエリントン・ミュージックだったというところがすごいところです。詳しくは「デューク・エリントン 1946年」をご覧ください。

カウント・ベイシー
資料を見るとレコーディングは行っていたようですが、残念ながら僕はこの年のベイシー楽団のスタジオ録音を持っていません。持っているのは放送音源のみです。パーソネルを見て興味を惹かれるのは、トロンボーンにJ.J.ジョンソンが加わったことですが、ソロを取っているのかどうか判然としません。詳しくは、「カウント・ベイシー 1946年」をご覧ください。

ベニー・カーター
マイルス・ディヴィスの自伝などを読むと、この年カーターは自分のバンドを率いてツアーを行っていたことが分かる。一時マイルスも加わり西海岸にツアーを行っている。ある時カーターが、自身のプレイについてマイルスに聞いたという。「俺の演奏は、チャーリー・パーカーに似ているかい?」これにマイルスは、「いや、ベニー・カーターに似ている」と答えたという。この実績あるヴェテラン・プレイヤーですら、チャーリー・パーカーを意識せざるを得ない状況だったことがよく分かるエピソードである。右は、カーターのチョコレート・ダンディーズのSP盤ラベル。詳しくは、「ベニー・カーター 1946年」をご覧ください。
ライオネル・ハンプトンとアンディ・カーク

ライオネル・ハンプトンのこの年の音源は1曲しか持っていません。注目は、拙HPでは初登場のTsのジョニー・グリフィン、アーネット・コブ辺りでしょうか。詳しくは「ライオネル・ハンプトン 1946年」をご覧ください。
アンディ・カークの吹込みも、1曲しか持っていません。ビッグ・バンド時代のファッツ・ナヴァロのプレイが注目されます。詳しくは「アンディ・カーク 1946年」をご覧ください。
残念ながら、これまでの常連、ジミー・ランスフォード、アール・ハインズなどの録音は保有していません。

白人ビッグ・バンド

ボブ・クロスビーのレコード

このコーナーの常連ベニー・グッドマン、トミー・ドーシー、アーティ・ショウの録音は残念ながら持っていません。

ボブ・クロスビー
ボブ・クロスビーは1942年以来の久しぶり登場。かつてはディキシー・ランド・ジャズを得意にしていたバンドですが、堂々たるスイング・バンドに変身しています。これは僕がこの間のレコードを持っていないだけで、徐々に進行していたのかもしれません。特に傑出した奏者というのは見当たりませんが、アレンジも見事で実に聴き応えのあるスイング・ジャズを演奏しています。詳しくは「ボブ・クロスビー 1946年」をご覧ください。
ジーン・クルーパ
自身のビッグ・バンドを再編したクルーパは、この年長年在籍したコロンビアに吹き込みを行います。チャーリー・ヴェンチュラ、レッド・ロドニーというバッパーを擁しながら、立派なスイング・ジャズを展開しています。詳しくは、「ジーン・クルーパ 1946年」をご覧ください。

新進気鋭のビッグ・バンド

ウッディ・ハーマン

この時代、人気、実力ともNo.1だったと言われるのが、ウディ・ハーマン率いる「ファースト・ハード」と呼ばれる楽団です。「ファースト・ハード」はアレンジャーに、バップ志向の強いニール・ヘフティ、ストラヴィンスキーやダリウス・ミヨーといった現代音楽を学び、デューク・エリントンを敬愛するラルフ・バーンズ等を擁し、ベースのチャビー・ジャクソンが強烈にバンドをスイングさせていきます。右はハーマン楽団を指揮するストラヴィンスキーです。詳しくは「ウッディ・ハーマン 1946年」をご覧ください。

スタン・ケントン
スタン・ケントンのバンドもこの年順調にユニークな演奏を記録しています。オディ・オデイの後任、ジューン・クリスティも人気シンガーに育って行きます。詳しくは「スタン・ケントン 1946年」をご覧ください。

ボイド・レーバーン

日本ではほとんど知られていないボイド・レーバーン(写真左)。斬新な演奏を行いながら、国内ではほとんどレコードの出ていないと思われます。僕の持っている5枚のアルバムもよく見ると全て放送音源で、スタジオ録音がありません。この年の音源には、以前バンド・メンバーだったガレスピーが客演して「チュニジアの夜」という録音も含まれています。詳しくは「ボイド・レーバーン 1946年」をご覧ください。

クロウド・ソーンヒル
唯一無二の「サウンド・オブ・クラウド」(Sound of Cloud:雲のサウンド)と呼ばれたクロウド・ソーンヒルの本当の活躍はこの1946年の海軍除隊後に再結成されたバンドで始まります。新しい響きは、ビ・バップだけではありません。耳当たりの良い、雲のようなサウンド、ここから後の「クール・ジャズ」が生まれるのです。詳しくは「クロウド・ソーンヒル 1946年」をご覧ください。

ビ・バップの隆盛

チャーリー・パーカー

チャーリー・パーカー(以下バード)はこの年明けを西海岸、ロスアンゼルスで迎えます。そこでJ.A.T.P.コンサートや地元に新設されたレーベル、ダイヤル・レコードへの録音など重要な吹込みを行いますが、アルコール依存症などが進み、精神状態が不安定になり、カマリロ病院へ収容されるのです。右は昏迷状態で吹いた「ラヴァー・マン」を収録したアルバム。詳しくは「チャーリー・パーカー 1946年」をご覧ください。

ディジー・ガレスピー

ディジー・ガレスピーもこの年は、チャーリー・パーカーと共に、新年をロスアンゼルスで迎えます。西海岸遠征隊の隊長ガレスピーは、西海岸でのギャラと飛行機の切符をパーカーに渡し、他のメンバーと共に懐かしのニューヨークに戻ります。そして6月念願のビッグ・バンドの再編成に挑むのです。詳しくは「ディジー・ガレスピー 1946年」をご覧ください。

マイルス・ディヴィス
マイルス・ディヴィスは、この年ベニー・カーターの楽団に入り、西海岸に行っているチャーリー・パーカーとガレスピーを追って自身も西海岸に向かいます。そしてこの地でパーカーとレコーディング行ったり、地元のミュージシャン、チャールズ・ミンガスとも親しくなり、一緒にプレイをしたりと経験を積んでいきます。詳しくは「マイルス・ディヴィス 1946年」をご覧ください。
チャールス・ミンガス
前出のマイルス・ディヴィスは、時折チャールス・ミンガスのグループに加わって、演奏していたそうですが、その音楽は実験的なものだったと述べています(写真左)。ともかくこの時期のミンガスは、単にビ・バップ志向というようなものではなく、ミンガス・ミュージックのようなものを創り出したいと思っていたように感じます。詳しくは「チャールス・ミンガス 1946年」をご覧ください。

スタン・ゲッツ
スタン・ゲッツは、前年終わりころからベニー・グッドマンに加入し、コンサートやレコーディングに参加していました。そしてグッドマンのバンドが、1945年10月の終わり近くから12月の末まで、グッドマンのバンドはニューヨークを基点に活動行っている間に、ニューヨークでどっぷりとビ・バップの音楽に晒されます。その後いったん西海岸に戻りますが、1946年2月にニューヨークに戻ります。そこでどういう計らいがあったのか分かりませんが、7月末にサヴォイに初のリーダー作を吹き込みます。そこでのプレイは、それまでのレスター・ヤング・スタイルを捨て、ビ・バップ・スタイルに変貌しているのです。詳しくは「スタン・ゲッツ 1946年」をご覧ください。
ファッツ・ナヴァロ
ビッグ・バンドで若き日を過ごした早逝の天才トランぺッター、ファッツ・ナヴァロは、この年ツアーの多い、アンディ・カーク、ビリー・エクスタインと言ったビッグ・バンドを辞めニューヨークに定住をはかります。すると彼の名声は、ミュージシャン達にも広がっていたのでしょう、ケニー・クラークやエディ・ロックジョー・ディヴィスなどの小編成によるバンドの吹込みに参加するようになります。写真左は、ナヴァロとマイルス・ディヴィス(1949年)。詳しくは「ファッツ・ナヴァロ 1946年」をご覧ください。
ハワード・マギー
1946年の彼はチャーリー・パーカーやマイルス・ディヴィスの世話役のような役割で取り上げられることが多いが、実はれっきとした進歩的なミュージシャンである。僕はガレスピーが大きな鉞でなぎ倒すような圧巻のプレイぶりなのに対し、ジャック・ナイフのような鋭さで切り込むようなプレイが身上ではないかと思っています。詳しくは「ハワード・マギー 1946年」をご覧ください。

デクスター・ゴードン
最も早くテナー・サックスにおけるビ・バップ・スタイルを確立させたとされるデクスター・ゴードン(写真右)。この年にはリーダー作を吹き込んでいます。詳しくは「デクスター・ゴードン 1946年」をご覧ください。

ラッキー・トンプソン
テナー・サックスにおけるスイングとバップの架け橋のように言われるトンプソン。彼はスイングとかビ・バップと言った垣根を越えて独自のスタイルで、モダンの時代までプレイをつづけたミュージシャンだと思います。詳しくは「ラッキー・トンプソン 1946年」をご覧ください。
ドン・バイアス
ドン・バイアスは日本ではあまり人気が無いように思えますが、1946年時点で、ジャズ界ではれっきとしたスター・プレイヤーだったといいます。そして46年後半は、ドン・レッドマンの欧州楽旅に加わり、現地でリーダー作などを吹き込んでいます。詳しくは「ドン・バイアス 1946年」をご覧ください。
ソニー・スティット
ソニー・スティットは、この年ディジー・ガレスピーのバンドで活躍していたようです。詳しくは「ソニー・スティット 1946年」をご覧ください。
バド・パウエル(写真左)
僕は前年1945年のパウエルの吹込みを持っておらず、44年クーティ・ウィリアムズのバンドでの吹込み以来となります。いよいよバップ・ピアニストとして活躍する場が整ってきたようです。詳しくは「バド・パウエル 1946年」をご覧ください。
ドド・マーマロサ
ドド・マーマロサはこの年フリー・ランスの進歩的ピアニストとして様々なセッションで活躍するようになります。詳しくは「ドド・マーマロサ 1946年」をご覧ください。
ジョー・オルバニー
僕の持っているジョー・オルバニーのレコードは、2月〜3月に行われた、マイルス・ディヴィスの加わったチャーリー・パーカー・クインテットの録音のみです。その後パーカーとオルバニーは口論となり、オルバニーはクビになったという。そしてパーカーが錯乱状態となり、カマリロ病院に収容されたとき、そこには先にオルバニーが収容されていたそうです。詳しくは「ジョー・オルバニー 1946年」をご覧ください。

アル・ヘイグ(写真)
アル・ヘイグはこの年ディジー・ガレスピー、ファッツ・ナヴァロといったバップ・トランぺッターの吹込みに参加しています。詳しくは「アル・ヘイグ 1946年」をご覧ください。
ハンク・ジョーンズ
ハンク・ジョーンズは、実力あるバップ・ピアニストとしてその活動領域を広げていきます。詳しくは「ハンク・ジョーンズ 1946年」をご覧ください。

エロール・ガーナー
エロール・ガーナーは、1944年以降ソロ或いはトリオといった小編成で数多くの録音を行っていたようですが、これらの録音を全く僕は持っていません。この年のものは、ボイド・レエバーンのビッグ・バンドに参加したものだけです。詳しくは「エロール・ガーナー 1946年」をご覧ください。
オスカー・ピーターソン
オスカー・ピーターソンは、この年もまだ地元のカナダで活動していました。詳しくは「オスカー・ピーターソン 1946年」をご覧ください。
エディ・ヘイウッド
期待の新鋭だったエディ・ヘイウッドはこの頃からコマーシャル色が強くなっていきます。現在でもよく見られるピアニストを中心としたジャズ風イージー・リスニングのはしりと言えそうです。詳しくは「エディ・ヘイウッド 1946年」をご覧ください。

ミルト・ジャクソン(写真)
ミルト・ジャクソンのこの年の録音は多くはありません。ディズやファッツ・ナヴァロのレコーディングにその名前が見られます。詳しくは「ミルト・ジャクソン 1946年」をご覧ください。

レイ・ブラウン
ディジー・ガレスピーの秘蔵っ子レイ・ブラウンはこの年、ガレスピー楽団の土台を支える重要なリズムマンとして活躍します。詳しくは「レイ・ブラウン 1946年」をご覧ください。
アート・ブレイキー
この年もビリー・エクスタイン・バンドを支える強力リズム隊の中心として活躍していましたが、初めてエクスタイン以外との録音があります。詳しくは「アート・ブレイキー 1946年」をご覧ください。

マックス・ローチ(1947年の写真)
マックス・ローチは当代一のビ・バップ・ドラマーと目され、ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーとの共演が増えます。詳しくは「マックス・ローチ 1946年」をご覧ください。

ニュー・カマーズ

ニュー・カマー … ケニー・ダーハム
典型的なビ・バップ・トランペット奏者の一人で、日本でも人気の高いケニー・ダーハムもこの年ディズのバンドに加わり、本格的なバップ演奏を開始します。詳しくは「ケニー・ダーハム 1946年」をご覧ください。
ニュー・カマー … ワーデル・グレイ(写真)
ワーデル・グレイは以前ビリー・エクスタインのビッグ・バンドでのプレイを取り上げたので正確には、ニュー・カマーではありません。グレイはその後アール・ハインズのビッグ・バンドに加入して活動し、レコーディングにも参加していましたが、その録音は残念ながら持っていません。そして1946年後半にハインズ楽団を辞し、ロサンゼルスに移住し積極的な活動を開始します。詳しくは「ワーデル・グレイ 1946年」をご覧ください。

ニュー・カマー … ジョン・コルトレーン
コルトレーンは、1945年8月に海軍に入隊し、1946年8月に除隊します。この録音は、除隊前にその記念として録音されたもので、正式な録音とは言えませんが、最も初期の録音として価値あるものです。そしてこの録音は、どういう経緯かマイルス・ディヴィスの聴くところとなり、マイルスのバンドに入るきっかけとなります。右はその録音時の写真、サングラスをかけているのがコルトレーン。詳しくは「ジョン・コルトレーン 1946年」をご覧ください。
ニュー・カマー … デューク・ジョーダン
拙HPでは、初登場です。詳しくは「デューク・ジョーダン 1946年」をご覧ください。
ニュー・カマー … ビリー・テイラー
ビリー・テイラーも拙HPでは初登場です。テイラーは除隊したばかりでまた新婚だったそうですが、求められてこの年の後半に行われるドン・レッドマン率いるビッグ・バンドの欧州ツアーに参加しました。詳しくは「ビリー・テイラー 1946年」をご覧ください。

ニュー・カマー … ジョン・ルイス
アメリカの中西部ニュー・メキシコ州出身のジョン・ルイスは、音楽的な家庭環境のもと7歳でピアノを習い始めましたが、大学時代は人類学と音楽を専攻していたといいます。42年〜45年11月まで兵役に服しますが、その間にドラムのケニー・クラークと知り合います。そのクラークの勧めでニューヨークに出るのですが、45年末から46年初めにかけて、バード&ディズのバンドが西海岸に遠征した時、ラジオでその放送を聴き、衝撃を受けたこともニューヨーク進出の大きな要因の一つでしょう。そしてそのクラークの勧めで、ディジー・ガレスピーのバンドに参加、マンハッタン音楽院に学びながら、ピアニスト兼編曲者として活動を開始します。そして1946年7月9日ディズのバンドでレコーディング・デビューを果たすことになります。写真左は、ガレスピーバンドのジョン・ルイス。ベースはレイ・ブラウン。詳しくは「ジョン・ルイス 1946年」をご覧ください。
ニュー・カマー … チコ・ハミルトン
チコ・ハミルトンは後にエリック・ドルフィーやチャールズ・ロイドと言った逸材を起用したバン・マスとして有名だが、この年のレスター・ヤングの録音に加わったものが、僕の持っている最も初期の吹込みである。詳しくは「チコ・ハミルトン 1946年」をご覧ください。

ニューオリンズ・リヴァイヴァル

バンク・ジョンソン

バンク・ジョンソン・ジャズ・バンドは、1945年ニューヨークで歴史的なデビューを果たした後、いったんニューオリンズの戻り、バンクはバンドを解散します。時期は不明ですが、レコード解説によれば、バンクは再びニューヨークに向かいます。アメリカン・レコードのウィリアム・ラッセル氏は、バンクを追ってニューヨークへ行き、録音を行ったといます。ラッセル氏のノートには1946年6月ニューヨーク57番街で吹き込んだと記載されていますが、イエプセンのディスコグラフィーには1946年4月録音と記載されているそうです。ともかくこの年の録音は僅かです。右写真はバンクジョンソンとシドニー・ベシェ。詳しくは「バンク・ジョンソン 1946年」をご覧ください。

ジョージ・ルイス
バンク・ジョンソン・ジャズ・バンドに在団していたジョージ・ルイスは、1945年ニューヨークでデビューを果たした後、ニューオリンズの戻ってきます。そしてバンクはバンドを解散します。そこに当時サークル・レコードの社長をしていた研究家のルディ・ブレシュ氏が訪れ、ジョージ・ルイスに一切の人選を任せ、レコーディングを行います。その音源を後に<Riverside records>が買い取って、LP化しています。詳しくは「ジョージ・ルイス 1946年」をご覧ください。

ディンク・ジョンソン(写真左)

ディンク・ジョンソンも、ニューオリンズ・リヴァイヴァルによってスポットライトが当たったジャズメンの一人と言えるでしょう。。詳しくは「ディンク・ジョンソン 1946年」をご覧ください。

エディ・コンドン

僕の持っているこの年の録音は、Tp奏者のワイルド・ビル・ディヴィソン名義のレコーディングに加わった録音のみです。詳しくは「エディ・コンドン 1946年」をご覧ください。

映画『ニューオリンズ』で共演するサッチモとキッド・オリィ
ルイ・アームストロング

ルイ・アームストロングは、ニューオリンズ・リヴァイヴァルによって復活したわけでは、ありませんが、彼がこの年代でも、自身のバンドを率いて活躍していることは、多くのニューオリンズ・ジャズメンにとって、大きな励みとなったと思われます。詳しくは「ルイ・アームストロング 1946年」をご覧ください。

キッド・オリィ

テイルゲート・トロンボーンの伝説的な名手、キッド・オリィ(写真右はオリィとサッチモ)の1946年10月のレコーディングに続き、ビリー・ホリデイの映画『ニューオリンズ』でルイ・アームストロングと共演するなど、健在なところを見せてくれました。写真はその映画『ニューオリンズ』の1シーン。詳しくは「キッド・オリィ 1946年」をご覧ください。

その他の大御所たち

レスター・ヤング

この年1946年レスター・ヤングは、初めてJ.A.T.P.コンサートに参加します。他にアラジン・レコードなどへの吹込みもありますが、レスターには合わないだろうと言われたJ.A.T.P.でのソロの方がよりレスターらしいソロを展開しているように感じます。詳しくは「レスター・ヤング 1946年」をご覧ください。

コールマン・ホーキンス

前年1944、5年と新しい響きの音楽、ビ・バップへの積極的な取り組みを見せたコールマン・ホーキンスのこの年の録音を聴くと、そういうことではなく、自分のスタイルに戻っているように感じます。要はスイング・スタイルでもなく、バップ・スタイルでもなく、ホウキンス・スタイルだということです。詳しくは「コールマン・ホーキンス 1946年」をご覧ください。

「クラシック・テナーズ 第2集」レコード・ジャケット
ベン・ウエブスター

この年1946年ベン・ウエブスターは、拙HPでは初となるリーダー作の録音を行います(写真右)。詳しくは「ベン・ウエブスター 1946年」をご覧ください。

ロイ・エルドリッジ

ロイ・エルドリッジは、アーティ・ショウの楽団に1945年9月に退団し、その後しばらくはフリー・ランスとして活動していたようですが、1946年1月に、自己のビッグ・バンドを立ち上げ、活動を開始します。詳しくは「ロイ・エルドリッジ 1946年」をご覧ください。

ナット・キング・コール

コールはこの年チャーリー・パーカーと共演するなど、その優れたピアノの才能を発揮していますが、それにもまして重要なことは、この年一ヴォーカリストとして吹き込んだ「ザ・クリスマス・ソング」が全米で大ヒット。年間ヒット・チャート10位にランクされます。ここから彼のヴォーカリストとしての道が大きく開かれていくことになります。詳しくは「ナット・キング・コール 1946年」をご覧ください。

ジャンゴ・ラインハルト(写真左)
ジャンゴ・ラインハルトも久しぶりです。1945年に長く続いた大戦も終結したが、本国フランスは大戦の主戦場の一つであり、まだまだ復興もままならなかったのでしょう。大戦後初のジャンゴのレコーディングは、海を渡ったロンドンで行われます。当時は大陸から、渡ってくる人数に制限があったようで、ジャンゴとグラッペリ以外は地元イギリスのミュージシャンが起用されることとなりました。そしてこの年の後半、ジャンゴはデューク・エリントンに招かれ、デュークの国内ツアーに帯同します。残念ながらこの時の演奏は正規盤には録音されなかったようです。詳しくは「ジャンゴ・ラインハルト 1946年」をご覧ください。

ブルーノート・レコーズ

ブルーノート・レコード・CDボックス この年のブルーノート・レコードのレコーディングの数は前年1945年ほど多くはありません。未だディキシーランド・ジャズやスイング・ジャズ、ブルースを中心にレコーディングを行っていました。
シドニー・ベシェ … 「シドニー・ベシェ 1946年」をご覧ください。
ジョン・ハーディ― … 「ジョン・ハーディ― 1946年」をご覧ください。
アイク・ケベック … 「アイク・ケベック 1946年」をご覧ください。

シンガー達

ビリー・ホリデイ

ビリー・ホリデイは、デッカの専属となりますが、ノーマン・グランツが主催するJ.A.T.P.にも参加し、また晩秋にはハリウッドに向かい、映画出演を果たします。詳しくは「ビリー・ホリデイ 1946年」をご覧ください。

ミルドレッド・ベイリー

ミルドレッド・ベイリーは、久しぶりです。しかもこの年は数多くの録音を行っています。詳しくは「ミルドレッド・ベイリー 1946年」をご覧ください。

サラ・ヴォーン()
若きサラ・ヴォーン

サラ・ヴォーンは、この年ジョージ・オウルドやテディ・ウィルソンというスイング系のジャズメンとレコーディングを行っています。また翌年結婚することになるジョージ・トレッドウェルをディレクターに起用したレコーディングを行います。詳しくは「サラ・ヴォーン 1946年」をご覧ください。

アイヴィー・アンダーソン

1942年デューク・エリントンの楽団をツアーに耐えかねて退団、気候の良い西海岸に移り、スナックを経営しながら、健康の許す限り歌を歌っていたといいます。そんな彼女のエリントン楽団退団後の吹込みは誠に少なく貴重。ベースにチャールズ・ミンガスが入っているのが珍しいですね。詳しくは「アイヴィー・アンダーソン 1946年」をご覧ください。

ヘレン・ヒュームズ

ヘレン・ヒュームズは、1941年春カウント・ベイシー楽団を退団し、44年カリフォルニアへ移住します。詳しくは「ヘレン・ヒュームズ 1946年」をご覧ください。

パイド・パイパーズ

ザ・パイド・パイパーズは、この年も見事なコーラスを聴かせてくれています。詳しくは「パイド・パイパーズ 1946年」をご覧ください。

ブルース・ピープル

僕の持っているこの年録音のブルースは1曲だけです。しかしこの1曲が後に世界を変える曲になります。詳しくは「ブルース・ピープル 1946年」をご覧ください。

ミュージシャンの自伝・評伝が語る1945年

このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1946年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみます。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。

ミュージシャン名生年月日生地自伝・評伝著者
ビル・エヴァンズ1929年8月16日ニュージャージー州プレンフィールド評伝『幾つかの事柄』中山康樹
穐吉敏子1929年12月12日旧満州国遼陽自伝『ジャズと生きる』穐吉敏子
ウエイン・ショーター1933年8月25日ニュージャージー州ニューアーク評伝『フットプリンツ』ミシェル・マーサー
[ビル・エヴァンズ]
ビル・エヴァンスは、1929年8月16日生まれなので、16〜17歳に当たります。1943年の時に触れた息子のエヴァン・エヴァンズが編集した若き日のビルの演奏遺稿集CD"Bill Evans/Very Early"(右)には、1946年の録音は収められていません。
前年1945年の夏、大戦も終了し、レギュラーとなっていたアトキンソンのバンドに所属していたメンバーが次々とバンドに復帰してきます。臨時雇いだったエヴァンズ、テナーのバシェ、息子のコニーは過剰人員となり、バンドを離れ、学業中心の生活に戻ります。しかしアトキンソンは彼ら、特にエヴァンズに可能性を見出し、奨学金を得てサウスイースタン・ルイジアナ・カレッジに入学できるよう取り計らってくれます。こうしてエヴァンズ、コニー(ベース)、フランク・ロベル(ドラムス)の3人は、ニューオリンズを目指すことになります。アメリカのカレッジの授業は9月に始まります。こうして3人は、昼は授業、夜は様々なバンドに入って小遣いを稼ぐという生活に入るのです。この9月からのニューオリンズ時代は、エヴァンズの独自のスタイルの土台が築かれる重要な時期と中山康樹氏は述べています。

[穐吉敏子]
『ジャズと生きる』 エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1946年は16〜17歳。戦勝国のアメリカのビル・エヴァンズは奨学金を得てニューオリンズで、学びながら夜は小遣い稼ぎをしていたというのが、なんとお気楽な生活だったのだろうと思わざるを得ません。戦敗国日本の国内でも大変だった時代に、満州で敗戦を迎えた穐吉一家の苦労は想像を絶するものだったと思います。この辺りのことは、NHKのTV番組「Long Yellow Road 穐吉敏子の94年」に詳しく触れられています。ともかく1946年6月列車で遼陽を後にし、散々苦労の上7月中旬広島の宇品港にたどり着きます。そこから汽車で大分県の別府に移ります。姉が肺浸潤を病んでいたため、一家は狭いサナトリウムに住むことになります。この時代一家がバラバラにならなかっただけでも幸運だったと言えるでしょう。別府の街には、進駐軍の兵隊がたくさんいて、ダンス・ホール「つるみダンス・ホール」のピアニストに雇われます。
ダンス・ホールで演奏している時、ある若い男の人から声をかけられます。その人からテディ・ウィルソンの弾く「スイート・ロレイン」を聴かされるのです。敏子自身次のように書いています。「このレコードを聴いた瞬間から私の人生は変わった。それまで何という目的もなくただピアノを弾いて過ごしていた毎日からどうしたらあのように素晴らしいピアノが弾けるだろうか、という目的・課題が出来た」と。
そんな折山田竜太郎という人の率いるビッグ・バンドを聴く機会が訪れます。敏子はビッグ・バンドに憧れ、このバンドに入りたいと思うようになります。山田のバンドのマネージャーに気に入られた敏子は、福岡のバンドに入ることになります。

[ウエイン・ショーター]
1933年生まれなので、12〜13歳です。評伝『フットプリンツ』には、次のようなくだりがあります。ウエインには忘れ難い晩がある‐ビ・バップとの出会い、1947年のこととありますので、ウエイン・ショーターの覚醒まであと1年です。

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