僕の作ったジャズ・ヒストリー 32 ビ・バップの時代4 1947年

トルーマン大統領

1946年3月アメリカを訪問した英国の前首相チャーチルは、ミズーリ州フルトンで「バルト海のシュテッティン(ポーランド)からアドリア海のトリエステ(イタリア北東部)まで、ヨーロッパ大陸に鉄のカーテンが降ろされた」と演説し、ソ連が東ヨーロッパ諸国の共産主義政権を統制し、西側の資本主義陣営と敵対している状況を非難しました。この演説は冷たい戦争(東西冷戦)の幕開けを示すものと捉えられています。時のアメリカ大統領トルーマン(写真右)は、翌47年3月英国からの要請で、共産主義勢力を抑えるため、ギリシャとトルコに経済援助を行うことを言明します。このいわゆるトルーマン・ドクトリンは、世界の現状を多数者の意志に基づく自由な生活様式と「恐怖と圧制」の政治秩序との闘争と捉え、前者の自由主義を守るためには、アメリカは他地域に介入することも避けられないと説明しています。そして47年7月トルーマンは国家安全保障法を成立させ、軍事・外交政策の立案・実施プロセスを再編していきます。
トルーマンが取り組んだ「国家安全保障国家」は、全面的に国内から支持されたわけではありません。共和党や民主党リベラル派からも反対の声が上がっていました。トルーマンの「国家安全保障国家」を最も支持し、後押ししたのは南部民主党でした。南部は第二次世界大戦中から訓練基地等の国防関連の公共事業を集中的に受注し、冷戦がもたらす軍需の恩恵を最も受けていたのです。そして南部民主党にとって、反共政策と並ぶ重要課題は、白人優位の人種関係の維持でした。しかしそんな南部民主党もトルーマンを全面的に支持していたわけではありません。というのもトルーマンは、国家安全保障の観点から、一定の人種関係の改革を志向していたからでした。1947年10月に出版されたトルーマンの指示によって行われた国内の人種問題の調査報告書は、南部諸州とワシントンDCの人種隔離を強く批判しています。デュボイスが指導するNAACP(National Association for the Advancement of Colored People:全米黒人地位向上協会)などの活動もありながら、まだまだ人種差別は厳然と行われていたのです。その状況は、この年メジャー・リーグにデビューしたジャッキー・ロビンソンの事例からもわかります。

アメリカの大衆スポーツ・芸能

[プロ野球] … ジャッキー・ロビンソンのメジャー・デビュー
ジャッキー・ロビンソン

この年最大の話題は、1901年以降初の黒人選手であるジャッキー・ロビンソン(写真)がメジャー・リーグにデビューしたことでした。このことが発表されるや球界はたちまち騒然となりました。16球団のオーナー会議で、ドジャースが黒人選手を採用すると言い出した時、賛成1、反対15でドジャース以外の球団は全て反対したのです。しかしコミッショナーはロビンソンにプレーさせることを決断します。
1947年4月15日、ドジャースの本拠地エベッツ・フィールドで行われた対ボストン・ブレーブス戦でロビンソンはデビューしました。この試合には2万6623人の観衆が入場しましたが、半数以上の1万4000人は黒人だったそうです。
一方、フィラデルフィアなど幾つかの都市ではドジャースの宿舎に脅迫状が舞い込み、ドジャースの属するナショナル・リーグの選手がストライキを起こすという噂が広がり、またセントルイス・カージナルスの一部の選手がドジャースの本拠地での試合をボイコットするという情報も伝わります。しかしカージナルスのブリードン会長がストライキの首謀者を説得し事なきを得ます。
こうした報告を受けたナショナル・リーグのフリック・フォード会長は、ストライキを起こせば無期限の出場停止処分を科すと言明し、またフィラデルフィア・フィリーズのベン・チャップマン監督には試合中にロビンソンに汚いヤジを浴びせたことで譴責処分を下します。このリーグ会長とコミッショナーの強い姿勢、そしてドジャースの監督がロビンソンを擁護することで次第にチーム内では、彼の存在を認めるようになっていきます。

ジャッキー・ロビンソンとフィリーズのベン・チャップマン

ドジャースのチーム・メイトの中にもロビンソンを排斥する動きが一部にありました。しかし監督のフィリーズ監督への猛抗議から、チーム内の雰囲気は変わっていきました(写真右はロビンソンとフィリーズのベン・チャップマン 1947年)。そしてシーズン半ば頃、その実力を示し始めると、スポーティング・ニュース社はこの年から制定された最優秀新人賞(新人王)の候補者にロビンソンを挙げるに至ります。シーズン終了後、ロビンソンは151試合に出場して打率.297・打点48・本塁打12本・安打175本・盗塁29の素晴らしい成績で盗塁王を獲得、新人王に選ばれます。そして今ではこの賞はジャッキー・ロビンソン賞の別名が付けられて、彼の背番号42は半世紀後に全球団永久欠番となっています。
ロビンソンの活躍により、クリーブランド・インディアンスのオーナーであるビル・ベックはアメリカン・リーグの黒人選手第1号としてラリー・ドビーと契約、ドビーは7月5日の対ホワイトソックス戦でデビューします。そしてその2週間後には同じアメリカン・リーグのセントルイス・ブラウンズが2名の黒人選手の採用を決め、8月にはドジャースはもう一人投手として初めて黒人選手ダン・バンクヘッドと契約しました。
しかし問題はグラウンド内だけではありません。チームが移動中に食事のためにレストランに入っても、ロビンソンを断る店があり、白人選手がレストランで食事中、ロビンソンはバスで、皆が戻ってくるまで待たなければなりませんでした。ドジャースのもう1人の黒人選手テスト生が「こんなことなら、いっそニグロリーグに帰ろう。」と言うと、ロビンソンは「それでは放棄試合だ。われわれは9対0で負けになる。」と答えたと言います。ドジャースのリッキーGMはロビンソンのこの忍耐強さを買っていました。初めて契約する黒人選手は力量以上に強靭な精神力も求められたのです。ロビンソンは、決して自暴自棄にならず、反抗的にもならず、ひたすら耐えてプレーに打ち込みました。如何なるヤジや嫌がらせを受けても反撃しない、そんな「反撃しない勇気」が求められたのです。

「我らの生涯の最良の年」ポスター
<映画>

1946年の作品を対象とするこの年の第19回(1947年3月13日発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのは、ウィリアム・ワイラー監督フレドリック・マーチ主演の「我らの生涯の最良の年(The best years of our lives)」でした。この作品は作品賞の他監督賞、主演男優賞、助演男優賞、脚色賞、音楽賞、編集賞の7部門を受賞しました。物語は、第二次世界大戦後に市民生活に復帰した復員兵が直面する様々な社会問題をテーマにした数少ない社会派作品の1つです。

[ポピュラー・ミュージック]

1947年の年間ヒットチャートを見てみましょう。

順位アーティスト曲名
フランシス・クライグ(Franis Craig)ニア・ユー(Near you)
ペリー・コモ(Perry Como)チババ・チババ(Chi-Baba,Chi-Baba)
ヴォーン・モンロー(Vaughn Monroe)バレリーナ(Ballerina)
テックス・ウィリアムズ・アンド・ザ・ウエスタン・キャラヴァン(Tex Williams & the western caravan)スモーク!・スモーク!・スモーク!(Smoke! smoke! smoke!)
ジェリー・ムラッズ・ハーモニーキャッツ(Jerry Murad's harmonicats)ペグ・オー・マイ・ハート(Peg O' my heart)
テッド・ウィームズ(Ted Weems)ハートエイク(Heartaches)
カウント・ベイシー(Count Basie)オープン・ザ・ドア・リチャード(Open the door , Richard)
ウディ・ガスリー(Woody Guthrie)我が祖国(This land is your land)
フランク・シナトラ(Frank Sinatra)マムゼル(Mam'selle)
10アート・ランド(Art Lund)マムゼル(Mam'selle)
[Count Basie/Open the door , Richard]SP盤

1位に輝いたのはフランシス・クライグの「ニア・ユー」。クライグはナッシュヴィル出身のピアニスト兼バンド・リーダー。「ニア・ユー」は時々ブギー・ウギーのスタイルを盛り込んだ実に楽しいダンス・ナンバーです。2位はこの時代最高の人気歌手ペリー・コモの「チババ・チババ」。副題に"My bambino go to sleep"(bambinoはイタリア語で赤ちゃん)とあるように、赤ちゃんを寝かしつける時の子守歌、コモの優しいバリトン・ヴォイスが効いています。3位のヴォーン・モンローも当時の人気歌手。「バレリーナ」はミュージカルか映画音楽かな?4位は「煙だ!煙だ!煙だ!」は、この後あのタバコだと続きます。カントリー・ウエスタンのトーキング・ブルース・スタイルの面白ソングといえそうです。5位のジェリー・ムラッズ・ハーモニーキャッツは、ジェリー・ムラッドを中心としたハーモニカ・トリオのインスト・ナンバー。
第6位のテッド・ウィームズはバンド・リーダーで、「ハートエイク」(心の痛み)というタイトルとは似つかわしくない、「南京豆売り」のようなラテン・フレーヴァーの明るいインスト・ナンバー。7位の「戸を開けろ、リチャード」は初めて聴きました。ほとんど語りとドアを叩く音、バンド・メンバーによるコーラスなどで構成された面白ナンバー。8位は、放浪のフォーク・シンガー、ウディ・ガスリーの「我が祖国」。これがオリジナルで、後にピーター・ポール・アンド・マリーなど多くの歌手に歌われました。9位と10位は同じ曲。マムゼル(Mam'selle)とは、「マドモアゼル」のこと。映画監督としても有名なエドムンド・ゴウルディングの作曲したナンバー。フランク・シナトラはご存じの人気歌手。アート・ランドもバリトン・ヴォイスが特徴の当時の人気シンガー。またこの年もベスト10には、女性が一人も入っていません。46年もそうでした。一体どうしちゃったんでしょう?

ジャズ界の動き

ラッキー・ミリンダ―・オーケストラ

1940年代後半はビッグ・バンドの受難の時代と言われます。第二次世界大戦の勃発によって相次いでバンドのメンバーを兵役に取られ、戦時特別税としてダンス・ホールやキャバレーには重税がかけられ、それらの多くは閉鎖に追い込まれました。すなわちビッグ・バンドを維持するのには極めて困難な時代でした。ビッグ・バンドの活動は低調になっていきます。多分活発に活動できていたのは、ダンスに特化したビッグ・バンドたちだったのだと推測されます。そんなバンドの一つに、ラッキー・ミリンダ―のバンドが挙げられます。「ラッキー・ミリンダ― 1947年」をご覧ください。
また当時盛んにできたマイナー・レーベルは経費節減のためビッグ・バンドの録音には見向きもしませんでした。また当時急激なビ・バップの勃興は、若手ミュージシャンに大きな影響を与え、これまで演じられてきた同じコンセプトでの一体化したスイング感の破綻も危惧されるようになっていたのです。人々の関心もビ・バップと52丁目を中心に活動しているコンボ演奏に向かっていました。ビッグ・バンドでもビ・バップ的な演奏をいち早く取り入れたウディ・ハーマンやプログレッシヴ・ジャズで名を売ったスタン・ケントンなどの白人モダン・ビッグ・バンドに注目が集まっていきます。そしてモダン期に活躍する多くのジャズがどんどんレコーディングのデータに名前が載るようになってきました。

黒人ビッグ・バンド

デューク・エリントン・オーケストラ
デューク・エリントン
この年のエリントンは、ラジオのトランスクリプションや実況録音などは相変わらず多いが、スタジオ・レコーディングはあまり多くありません。前年1946年末に開幕したミュージカル・ショウ「ベガーズ・ホリデイ」が、100回を超えるロング・ランを記録したとのことで、音楽を担当したエリントン・バンド(写真右)はその公演ごとに演奏していたのかもしれません。また恒例のカーネギー・ホールでのコンサートは、年も押し詰まった12月26日、27日行われました。このコンサートでは、リベリア政府から依頼されていた、共和国建設100年を祝う「リベリア組曲」が初演されました。詳しくは「デューク・エリントン 1947年」をご覧ください。
1947年のベイシー楽団
カウント・ベイシー
ベイシー楽団は1947年から50年2月まで、専属のヴィクターに60曲ほどのレコーディングを行っています。決して少ない数ではありません。またジャズ的な魅力は希薄ですが、ヒット・チャートに見られるように、"Open the door , Richard"のような大ヒット曲も生まれます。しかし日本でも30年代から40年代初めまではベイシー楽団(写真左)の吹込みはほとんど発売されていましたが、40年代後半から50年代はほとんど発売されなくなりました。ただこの年の吹込みは、11曲ほど「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第10巻/ビッグ・バンド・イーラ 第2集」に収録されています。詳しくは、「カウント・ベイシー 1947年」をご覧ください。

「ライオネル・ハンプトン・オール・スターズ/スターダスト」ジャケット
その他の黒人ビッグ・バンド
安定してビッグ・バンドを率いていた人物にビリー・エクスタインがいます。ただ彼のバンドを支えていたのは、ヴォーカリストとしてのエクスタインの人気だったと言えるでしょう。しかしこの年は、ワーデル・グレイを擁したスモール・バンドの録音などを残しています。詳しくは、「ビリー・エクスタイン 1947年」をご覧ください。
主に自身のビッグ・バンドを率いていたベニー・カーター自身の吹込みは持っておらず、持っているのはサイドメンとして参加した吹込みのみです。ただ実質的にリーダーシップを取っていたとは思われるのです。詳しくは、「ベニー・カーター 1947年」をご覧ください。
ライオネル・ハンプトンが自身のビッグ・バンドを率いて活動していたかどうかは分かりませんが、ジーン・ノーマンの主催する「ジャスト・ジャズ」コンサートにおける有名な演奏やチャールズ・ミンガスをベースに起用した貴重な録音が見られます。詳しくは、「ライオネル・ハンプトン 1947年」をご覧ください。
訃報 …ジミー・ランスフォード
かつてエリントン、ベイシーと並ぶ三大黒人ビッグ・バンドと言われた楽団を率いたジミー・ランスフォードが楽旅中に倒れ、この年7月13日に亡くなりました。45歳という若さでした。

白人ビッグ・バンド

ウッディ・ハーマン

この時代、人気、実力ともNo.1だったと言われるウディ・ハーマン率いる「ファースト・ハード」。しかし1946年12月10日ハーマンは、突然の解散宣言をし、バンドのメンバー、ファンたちをびっくりさせます。かくして1947年1月実力、人気とも頂点にあったウディ・ハーマンの楽団は解散するのです。しばらく家族と楽しく日々を送り、趣味でゴルフも始めましたが、今一つ満足する事が出来ませんでした。ハーマンは所詮バンドと共に生き、常に新しいアイディアに挑むミュージシャンだったのです。心底から何か創造的なことを手掛けずにはいられないハーマンは、解団して1年足らず、1947年秋にはメンバーをほぼ一新してバンドを結成し、リハーサルを始めます。「セカンド・ハード」(写真左)の誕生です。詳しくは「ウッディ・ハーマン 1947年」をご覧ください。

スタン・ケントン
スタン・ケントンもこの年、4月から9月にかけてバンドを解団していたようですが、1年を通してみると、この年順調にユニークな演奏を記録しています。人気歌手ジューン・クリスティが在団しており、新人のアート・ペッパーやギターのロウリンド・アルメイダなどが加入してきます。また「南京豆売り」などアフロ・キューバンのリズムを取り入れるなど進取気鋭のバンド運営を行っています。詳しくは「スタン・ケントン 1947年」をご覧ください。

ボイド・レーバーン

これまで斬新な演奏を行いながら、ほとんど知られていなかったボイド・レーバーン楽団。経営上の理由からかこの年の演奏はポップス寄りで、ジャズ的魅力が薄れてきています。詳しくは「ボイド・レーバーン 1947年」をご覧ください。

ギル・エヴァンス
クロウド・ソーンヒル
唯一無二の「サウンド・オブ・クラウド」(Sound of Cloud:雲のサウンド)と呼ばれたクロウド・ソーンヒル楽団はこの1947年、アレンジャー、ギル・エヴァンス(写真右)の活躍も相まって、非常に実り多いものになります。チャーリー・パーカーの「アンスロポロジー」や「ヤードバード組曲」、マイルス・ディヴィス作曲の「ドナ・リー」を吹き込むなど積極的にビ・バップを取り入れていきます。ここで生まれたエヴァンスとマイルスの協調は次の時代を築いていきます。詳しくは「クロウド・ソーンヒル 1947年」をご覧ください。

その他の白人ビッグ・バンド

このコーナーの常連ベニー・グッドマンが自身のビッグ・バンドを率いて吹込みを行ったレコードは、持っていません。キャピトルの企画ものに加わった吹込みや映画出演の音楽などを保有している程度です。詳しくは「ベニー・グッドマン 1947年」をご覧ください。
常連組の一人は、キャピトルの企画ものの他に2曲だけ自己名義の録音が「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ/ザ・サウンド・オブ・スイング」に収録されています。詳しくは「トミー・ドーシー 1947年」をご覧ください。
ジーン・クルーパは、この年もまだ自己のビッグ・バンドを維持していました。注目はアレンジャーとして若干19歳のジェリー・マリガンがデビューしてることです。詳しくは、「ジーン・クルーパ 1947年」をご覧ください。

ビ・バップの隆盛

チャーリー・パーカー

チャーリー・パーカー(以下バード)は1947年1月末カマリロ病院を退院し、シャバへ戻ってきます。しばらくはロスアンゼルスにいて、クラブに出演したり、ダイヤル・レコーズへ吹き込みを行ったりしていましたが、4月の初めついにニューヨークへ戻ります。ニューヨークでのパーカーは、有名なレコーディング・アーティストであり、ディジー・ガレスピーと同じレベルのバンド・リーダーとしてもてはやされる人間になっていました。パーカーは、マネージャーとしてビリー・ショウと契約、そしてパーカー自身が5人編成のバンドを組むという条件で、クラブ「スリー・デューセズ」と週給800ドルで4週間の好条件の出演契約を交わします。このクインテットは、「クラシック・クインテット」(写真左)と呼ばれ、数々の名演を記録していくことになります。詳しくは「チャーリー・パーカー 1947年」をご覧ください。

ディジー・ガレスピー

大のビッグ・バンド好きで知られるディジー・ガレスピーが前年1946年5月に再編した第二次ビッグ・バンド(写真右)は、色々メンバー・チェンジを重ねながらまさに絶頂期を迎えようとしていました。今となっては伝説にも近いこのビッグ・バンドの真価を一言でまとめれば、「一種の粗暴さの魅力」、桁外れの野性味にあったと言えるでしょう。バンドのスタイルは、ディズの旧友ギル・フラーによって設定され、加えてタッド・ダメロンやジョン・ルイス、ジョージ・ラッセルといった才能あるアレンジャーが手の込んだ編曲を提供しました。そして年末には、キューバの天才パーカッション奏者チャノ・ポゾが加わり、バップらしいアンサンブルとポゾのアフロ・キューバンのリズムが相俟って、最高度にエキサイティングなビッグ・バンド・ジャズを生み出していきます。詳しくは「ディジー・ガレスピー 1947年」をご覧ください。

「マイルス・ディヴィス/ファースト・レコーディング」CDジャケット
マイルス・ディヴィス

マイルスは、バードを追ってビリー・エクスタインのバンドに加入して1946年夏からロスアンゼルスにやって来ていました。そしてエクスタインのバンドの仕事がないときはスモール・グループを作って“フィナーレ”のような小さなクラブに出演したり、当時非常に仲良くなったチャールズ・ミンガスとリハーサルをしていたそうです。しかしバードはおかしくなって、カマリロに収容されてしまうと、ロスにいる理由がなくなったので、1946年の秋の終わり頃エクスタインのバンドとニューヨークに帰ろうとします。この時バードを見捨てたと思ったミンガスと口論になったというエピソードは有名です。なお、マイルスはバードやエクスタインのバンドでのプレイが評価されて、エスクァイヤ誌のTp新人賞に輝きました。
さて、ニューヨークに戻ったマイルスは、4月ニューヨークに戻ったバードに選ばれ、「クラシック・クインテット」の一員となります。実質的にクインテットを切り盛りするマイルスを見ていたサヴォイから、リーダーとしての吹込みの話が持ち込まれます。こうして初めてリーダー録音が、8月14日に行われます。詳しくは「マイルス・ディヴィス 1947年」をご覧ください。

バド・パウエル(写真右)
この年ビ・バップのもう一人の巨人、バド・パウエルがついにそのヴェールを脱ぎ、その才を見せつけます。1月にルーストへ吹き込んだトリオ演奏8曲は正にモダン・ジャズ・ピアノの先駆けとなる金字塔です。詳しくは「バド・パウエル 1947年」をご覧ください。
デクスター・ゴードン
最も早くテナー・サックスにおけるビ・バップ・スタイルを確立させたとされるデクスター・ゴードン。この年は自身のリーダー作以外にもサイドメンとして呼ばれることが多かったようで、幅広い活躍が見られます。自身のリーダー作においては、デックス自身の希望かレコード会社の要望かは分かりませんが、ワーデル・グレイやテディ・エドワーズなどとバトルを繰り広げています。またこの年注目すべき録音として、ザ・バップランド・ボーイズの一員として参加したロスアンゼルス/エルクス・オウディトリアムでの実況録音5曲は、それぞれ20分前後の長尺で、この時代を代表するバッパー達のソロの応酬が実に聴き応えがあります。詳しくは「デクスター・ゴードン 1947年」をご覧ください。

ファッツ・ナヴァロ
ファッツ・ナヴァロ
この時期ディジー・ガレスピーに次ぐトランぺッターと言えば、やはりファッツ・ナヴァロ(写真左)だったのではないでしょうか?色々な本を読むと、ニューヨークに帰ってきたチャーリー・パーカーが、新たなバンドを組むとすれば、最も相応しいのはナヴァロだという声が多かったそうです。そんな名声を裏付けるようにこの年は、自身名義やサイドメンとして呼ばれた多くの録音があります。特にタッド・ダメロンと組んだコンボは、ダメロンの才気も加わり実に高質なクォリティを実現しています。詳しくは「ファッツ・ナヴァロ 1947年」をご覧ください。
スタン・ゲッツ
スタン・ゲッツは、この年はウディ・ハーマンの楽団にあって、「フォー・ブラザース」の一角を担っていました。詳しくは「スタン・ゲッツ 1947年」をご覧ください。
ワーデル・グレイ
ソニー・ロリンズ以前最高のテナー・マンとも評されるワーデル・グレイ。この年はバードと共演したり、デックスと競演したりと引っ張りだこだったようです。詳しくは「ワーデル・グレイ 1947年」をご覧ください。
チャールス・ミンガス
この年チャールス・ミンガス(写真右)の活動で目についたのは、ライオネル・ハンプトンとのレコーディングです。既に名を成しているハンプトンが、この時点ではまだそれほど知られていないミンガスを起用してのレコーディングは、かつて1939年全くの新人だったギターのチャーリー・クリスチャンを起用してレコーディングを行ったことを想起させます。才能ある若者の育成に力を尽くしていたのではないかと思われます。それに応えてかミンガスは自身が作曲した"Mingus fingers"などでは、時折アルコ・プレイを交えながら、アンサンブルやハンプトンと絡み合いながら、ベース・プレイを縦横に展開しています。詳しくは「チャールス・ミンガス 1947年」をご覧ください。

その他のバップ系アーティスト

ハワード・マギー
ハワード・マギー(写真左)
1946年から1947年にかけてはチャーリー・パーカーやマイルス・ディヴィスの世話役のような役割で取り上げられることが多かったが、実はれっきとした進歩的なミュージシャンである。パーカーがニューヨークに去った後は、自己のリーダー作を吹き込み、或いはサイドメンとして様々なセッションに呼ばれるなど活躍しています。詳しくは「ハワード・マギー 1947年」をご覧ください。
アート・ペッパー
兵役から解放され、1947年10月再編されたケントン楽団に戻ってきます。彼の特徴であるクールな音色と繊細なフレージングの萌芽が既に見られます。詳しくは「アート・ペッパー1947年」をご覧ください。

ラッキー・トンプソン(写真右)
テナー・サックスにおけるスイングとバップの架け橋のように言われるトンプソン。スイングどころかこの年はルイ・アームストロングのバンドに加わった録音や自己名義のバップ臭の濃いものなど幅広い活動が見られます。。詳しくは「ラッキー・トンプソン 1947年」をご覧ください。
ドン・バイアス
そして46年後半からドン・レッドマンの楽旅に加わり、年初は欧州にいました。現地でワン・ホーンのリーダー作を吹き込んでいます。詳しくは「ドン・バイアス 1947年」をご覧ください。

ミルト・ジャクソン
ミルト・ジャクソン(写真左)
ミルト・ジャクソンのこの年の録音はディズのビッグ・バンドに加わっての録音しか持っていません。詳しくは「ミルト・ジャクソン 1947年」をご覧ください。

レイ・ブラウン
ディジー・ガレスピーの秘蔵っ子レイ・ブラウンはこの年、ディズ絡みのセッションの土台を支える重要なリズムマンとして活躍しています。詳しくは「レイ・ブラウン 1947年」をご覧ください。
アート・ブレイキー
この年もビリー・エクスタインのバンドに在団していたと思われますが、この年のエクスタイン自身の録音が少なく、よく分かりません。デックスのコンボに加わった録音があります。詳しくは「アート・ブレイキー 1946年」をご覧ください。

マックス・ローチ(写真右)
マックス・ローチは、チャーリー・パーカーのクラシック・クインテットのメンバーに選ばれ、No.1ビ・バップ・ドラマーといての地位を確定させていきます。詳しくは「マックス・ローチ 1947年」をご覧ください。
ジーン・アモンズ
1944年ビリー・エクスタインの楽団で、デクスター・ゴードンと史上初のテナー・バトルを展開して名を成しましたが、この年独立した自己のグループを率いるようになります。詳しくは「ジーン・アモンズ 1947年」をご覧ください。

ドド・マーマロサ
ドド・マーマロサ(写真左)
ドド・マーマロサはこの年フリー・ランスの進歩的ピアニストとして西海岸において確固たる地位を築き上げつつあったようです。詳しくは「ドド・マーマロサ 1947年」をご覧ください。
ハンク・ジョーンズ
ハンク・ジョーンズは、実力あるバップ・ピアニストとしてその活動領域を広げていきます。詳しくは「ハンク・ジョーンズ 1947年」をご覧ください。

エロール・ガーナー
エロール・ガーナー(写真右)(写真左)は、この年チャーリー・パーカーなどといい仕事をしています。詳しくは「エロール・ガーナー 1947年」をご覧ください。

ジョン・ルイス
基本的には、在団していたガレスピーのビッグ・バンドで活動していましたが、マイルス・ディヴィスの初のリーダー録音に呼ばれています。詳しくは「ジョン・ルイス 1947年」をご覧ください。
オスカー・ピーターソン
オスカー・ピーターソンは、この年もまだ地元のカナダで活動していました。詳しくは「オスカー・ピーターソン 1947年」をご覧ください。

ニュー・カマーズ

セロニアス・モンク
ニュー・カマー … セロニアス・モンク(写真左)
セロニアス・モンクは初めてではありませんが、これまで登場したのは、ミントンズ・プレイハウスにおけるセッションのジェリー・ニューマンによるプライヴェート録音やコールマン・ホウキンスのバンドなどで録音歴はあるものの、本領を発揮したスタジオ録音はありませんでした。それがこの年の10月15日ついにスタジオで初リーダー作を吹き込みます。発売は翌1948年なので、即ジャズ界への影響を及ぼしたということはありませんでしたが、ガレスピーやパーカーなどとは全く異なるモンクス・ビ・バップが初めて記録されることになったのです。またこの異端児モンクの録音を行ったマイナー・レーベル、ブルーノートの存在感もジャズ界にしっかりと植え付けられていきます。詳しくは「セロニアス・モンク 1947年」をご覧ください。

レニー・トリスターノ
ニュー・カマー … レニー・トリスターノ(写真右)
ジャズ本流から見た時に異端児的イメージのあるレニー・トリスターノ。僕はデビューしたてのこの時点の演奏を聴いて特別異端とは思わないのだが、これから彼はどんな道を歩んでいくのだろうか?ともかくこの年はその入り口の年に当たるのではないかと思う。詳しくは「レニー・トリスターノ 1947年」をご覧ください。
ニュー・カマー … リー・コニッツ
レニー・トリスターノ・スクールの代表的プレイヤー、リー・コニッツはこの年クロウド・ソーンヒルのオーケストラにおいてレコーディングデビューしました。詳しくは「リー・コニッツ 1947年」をご覧ください。

ニュー・カマー … J・J・ジョンソン
拙HPでもJ・J・ジョンソン(写真左)は初めての登場ではない。またこの年ジョンソンは当時弱冠23歳だったが、既にモダン・トロンボーンの第一人者だったという。この年のチャーリー・パーカーの吹込みに参加することによって、彼の恐るべきテクニックや才能が並のものではないことが知れ渡ったのではないでしょうか?詳しくは「J・J・ジョンソン 1947年」をご覧ください。
タッド・ダメロン
1945年以来度々その名前が出てきましたが、今回から一項目で取り上げることとしました。詳しくは「タッド・ダメロン 1947年」をご覧ください。
その他のニュー・カマー達
ソニー・クリス ソニー・クリス(写真右) … 明るくよく歌うアルト・サックス奏者というイメージがあるソニー・クリス。拙HPではこの年に初登場します。詳しくは「ソニー・クリス 1947年」をご覧ください。
デューク・ジョーダン … 日本で大変に人気のあるピアニストであるデューク・ジョーダン。1946年ロイ・エルドリッジの録音で初登場していますが、チャーリー・パーカーの<クラシック・クインテット>のピアニストとして採用されることで一躍注目を浴びる存在となります。詳しくは「デューク・ジョーダン 1947年」をご覧ください。
ハンプトン・ホウズ … 彼も日本で大変に人気のあるピアニスト。この年ハワード・マギーの吹込みでレコーディング・デビューします。詳しくは「ハンプトン・ホウズ 1947年」をご覧ください。
ジュニア・マンス … ジュニア・マンスも日本で人気が高いピアニストです。この年ジーン・アモンズの吹込みに参加しデビューします。詳しくは「ジュニア・マンス 1947年」をご覧ください。
レッド・ロドニー … この年クロウド・ソーンヒルの楽団でレコーディング・デビューします。詳しくは「レッド・ロドニー 1947年」をご覧ください。
ジミー・ジュフリー … 「思索するミュージシャン」ジミー・ジュフリーの拙HPデビューです。詳しくは「ジミー・ジュフリー 1947年」をご覧ください。
カイ・ウィンディング … 1945年のベニー・グッドマンのレコーディングで初登場したカイ・ウィンディング。J・J・ジョンソンと並ぶバップ・トロンボーン奏者として今回から取り上げていきましょう。詳しくは「カイ・ウィンディング 1947年」をご覧ください。
ジェリー・マリガン … 20歳弱にも拘らずこの年ジーン・クルーパ楽団のアレンジャーとして、登場します。詳しくは「ジェリー・マリガン 1947年」をご覧ください。
スタン・八セルガード … この年1947年7月スウェーデンからアメリカへ渡航してきたクラリネット奏者。詳しくは「スタン・八ッセルガード 1947年」をご覧ください。
ズート・シムス … この年のウディ・ハーマンのセカンド・ハードから名前が見られるようになります。詳しくは「ズート・シムス 1947年」をご覧ください。

これまでに登場したバップ系のミュージシャン、ジョー・オルバニー、アル・ヘイグ、ケニー・ダーハム達のこの年の録音を持っていません。

ニューオリンズ・リヴァイヴァルとニュー・オリンズ・ジャズ

バンク・ジョンソン(写真左)

1947年秋、バンク・ジョンソンは前年春に解散したバンドのメンバーを補充して、ニューヨークの「スタイブサント・カジノ」(Stuyvesant casino)のステージに戻ってきます。新しいメンバーは実績のあるミュージシャンばかりで、これはたぶん自分に見切りをつけて去っていった、ジョージ・ルイスやジム・ロビンソン、ロウレンス・マレロに対する意趣返しということもあったと思われます。しかし結果は全くと言っていいほど受けませんでした。そこでこのバンドをPRしようと考え、レコードを作ることにします。このレコーディングを終えた1週間後、バンクは故郷のニューオリンズに戻ります。そして翌1948年脳卒中で倒れ、翌年7月7日帰らぬ人となるのです。69歳でした。つまりこの時の吹込みが最後の吹込みとなってしまいます。詳しくは「バンク・ジョンソン 1947年」をご覧ください。

ルー・ワターズ
ルー・ワターズ率いるヤーバ・ブエナ・ジャズ・バンド(Lu Watters' Yerba Buena Jazz Band)の録音が1曲だけあります。この後1950年ワターズはコルネットと経営していたクラブを人手に譲り、「僕はジャズを捨てる。一生の仕事として鉱物学を完成する」と言い残して、一台のトレーラーに身を託して砂漠の彼方に消えていったのだそうです(油井正一氏)。詳しくは「ルー・ワターズ 1947年」をご覧ください。

これまでに登場したニューオリンズ・ジャズ系のミュージシャン、ジョージ・ルイス、ディンク・ジョンソン、キッド・オリィ、エディ・コンドン達のこの年の録音を持っていません。

ジーン・ノーマン

マガジン系及びレーベル系ジャム・セッション・レコード

ノーマン・グランツの主催するジャム・セッション・コンサート、J.A.T.P.はこの年も盛んにおこなわれます。またこの年の夏から西海岸において影響力のあるディスク・ジョッキーであるジーン・ノーマン氏(写真右)が主宰する「ジャスト・ジャズ・コンサート」も開かれるようになりました。また単発企画としてキャピトル・レコードもレコーディングを行っています。J.A.T.P.の録音については「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック 1947年」を、ジャスト・ジャズ・コンサートについては、「ザ・ジャスト・ジャズ・コンサート 1947年」を、キャピトル・レコードについては、「ザ・ハリウッド・ハクスターズ 1947年」をご覧ください。
雑誌"Metronome"誌の行うメトロノーム・オールスターズによるレコーディングの第7回目は、新しく参入したキャピトル・レコーズに47年12月にの録音が行われますが、これは音源を持っていません。"Esquire"誌が加わり、1946年1月10日にレコーディング、1月16日にコンサートを行いますが、1947年には行われた形跡がありません。

サッチモのタウンホール・コンサートを報じるジャズ・トリビューン紙

その他の大御所たち

ルイ・アームストロング

ルイ・アームストロングはこの頃ビッグ・バンドを率いてエンターティナーとして活動していましたが、レナード・フェザー氏を初めとする評論家たちは、ルイは小編成のコンボの方がより活きると考えていました。そして彼らはマネージャーのジョー・グレイザーを説得して、タウンホールでコンボによるコンサートを開催します。右はその告知するジャズ・トリビューン紙。その模様は録音され、傑作の誉れ高い作品となります。詳しくは「ルイ・アームストロング 1947年」をご覧ください。

シドニー・ベシェ
シドニー・ベシェ(Ss)は、ルイと同じタウンホールで、メズ・メズロウ(Cl)とソプラノ・サックスとクラリネットというかなり変わったフロント・ラインのバンドでコンサートを行っています。詳しくは「シドニー・ベシェ 1947年」をご覧ください。

コールマン・ホーキンス
コールマン・ホーキンス(写真右)

コールマン・ホーキンスはこの年も存在感のあるプレイを聴かせてくれます。詳しくは「コールマン・ホーキンス 1947年」をご覧ください。

レスター・ヤング

この年もレスター・ヤングは、アラジン・レコードへ吹込みを行っています。詳しくは「レスター・ヤング 1947年」をご覧ください。

アート・ティタム
僕はこの年のアート・ティタムは「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第6巻/クラシック・ジャズ・ピアノの真髄」に収録されたピアノ・ソロ4曲しか持っていません。詳しくは「アート・ティタム 1947年」をご覧ください。

ジャック・ティーガーデン
ジャック・ティーガーデン(写真左)
僕の持っているビッグTことティーガーデンのリーダー録音は1曲だけ。しかしルイ・アームストロングのタウンホール・コンサートのメンバーとして、素晴らしいプレイを聴かせてくれています。詳しくは「ジャック・ティーガーデン 1947年」をご覧ください。
エディ・ヘイウッド
僕の持っているヘイウッドの録音は1曲だけです。かなりコマーシャル色の強い演奏です。詳しくは「エディ・ヘイウッド 1947年」をご覧ください。 ナット・キング・コール・トリオ
ナット・キング・コール

コールはこの年もギター、ベースというトリオで、弾き語りナンバーをレコーディングしています。8月から10月の録音の間にベースがオスカー・ムーアからアーヴィング・アシュビーに代わっています。写真右のギターはアーヴィング・アシュビー。詳しくは「ナット・キング・コール 1947年」をご覧ください。

レッド・ノーヴォ
ノーヴォの進取気鋭の精神は、この年も旺盛で、レコーディング・セッションでも若きバッパー達と対等に渡り合っています。詳しくは「レッド・ノーヴォ 1947年」をご覧ください。
ジャンゴ・ラインハルト
ジャンゴ・ラインハルトは大変な多作家で、この年は数多いレコーディングがあるようですが、僕の持っているのは15曲、CD1枚です。これまでの録音と異なる点は、ヴィおりんのグラッペリが参加しておらず、代わりにクラリネットのヒューバート・ロステインが加わっていることです。僕の持っているレコードでホーンが入っているのは、これだけです。弦だけよりも聴きやすくなったと思うのは僕だけでしょうか?詳しくは「ジャンゴ・ラインハルト 1947年」をご覧ください。

シンガー達

ミルドレッド・ベイリー(写真左)

僕の持っているこの年のミルドレッド・ベイリーの音源は3曲だけですが、エリス・ラーキンス(P)のトリオがバックを務めたナンバーなど、実にジャズらしくていい。詳しくは「ミルドレッド・ベイリー 1947年」をご覧ください。

映画『ニューオリンズ』のワンシーン
ビリー・ホリデイ

ビリー・ホリデイはこの年はデッカの専属でした。2月に映画で共演したルイ・アームストロングのカーネギー・ホールに客演し、同じく2月にボブ・ハガートがリーダーを務めるオーケストラの伴奏で4曲ほどレコーディングを行っています。残念ながらスタジオ・レコーディングはこの4曲だけです。そして4月には出演した映画『ニューオリンズ』が公開されます。詳しくは「ビリー・ホリデイ 1947年」をご覧ください。

アニタ・オディ
アニタはこの年の2月初めて自身の名前を冠したレコードを吹き込む。当時のバンド専属歌手は、最初に自分の名前が出ることはなかったのであろう。「マラゲーニャ」などでは、器楽的な唱法でアドリブ展開を行うなど芸達者なところを見せている。詳しくは「アニタ・オディ 1947年」をご覧ください。

バブス・ゴンザレス
サラ・ヴォーン

サラ・ヴォーンは、この年ジョージ・トレッドウェル(夫君)やテド・デイルのストリングス入りのオーケストラの伴奏を得て、実に堂々たる歌唱の数々を披露しています。詳しくは「サラ・ヴォーン 1947年」をご覧ください。

バブス・ゴンザレス(写真左)
バブス・ゴンザレスは「ワードレス・ヴォーカライジング・シラブルス」と呼ばれたバップ・スキャット唱法で知られた歌手。そのバンドである「バブス・スリー・ビップス・アンド・ア・バップ」は、彼が46〜48年まで率いたレギュラー・コンボで、メンバーには、新しい感覚の作・編曲家として名高いタッド・ダメロンが在団していました。スイング的な要素も多く見られ、どちらかと言えば過渡期的な作品ですが、流石にダメロンのプレイはモダンで、大和明氏は「ブルーノート初のモダン・ジャズ録音」としています。

ミュージシャンの自伝・評伝

このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1947年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみます。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。

ミュージシャン名生年月日生地自伝・評伝著者
ビル・エヴァンズ1929年8月16日ニュージャージー州プレンフィールド評伝『幾つかの事柄』中山康樹
穐吉敏子1929年12月12日旧満州国遼陽自伝『ジャズと生きる』穐吉敏子
ウエイン・ショーター1933年8月25日ニュージャージー州ニューアーク評伝『フットプリンツ』ミシェル・マーサー
[ビル・エヴァンズ]
ビル・エヴァンスは、1929年8月16日生まれなので、17〜18歳に当たります。息子のエヴァン・エヴァンズが編集した若き日のビルの演奏遺稿集CD"Bill Evans/Very Early"(右)に、1947年の音源が収められています。また中山康樹氏によれば、1946年9月から始まるニューオリンズ時代は、エヴァンズの独自のスタイルの土台が築かれる重要な時期とは述べています。ニューオリンズ時代エヴァンズのアイドルは、バド・パウエル、ナット・キング・コール、そしてアール・ハインズの3人でした。「しかしエヴァンズの独特なコード展開やヴォイシングや音色は彼らとは、明らかに質を異にする。ミュージシャンの音楽的なスタイルや個性といったものが実践を通して確立されていくものとするなら、それはトリオを組んで恒久的な演奏活動をしていたニューオリンズ時代を置いて他にない」と言います。それにエヴァンズが左利きなこと、ニューオリンズで演奏した場所のピアノが、ほとんどの場合♭気味だったこと(他のメンバーがB♭で演奏する場合エヴァンズはBで弾かなければならない)等が影響したのではないかと中山氏は推測しています。それに加えて、1946年のように歌伴をすることが多かったことも大きかったのではないかと言います。
"Very Early"に収められている音源は4曲。
CD-7.「ボディ・アンド・ソウル」(Body and soul) … コニー・アトキンソン(B)とデュエット。
CD-8.「ザ・ベスト・マン」(The best man) … コニー・アトキンソン(B)とフランク・"フルフィ"・ロベル(Ds)
いつもトリオを組んでいるメンバーとの録音だが、中山氏はこの2曲には触れていない。特別に素晴らしくはないが、一定の水準には達しており、聴ける演奏だと思う。

<Date & Place> … 1947年8月25日 ニュー・ジャージー州ポイント・プレザントにある「アイドル・アワー・カフェ」の開店前の店内を借りて録音

エヴァンズとコニー・アトキンソンが夏休みに帰省している時に行われた。

<Personnel>

Pianoビル・エヴァンズBill Evans
Clarinetラス・ロカンドロRuss Locandro
Bassウォルト・"ケイ"・コワルスキーWalt "Kaye" Kawalski

<Contents>

CD-9.アイ・メイ・ビー・ロングI may be wrong
CD-10.アラモAlamo
中山氏によれば、これはレコードのA面B面を想定しての録音だと言います。録音はロカンドロの叔父が所有していたウエブスター社製の新しいワイヤー式録音機が使われたという。レコード盤が実際に作られたかどうかは不明ですが、レコード製作を意識して録音された以上これがビル・エヴァンスの初レコーディングであると言います。CDにも中山氏の本にもラス・ロカンドロはクラリネットとあるが、音をどう聴いても、CD-9.はテナー・サックス、CD-10.はクラリネットである。
CD-9.はロカンドロのプレイはレスター・ヤングを意識しているようだ。中々いいソロを取っている。両曲ともエヴァンズのソロが入るが、コード・プレイが多くあまり面白いものではない。

[穐吉敏子]
『ジャズと生きる』 エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1947年は17〜18歳。大分の家族と離れて、福岡のダンス・バンドで仕事をしていた。そこで3か月ほど経った頃、憧れの山田竜太郎という人の率いるビッグ・バンドに入ることになった。そこで初めてアパートというものに入り、生活することになる。山田竜太郎のバンドは九州で唯一のAクラスのバンドだったので、演奏は将校クラブで行われた。将校クラブには電蓄があり、ジーン・クルーパ・トリオの「ダーク・アイズ」やデューク・エリントンの「クレッシェンド・アンド・ディミニエンド・イン・ブルー」などを聴いたが、エリントンのバンドは抽象的で分かり難く、クルーパのドラミングに魅了された。昼間はアパートから歩いて将校クラブへ行き、レコードをかけて曲やソロを採譜して、弾いてみた。山田竜太郎のバンドには10か月ほどいた。
福岡にいる時、アコーディオン奏者の知り合いから、NHKの番組「素人のど自慢」の伴奏のアルバイトを紹介してもらう。給料は安かったから、助かった。
またその頃ヴィンセント・ロペス著『ジャズ・ピアノの弾き方』という本を借りた。そこで初めて「ストライド」奏法を知った。それまでは両手でブンチャ、ブンチャと演っていたのを、左手だけでやるようにし、右手はメロディやフレイジングを弾く。最初は慣れなかったが、何度も演っている内に慣れてきて、スイングできるようになり楽しかった。

[ウエイン・ショーター]
1933年生まれなので、13〜14歳です。評伝『フットプリンツ』には、次のようなくだりがあります。ウエインには忘れ難い晩がある‐ビ・バップとの出会い、1947年のこととありますが、聴いたというレコードは1948年の発売なので、1948年の誤りだと思われます。未だこの時期は映画が大好きな少年だったと思われます。

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