1946年3月アメリカを訪問した英国の前首相チャーチルは、ミズーリ州フルトンで「バルト海のシュテッティン(ポーランド)からアドリア海のトリエステ(イタリア北東部)まで、ヨーロッパ大陸に鉄のカーテンが降ろされた」と演説し、ソ連が東ヨーロッパ諸国の共産主義政権を統制し、西側の資本主義陣営と敵対している状況を非難しました。この演説は冷たい戦争(東西冷戦)の幕開けを示すものと捉えられています。時のアメリカ大統領トルーマン(写真右)は、翌47年3月英国からの要請で、共産主義勢力を抑えるため、ギリシャとトルコに経済援助を行うことを言明します。このいわゆるトルーマン・ドクトリンは、世界の現状を多数者の意志に基づく自由な生活様式と「恐怖と圧制」の政治秩序との闘争と捉え、前者の自由主義を守るためには、アメリカは他地域に介入することも避けられないと説明しています。そして47年7月トルーマンは国家安全保障法を成立させ、軍事・外交政策の立案・実施プロセスを再編していきます。
トルーマンが取り組んだ「国家安全保障国家」は、全面的に国内から支持されたわけではありません。共和党や民主党リベラル派からも反対の声が上がっていました。トルーマンの「国家安全保障国家」を最も支持し、後押ししたのは南部民主党でした。南部は第二次世界大戦中から訓練基地等の国防関連の公共事業を集中的に受注し、冷戦がもたらす軍需の恩恵を最も受けていたのです。そして南部民主党にとって、反共政策と並ぶ重要課題は、白人優位の人種関係の維持でした。しかしそんな南部民主党もトルーマンを全面的に支持していたわけではありません。というのもトルーマンは、国家安全保障の観点から、一定の人種関係の改革を志向していたからでした。1947年10月に出版されたトルーマンの指示によって行われた国内の人種問題の調査報告書は、南部諸州とワシントンDCの人種隔離を強く批判しています。デュボイスが指導するNAACP(National Association for the Advancement of Colored People:全米黒人地位向上協会)などの活動もありながら、まだまだ人種差別は厳然と行われていたのです。その状況は、この年メジャー・リーグにデビューしたジャッキー・ロビンソンの事例からもわかります。
この年最大の話題は、1901年以降初の黒人選手であるジャッキー・ロビンソン(写真)がメジャー・リーグにデビューしたことでした。このことが発表されるや球界はたちまち騒然となりました。16球団のオーナー会議で、ドジャースが黒人選手を採用すると言い出した時、賛成1、反対15でドジャース以外の球団は全て反対したのです。しかしコミッショナーはロビンソンにプレーさせることを決断します。
1947年4月15日、ドジャースの本拠地エベッツ・フィールドで行われた対ボストン・ブレーブス戦でロビンソンはデビューしました。この試合には2万6623人の観衆が入場しましたが、半数以上の1万4000人は黒人だったそうです。
一方、フィラデルフィアなど幾つかの都市ではドジャースの宿舎に脅迫状が舞い込み、ドジャースの属するナショナル・リーグの選手がストライキを起こすという噂が広がり、またセントルイス・カージナルスの一部の選手がドジャースの本拠地での試合をボイコットするという情報も伝わります。しかしカージナルスのブリードン会長がストライキの首謀者を説得し事なきを得ます。
こうした報告を受けたナショナル・リーグのフリック・フォード会長は、ストライキを起こせば無期限の出場停止処分を科すと言明し、またフィラデルフィア・フィリーズのベン・チャップマン監督には試合中にロビンソンに汚いヤジを浴びせたことで譴責処分を下します。このリーグ会長とコミッショナーの強い姿勢、そしてドジャースの監督がロビンソンを擁護することで次第にチーム内では、彼の存在を認めるようになっていきます。
ドジャースのチーム・メイトの中にもロビンソンを排斥する動きが一部にありました。しかし監督のフィリーズ監督への猛抗議から、チーム内の雰囲気は変わっていきました(写真右はロビンソンとフィリーズのベン・チャップマン 1947年)。そしてシーズン半ば頃、その実力を示し始めると、スポーティング・ニュース社はこの年から制定された最優秀新人賞(新人王)の候補者にロビンソンを挙げるに至ります。シーズン終了後、ロビンソンは151試合に出場して打率.297・打点48・本塁打12本・安打175本・盗塁29の素晴らしい成績で盗塁王を獲得、新人王に選ばれます。そして今ではこの賞はジャッキー・ロビンソン賞の別名が付けられて、彼の背番号42は半世紀後に全球団永久欠番となっています。
ロビンソンの活躍により、クリーブランド・インディアンスのオーナーであるビル・ベックはアメリカン・リーグの黒人選手第1号としてラリー・ドビーと契約、ドビーは7月5日の対ホワイトソックス戦でデビューします。そしてその2週間後には同じアメリカン・リーグのセントルイス・ブラウンズが2名の黒人選手の採用を決め、8月にはドジャースはもう一人投手として初めて黒人選手ダン・バンクヘッドと契約しました。
しかし問題はグラウンド内だけではありません。チームが移動中に食事のためにレストランに入っても、ロビンソンを断る店があり、白人選手がレストランで食事中、ロビンソンはバスで、皆が戻ってくるまで待たなければなりませんでした。ドジャースのもう1人の黒人選手テスト生が「こんなことなら、いっそニグロリーグに帰ろう。」と言うと、ロビンソンは「それでは放棄試合だ。われわれは9対0で負けになる。」と答えたと言います。ドジャースのリッキーGMはロビンソンのこの忍耐強さを買っていました。初めて契約する黒人選手は力量以上に強靭な精神力も求められたのです。ロビンソンは、決して自暴自棄にならず、反抗的にもならず、ひたすら耐えてプレーに打ち込みました。如何なるヤジや嫌がらせを受けても反撃しない、そんな「反撃しない勇気」が求められたのです。
1946年の作品を対象とするこの年の第19回(1947年3月13日発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのは、ウィリアム・ワイラー監督フレドリック・マーチ主演の「我らの生涯の最良の年(The best years of our lives)」でした。この作品は作品賞の他監督賞、主演男優賞、助演男優賞、脚色賞、音楽賞、編集賞の7部門を受賞しました。物語は、第二次世界大戦後に市民生活に復帰した復員兵が直面する様々な社会問題をテーマにした数少ない社会派作品の1つです。
1947年の年間ヒットチャートを見てみましょう。
| 順位 | アーティスト | 曲名 |
| 1 | フランシス・クライグ(Franis Craig) | ニア・ユー(Near you) |
| 2 | ペリー・コモ(Perry Como) | チババ・チババ(Chi-Baba,Chi-Baba) |
| 3 | ヴォーン・モンロー(Vaughn Monroe) | バレリーナ(Ballerina) |
| 4 | テックス・ウィリアムズ・アンド・ザ・ウエスタン・キャラヴァン(Tex Williams & the western caravan) | スモーク!・スモーク!・スモーク!(Smoke! smoke! smoke!) |
| 5 | ジェリー・ムラッズ・ハーモニーキャッツ(Jerry Murad's harmonicats) | ペグ・オー・マイ・ハート(Peg O' my heart) |
| 6 | テッド・ウィームズ(Ted Weems) | ハートエイク(Heartaches) |
| 7 | カウント・ベイシー(Count Basie) | オープン・ザ・ドア・リチャード(Open the door , Richard) |
| 8 | ウディ・ガスリー(Woody Guthrie) | 我が祖国(This land is your land) |
| 9 | フランク・シナトラ(Frank Sinatra) | マムゼル(Mam'selle) |
| 10 | アート・ランド(Art Lund) | マムゼル(Mam'selle) |
1位に輝いたのはフランシス・クライグの「ニア・ユー」。クライグはナッシュヴィル出身のピアニスト兼バンド・リーダー。「ニア・ユー」は時々ブギー・ウギーのスタイルを盛り込んだ実に楽しいダンス・ナンバーです。2位はこの時代最高の人気歌手ペリー・コモの「チババ・チババ」。副題に"My bambino go to sleep"(bambinoはイタリア語で赤ちゃん)とあるように、赤ちゃんを寝かしつける時の子守歌、コモの優しいバリトン・ヴォイスが効いています。3位のヴォーン・モンローも当時の人気歌手。「バレリーナ」はミュージカルか映画音楽かな?4位は「煙だ!煙だ!煙だ!」は、この後あのタバコだと続きます。カントリー・ウエスタンのトーキング・ブルース・スタイルの面白ソングといえそうです。5位のジェリー・ムラッズ・ハーモニーキャッツは、ジェリー・ムラッドを中心としたハーモニカ・トリオのインスト・ナンバー。
第6位のテッド・ウィームズはバンド・リーダーで、「ハートエイク」(心の痛み)というタイトルとは似つかわしくない、「南京豆売り」のようなラテン・フレーヴァーの明るいインスト・ナンバー。7位の「戸を開けろ、リチャード」は初めて聴きました。ほとんど語りとドアを叩く音、バンド・メンバーによるコーラスなどで構成された面白ナンバー。8位は、放浪のフォーク・シンガー、ウディ・ガスリーの「我が祖国」。これがオリジナルで、後にピーター・ポール・アンド・マリーなど多くの歌手に歌われました。9位と10位は同じ曲。マムゼル(Mam'selle)とは、「マドモアゼル」のこと。映画監督としても有名なエドムンド・ゴウルディングの作曲したナンバー。フランク・シナトラはご存じの人気歌手。アート・ランドもバリトン・ヴォイスが特徴の当時の人気シンガー。またこの年もベスト10には、女性が一人も入っていません。46年もそうでした。一体どうしちゃったんでしょう?
1940年代後半はビッグ・バンドの受難の時代と言われます。第二次世界大戦の勃発によって相次いでバンドのメンバーを兵役に取られ、戦時特別税としてダンス・ホールやキャバレーには重税がかけられ、それらの多くは閉鎖に追い込まれました。すなわちビッグ・バンドを維持するのには極めて困難な時代でした。ビッグ・バンドの活動は低調になっていきます。多分活発に活動できていたのは、ダンスに特化したビッグ・バンドたちだったのだと推測されます。そんなバンドの一つに、ラッキー・ミリンダ―のバンドが挙げられます。「ラッキー・ミリンダ― 1947年」をご覧ください。
また当時盛んにできたマイナー・レーベルは経費節減のためビッグ・バンドの録音には見向きもしませんでした。また当時急激なビ・バップの勃興は、若手ミュージシャンに大きな影響を与え、これまで演じられてきた同じコンセプトでの一体化したスイング感の破綻も危惧されるようになっていたのです。人々の関心もビ・バップと52丁目を中心に活動しているコンボ演奏に向かっていました。ビッグ・バンドでもビ・バップ的な演奏をいち早く取り入れたウディ・ハーマンやプログレッシヴ・ジャズで名を売ったスタン・ケントンなどの白人モダン・ビッグ・バンドに注目が集まっていきます。そしてモダン期に活躍する多くのジャズがどんどんレコーディングのデータに名前が載るようになってきました。
この時代、人気、実力ともNo.1だったと言われるウディ・ハーマン率いる「ファースト・ハード」。しかし1946年12月10日ハーマンは、突然の解散宣言をし、バンドのメンバー、ファンたちをびっくりさせます。かくして1947年1月実力、人気とも頂点にあったウディ・ハーマンの楽団は解散するのです。しばらく家族と楽しく日々を送り、趣味でゴルフも始めましたが、今一つ満足する事が出来ませんでした。ハーマンは所詮バンドと共に生き、常に新しいアイディアに挑むミュージシャンだったのです。心底から何か創造的なことを手掛けずにはいられないハーマンは、解団して1年足らず、1947年秋にはメンバーをほぼ一新してバンドを結成し、リハーサルを始めます。「セカンド・ハード」(写真左)の誕生です。詳しくは「ウッディ・ハーマン 1947年」をご覧ください。
これまで斬新な演奏を行いながら、ほとんど知られていなかったボイド・レーバーン楽団。経営上の理由からかこの年の演奏はポップス寄りで、ジャズ的魅力が薄れてきています。詳しくは「ボイド・レーバーン 1947年」をご覧ください。
このコーナーの常連ベニー・グッドマンが自身のビッグ・バンドを率いて吹込みを行ったレコードは、持っていません。キャピトルの企画ものに加わった吹込みや映画出演の音楽などを保有している程度です。詳しくは「ベニー・グッドマン 1947年」をご覧ください。
常連組の一人は、キャピトルの企画ものの他に2曲だけ自己名義の録音が「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ/ザ・サウンド・オブ・スイング」に収録されています。詳しくは「トミー・ドーシー 1947年」をご覧ください。
ジーン・クルーパは、この年もまだ自己のビッグ・バンドを維持していました。注目はアレンジャーとして若干19歳のジェリー・マリガンがデビューしてることです。詳しくは、「ジーン・クルーパ 1947年」をご覧ください。
チャーリー・パーカー(以下バード)は1947年1月末カマリロ病院を退院し、シャバへ戻ってきます。しばらくはロスアンゼルスにいて、クラブに出演したり、ダイヤル・レコーズへ吹き込みを行ったりしていましたが、4月の初めついにニューヨークへ戻ります。ニューヨークでのパーカーは、有名なレコーディング・アーティストであり、ディジー・ガレスピーと同じレベルのバンド・リーダーとしてもてはやされる人間になっていました。パーカーは、マネージャーとしてビリー・ショウと契約、そしてパーカー自身が5人編成のバンドを組むという条件で、クラブ「スリー・デューセズ」と週給800ドルで4週間の好条件の出演契約を交わします。このクインテットは、「クラシック・クインテット」(写真左)と呼ばれ、数々の名演を記録していくことになります。詳しくは「チャーリー・パーカー 1947年」をご覧ください。
大のビッグ・バンド好きで知られるディジー・ガレスピーが前年1946年5月に再編した第二次ビッグ・バンド(写真右)は、色々メンバー・チェンジを重ねながらまさに絶頂期を迎えようとしていました。今となっては伝説にも近いこのビッグ・バンドの真価を一言でまとめれば、「一種の粗暴さの魅力」、桁外れの野性味にあったと言えるでしょう。バンドのスタイルは、ディズの旧友ギル・フラーによって設定され、加えてタッド・ダメロンやジョン・ルイス、ジョージ・ラッセルといった才能あるアレンジャーが手の込んだ編曲を提供しました。そして年末には、キューバの天才パーカッション奏者チャノ・ポゾが加わり、バップらしいアンサンブルとポゾのアフロ・キューバンのリズムが相俟って、最高度にエキサイティングなビッグ・バンド・ジャズを生み出していきます。詳しくは「ディジー・ガレスピー 1947年」をご覧ください。
マイルスは、バードを追ってビリー・エクスタインのバンドに加入して1946年夏からロスアンゼルスにやって来ていました。そしてエクスタインのバンドの仕事がないときはスモール・グループを作って“フィナーレ”のような小さなクラブに出演したり、当時非常に仲良くなったチャールズ・ミンガスとリハーサルをしていたそうです。しかしバードはおかしくなって、カマリロに収容されてしまうと、ロスにいる理由がなくなったので、1946年の秋の終わり頃エクスタインのバンドとニューヨークに帰ろうとします。この時バードを見捨てたと思ったミンガスと口論になったというエピソードは有名です。なお、マイルスはバードやエクスタインのバンドでのプレイが評価されて、エスクァイヤ誌のTp新人賞に輝きました。
さて、ニューヨークに戻ったマイルスは、4月ニューヨークに戻ったバードに選ばれ、「クラシック・クインテット」の一員となります。実質的にクインテットを切り盛りするマイルスを見ていたサヴォイから、リーダーとしての吹込みの話が持ち込まれます。こうして初めてリーダー録音が、8月14日に行われます。詳しくは「マイルス・ディヴィス 1947年」をご覧ください。
エロール・ガーナー(写真右)(写真左)は、この年チャーリー・パーカーなどといい仕事をしています。詳しくは「エロール・ガーナー 1947年」をご覧ください。
ソニー・クリス(写真右) … 明るくよく歌うアルト・サックス奏者というイメージがあるソニー・クリス。拙HPではこの年に初登場します。詳しくは「ソニー・クリス 1947年」をご覧ください。これまでに登場したバップ系のミュージシャン、ジョー・オルバニー、アル・ヘイグ、ケニー・ダーハム達のこの年の録音を持っていません。
1947年秋、バンク・ジョンソンは前年春に解散したバンドのメンバーを補充して、ニューヨークの「スタイブサント・カジノ」(Stuyvesant casino)のステージに戻ってきます。新しいメンバーは実績のあるミュージシャンばかりで、これはたぶん自分に見切りをつけて去っていった、ジョージ・ルイスやジム・ロビンソン、ロウレンス・マレロに対する意趣返しということもあったと思われます。しかし結果は全くと言っていいほど受けませんでした。そこでこのバンドをPRしようと考え、レコードを作ることにします。このレコーディングを終えた1週間後、バンクは故郷のニューオリンズに戻ります。そして翌1948年脳卒中で倒れ、翌年7月7日帰らぬ人となるのです。69歳でした。つまりこの時の吹込みが最後の吹込みとなってしまいます。詳しくは「バンク・ジョンソン 1947年」をご覧ください。
これまでに登場したニューオリンズ・ジャズ系のミュージシャン、ジョージ・ルイス、ディンク・ジョンソン、キッド・オリィ、エディ・コンドン達のこの年の録音を持っていません。
ルイ・アームストロングはこの頃ビッグ・バンドを率いてエンターティナーとして活動していましたが、レナード・フェザー氏を初めとする評論家たちは、ルイは小編成のコンボの方がより活きると考えていました。そして彼らはマネージャーのジョー・グレイザーを説得して、タウンホールでコンボによるコンサートを開催します。右はその告知するジャズ・トリビューン紙。その模様は録音され、傑作の誉れ高い作品となります。詳しくは「ルイ・アームストロング 1947年」をご覧ください。
コールマン・ホーキンスはこの年も存在感のあるプレイを聴かせてくれます。詳しくは「コールマン・ホーキンス 1947年」をご覧ください。
この年もレスター・ヤングは、アラジン・レコードへ吹込みを行っています。詳しくは「レスター・ヤング 1947年」をご覧ください。
コールはこの年もギター、ベースというトリオで、弾き語りナンバーをレコーディングしています。8月から10月の録音の間にベースがオスカー・ムーアからアーヴィング・アシュビーに代わっています。写真右のギターはアーヴィング・アシュビー。詳しくは「ナット・キング・コール 1947年」をご覧ください。
僕の持っているこの年のミルドレッド・ベイリーの音源は3曲だけですが、エリス・ラーキンス(P)のトリオがバックを務めたナンバーなど、実にジャズらしくていい。詳しくは「ミルドレッド・ベイリー 1947年」をご覧ください。
ビリー・ホリデイはこの年はデッカの専属でした。2月に映画で共演したルイ・アームストロングのカーネギー・ホールに客演し、同じく2月にボブ・ハガートがリーダーを務めるオーケストラの伴奏で4曲ほどレコーディングを行っています。残念ながらスタジオ・レコーディングはこの4曲だけです。そして4月には出演した映画『ニューオリンズ』が公開されます。詳しくは「ビリー・ホリデイ 1947年」をご覧ください。
サラ・ヴォーンは、この年ジョージ・トレッドウェル(夫君)やテド・デイルのストリングス入りのオーケストラの伴奏を得て、実に堂々たる歌唱の数々を披露しています。詳しくは「サラ・ヴォーン 1947年」をご覧ください。
このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1947年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみます。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。
| ミュージシャン名 | 生年月日 | 生地 | 自伝・評伝 | 著者 |
| ビル・エヴァンズ | 1929年8月16日 | ニュージャージー州プレンフィールド | 評伝『幾つかの事柄』 | 中山康樹 |
| 穐吉敏子 | 1929年12月12日 | 旧満州国遼陽 | 自伝『ジャズと生きる』 | 穐吉敏子 |
| ウエイン・ショーター | 1933年8月25日 | ニュージャージー州ニューアーク | 評伝『フットプリンツ』 | ミシェル・マーサー |
ビル・エヴァンスは、1929年8月16日生まれなので、17〜18歳に当たります。息子のエヴァン・エヴァンズが編集した若き日のビルの演奏遺稿集CD"Bill Evans/Very Early"(右)に、1947年の音源が収められています。また中山康樹氏によれば、1946年9月から始まるニューオリンズ時代は、エヴァンズの独自のスタイルの土台が築かれる重要な時期とは述べています。ニューオリンズ時代エヴァンズのアイドルは、バド・パウエル、ナット・キング・コール、そしてアール・ハインズの3人でした。「しかしエヴァンズの独特なコード展開やヴォイシングや音色は彼らとは、明らかに質を異にする。ミュージシャンの音楽的なスタイルや個性といったものが実践を通して確立されていくものとするなら、それはトリオを組んで恒久的な演奏活動をしていたニューオリンズ時代を置いて他にない」と言います。それにエヴァンズが左利きなこと、ニューオリンズで演奏した場所のピアノが、ほとんどの場合♭気味だったこと(他のメンバーがB♭で演奏する場合エヴァンズはBで弾かなければならない)等が影響したのではないかと中山氏は推測しています。それに加えて、1946年のように歌伴をすることが多かったことも大きかったのではないかと言います。
| Piano | … | ビル・エヴァンズ | Bill Evans |
| Clarinet | … | ラス・ロカンドロ | Russ Locandro |
| Bass | … | ウォルト・"ケイ"・コワルスキー | Walt "Kaye" Kawalski |
| CD-9. | アイ・メイ・ビー・ロング | I may be wrong |
| CD-10. | アラモ | Alamo |
エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1947年は17〜18歳。大分の家族と離れて、福岡のダンス・バンドで仕事をしていた。そこで3か月ほど経った頃、憧れの山田竜太郎という人の率いるビッグ・バンドに入ることになった。そこで初めてアパートというものに入り、生活することになる。山田竜太郎のバンドは九州で唯一のAクラスのバンドだったので、演奏は将校クラブで行われた。将校クラブには電蓄があり、ジーン・クルーパ・トリオの「ダーク・アイズ」やデューク・エリントンの「クレッシェンド・アンド・ディミニエンド・イン・ブルー」などを聴いたが、エリントンのバンドは抽象的で分かり難く、クルーパのドラミングに魅了された。昼間はアパートから歩いて将校クラブへ行き、レコードをかけて曲やソロを採譜して、弾いてみた。山田竜太郎のバンドには10か月ほどいた。